Ep.0ゼロ 二つの時間物語(時神と暦人 番外編) 一九七〇年代にtimeslip・此花と二番館興業

南瀬匡躬

Ep.0第一話 ♩1970年代にtime slip

第1話

―暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ―



ーこれは不二夏夫ふじなつおが高校生の頃のお話である。時代は平成の中頃、まだ暦人の存在すら知らない彼が、初めて時間物語を体験した時のお話であるー


   もうひとつの我が家―プロローグ

 不二夏夫は古い蔵のある家に住んでいる高校三年生。ごくありふれた境遇の少年である。そして今現在、彼はその家の蔵の中でいろいろと物色している。要は祖父からの頼まれ事で古新聞を捜していた。


「まったく、じいちゃん人使い荒いな」

 夏夫は天気の移り変わりと稲の生育関係を観察することを手伝ってほしいと祖父に頼まれたのだ。前々から新型のデジタル一眼レフを手に入れたいと思っていた。そこで祖父は交換条件を出して、手伝ってくれたら購入費用の八割を援助してくれるというのである。それはほぼ買ってもらったも同然の金額である。二つ返事でその話に乗った夏夫だった。


 稲の生育のほうは、祖父のやっている田圃の稲を夏休み前からデジカメでチェックしているので問題はない。とりあえず写真だけは予め撮っておいて、あとはまとめるだけにしてあるのだ。


「夏夫。まだみつからないのか?」

 さすがに一時間以上も蔵から出てこないので、祖父が心配して蔵の入口から首を覗かせた。

「かあさんが古新聞をいつもどこにおいているのかすらわからないよ」

 この日は母親の姿が朝から見えない。訊こうにも片付けた本人がいないのでは話にならない。

「今日は八月二十八日だな」と祖父の秋助がつぶやく。何か意味ありげにも思える。

「じいちゃん、唐突に何言っているの?」と夏夫は返す。彼は前の会話とは全く脈略のない祖父の不可思議な台詞に困惑する。

 夏夫のその言葉が届いたかどうかすらもわからないまま、秋助は夏夫に背中を向けて歩きながら「わからなくなったらまず家に戻ってくればいいさ。おれは縁側で爪を切りながら待っているからな」と声高らかに笑い去った。


「ん?」

 夏夫は祖父の意味のわからない言葉にキョトンとした。

「じいちゃん八〇歳近いだろ。でもまだ全然元気だよな? わけわかんないや」とひとりつぶやいたとき、彼の頭上の棚の上に新聞紙らしき束があることに気付いた。彼は内心『これはしめた』と思った。ただしその新聞束の場所までは荷物の山である。



 新聞束の下には使わなくなったシンクらしき姿がものの隙間から見える。その新聞束の上には、これまた使わなくなった筒状の赤いセロハンを巻いた裸電球がぶら下がっていた。よく見ればこの新聞紙の束がある空間は、昔仕切られていたようでアコーディオンカーテンのレールがシンクの周りを囲むように取り付けられている。わかる人はわかるが写真暗室である。


「なんだこの一角は? まあいいや。早いとこ新聞を集めないと」

 デジカメ世代の夏夫には、それが何をする場所なのかなど分からなかった。すかさず彼はその見つけた新聞の束に手を伸ばし取ろうとした。……がその積み上げられた新聞紙の束は幾重にも、煉瓦重ねになっていて、しかも大きさがまちまちなので不安定だ。

「あっ……」と彼が叫んだときはすでに遅く、彼は一瞬にしてなだれ落ちてきた古新聞の山の中にいた。



 ほこりが舞い上がり、突然倒れてしまったために、いったい何が起こったのかわからない。気を取り直してとにかく立ち上がった。

「ふう、怪我しないで良かった。こんな不安定に新聞紙を積み上げちゃダメだよ。あとでかあさんに文句の一つでもいってやろう」

 そんなことを言いながら彼は必要な日付の新聞を探す作業に移った。要は日付と天気、気温を抜き取るためだ。もちろんインターネットで簡単に調べられるのは百も承知。そして夏夫自身もそのつもりでいたのだが、祖父が新聞紙の天気欄を切って貼り付けるようにという指示を出したのである。いわゆるスクラップ・ブックというやつだ。農業の研究機関に提出する必要上、信憑性の面から新聞のほうが具合がいいというわけである。新型のデジタル一眼レフがかかっている以上、相手の納得する、文句なしの手伝いをしないといけない夏夫だった。

「時代は平成だぜ。まったく昭和な作業だよ!」

 頭から新聞紙のシャワーを浴びた夏夫は少々憤慨しながら、その落ちてきた新聞に目をやった。

「ダメだ」

 彼は日付を見て落ち込んだ。そこには昭和五十二年の文字である。

「出てきた新聞も昭和かよ……。いくら何でも古すぎだ」

 さすがに彼はあきらめたらしく、一旦蔵を出て縁側に行くことにした。服に付いたほこりをはたきながら、ぶつぶつと文句を続けていた。



 夏夫の家は農家の造りで玄関の横に広い縁側がある。

「じいちゃん。あきらめたよ」と縁側に座る秋助のもとに向かった。

 ところが縁側で爪を切る人物は怪訝そうな顔で夏夫を見る。

「ん。春彦……じゃあないなあ。似ているけど」

「とうさんと間違うわけないだろう。じいちゃん」と夏夫。

 秋助は不思議そうに夏夫の顔を見ながら「坊やはどこの子だ?」と問いかけてきた。

「ええっ! 今さっき土蔵の中を覗きに来たのにもう忘れちゃったの?」と言ってみたのだが、さっきから気がかりなのが秋助の顔が異常に若いのである。なんとも奇妙な感覚に苛まれたものである。

 非現実的な話で『タイムスリップ』という言葉が頭をよぎった。しかし『まさかね』と脳裏で自己否定をする自分もいる。おそるおそる縁側の若い秋助に訊ねてみた。

「あの……もしかして今って何年ですか?」と夏夫。

「昭和五十二年だが……」

 さっきの新聞の日付と同じである。

 その言葉を聞くやいなや「ありがとうございます」と言って、夏夫は家を飛び出した。その現実に、夏夫はどうしていいのかわからなくなったために、とっさにこの場を離れたくなったようである。翻って走り去る夏夫の後ろでカバンにぶら下がっていた定期券が秋助の目に入った。『多摩急町山田駅⇔新宿駅』とあった。秋助は彼を制止しようと声を掛けた。

「ああ、もしかしておまえさん。……その定期!」

 だが、もはや秋助の呼び止める声は夏夫には届いていなかった。正直なところそれどころでないというのがそのときの彼の心情である。

 道路の違和感といえば、道の両側には側溝蓋のされていないドブがある。またいつも目にしているコンクリートに護岸改修された用水路も小川のような流れをしていた。ただそんなことに感傷的になっている余裕もない。



『おいおい。冗談じゃないぞ』

 夢中な上に考え事をしていた夏夫、不注意は否めない。出会い頭に小さな路地の角で人とぶつかる。夏夫は結構なスピードで走っていたためにかなりの衝撃となった。

「あいた……」とうなったのはカメラを肩からさげた少年だった。年の頃は夏夫と同じくらい。フィルムメーカーのキャップ帽を被っている。彼はすかさず、「カメラ」とつぶやいて肩のカメラを心配そうに見る。

「ごめんなさい」と夏夫。

「危ないじゃないか。良く前を見て歩かないと」とカメラの少年は夏夫の顔を見ながら諭す。


 夏夫は少年の持っているカメラとストラップに見覚えがあることに気付いた。先週、父親が押し入れを整理していたときに見せてくれたものと同じだ。

そのとき父親は懐かしそうに当時のエピソードやカメラの機材の話しなどを面白く聞かせてくれた。


「そのカメラ、ミノルタXEと自作のスーパーカーのストラップ。シリアル食品のおまけに入っていたワッペンで作ったやつだ」と反射的に数日前に父に教えてもらったままを口に出した。

 驚いたのはカメラの少年である。なんせ自分の持っている一眼レフの機種やストラップのデザインをどうやって作ったのか、まで当てているのだから。

「すごい。見ただけでわかるの?」と少年。

 さらに夏夫は「もうじき新機種XDが出るので、値段も下がり始めて買いやすくなってきたから高校生でも買うことが出来た」と加える。

「えっ? 次の機種はXDっていうんだ。きみカメラに詳しいね」と前屈みの少年。いつか祖母に聞いた親子二代のカメラバカってやつなのかも知れない。その頃は三食のご飯よりもカメラと写真の話だったという。


「ちょっと時間あるかな?」と鼻息荒く少年は夏夫を引き留めた。

 とっさに父から聞いたままを空で話す夏夫に、その少年は夏夫がカメラ通だと勝手に誤解したようであった。

 二人は近くの公園のベンチに座ると「さっきの話だけど、XDってどんなカメラなの?」と少年はせかすように訊ねてきた。仕方なく、また聞いたままをまるで棒読みのように夏夫は続ける。

「絞り優先モードとシャッター優先モードの両方の特性を備えたマルチモードカメラ」と言った瞬間に少年は興奮気味に「やっぱり! ついに出るのか」と手に拳を造りながら思いをかみしめた表情になった。そこからは見よう見まねのカメラ談義である。



 現在のカメラはデジタルなので、どんなモードでも機能としてすでに付いているのだが、当時七〇年代後半から八〇年代前半は一眼レフの電子化が始まった時代で、マニュアル一眼レフの電子化競争はフラッグシップモデルは勿論のこと、量産機種であるキヤノンA―1とTシリーズやニコンFGに至るまで続いていく。その中でミノルタの放ったXDは絞りを決定すると適正なシャッタースピードを計算してくれる絞り優先モード、シャッター速度を決定すると有用な絞り値を教えてくれるシャッタースピード優先モードの両方を備えた夢のカメラであった。



 この時代、シャッタースピード優先のキヤノン一眼レフ、絞り優先のニコン一眼レフというのがカメラファンの間でのセオリーであった。勿論両者とも逆の商品も検討していたが、やはりメインに据えられた機種は売れ行きも含めてセオリー通りだった。

 ちなみにその後九〇年代前後のAF開発合戦、二〇〇〇年代からの本格的なデジタル一眼レフの登場までしのぎを削ったカメラ市場の技術合戦は果てしなく続いている。このようなせめぎ合いのおかげなのかも知れないが、日本のカメラ業界は世界をリードする技術を備えた製品を多く産み出してきた。


 そんな受け売り話を披露する夏夫に、彼は仰天した。むろん未来の情報が混じっているから彼からしたら驚きの連続である。


「僕は春彦っていうんだ。不二春彦。高校三年生だ。君は?」

「夏夫」とだけ言った夏夫は名字を明かすことをためらった。もちろん同じ名字だと説明に困る事態が起きるからである。そんなこんなで返答に困ってきょろきょろしていると目の前の金網にある金属製の看板が目に付く。『さくらカラー 小西六』とある。お誂え向きな単語を拾うことが出来た。

「夏夫。小西夏夫。高校三年生」ととっさに出た言葉だった。

「どこから来たの?」

「遠く。なかなか行けない場所」

「青森? 沖縄?」

「いえないけど、もっと遠く」

「ふーん。なんで東京へ来たの? とはいってもここは都下だから東京とはいえないけどね」

 そうここは東京都町山田市。東京とは言ってもこの当時は新宿まで電車で五十分以上かかる場所だった。一般には東京都下、多摩地方などと呼ばれることもある。特にこの当時はまだ田園風景の武蔵野の面影が十分に残っている地域だった。

「……」

 黙っている夏夫に春彦は合点がいったように「わかった。明日のスーパーカーショーでしょう? だよね」と決めつけた。

 お誂え向きとばかりに話に乗っかって、「うん。そうなんだ。だけど泊まるところなくて」と切り出してみる。

「うちにおいでよ」と春彦。夏夫には待ってましたと言わんばかりの台詞である。ひとなつこいこの当時の春彦には現在の父の優しい部分が垣間見えた気がした。


   スーパーカーブーム

 春彦が案内してくれたのは、勿論自分が出てきた蔵のある家、そう、つまり自分がまだ生まれていない我が家である。増築する前の家屋は、内装も改修されていないので、農家としての機能が備わった典型的な日本家屋である。

『昔はこんな間取りだったんだ』と初めて見る我が家の以前の姿に夏夫は少し不思議な感じを覚えた。

「とうさん、帰ったよ」

 玄関の引き戸を勢いよく開けた春彦は夏夫の祖父、秋助に挨拶をする。土間越しの上がり端で奥に座る秋助の声が聞こえてくる。

「どうだうまくとれたか?」

「現像してみなくちゃわかんないよ」と関心なさげに返すと、「友達連れてきた。今日泊まってもらうことにしたから。いいだろう、とうさん」と掘りごたつのある居間に座る秋助に了承を取る。

「そりゃ、まあいいが……」

「こんにちは」と夏夫が挨拶をするが早いか否かで、「ああ、さっきの」と秋助は合点がいったように「いらっしゃい。息子と会えたんだね」と部屋の奥からのぞき込むように笑顔で返した。その顔は安心の色にも見えた。

「さあ、挨拶はあとあと、僕の部屋においでよ。カードを見せてあげるよ」と春彦は嬉しそうに夏夫の背中を押して自分の部屋へと誘った。


 真一文字にはしご段である階段を上って二階の春彦の部屋へと向かう。煎餅の入っていたであろうブリキの缶箱を持ってきて蓋を開ける春彦。すると中には大小様々なスーパーカーと呼ばれるスポーツカーのコレクションカードがどっさりと出てきた。

 夏夫はかつてスーパーカーブームというのがあったことはテレビで見たことがあるが、間近で実感、体感するとは夢にも思わなかった。

「僕はあまり車の種類を知らないんだけど見所を教えてくれる」と夏夫は春彦に頼むと「いいよ」と嬉しそうに教え始めた。

「明日の展示車はどれが来るかは当日までわからないんだけど、雑誌に載っていた限りでは、カウンタックとベルリネッタボクサーは二大スーパーカーなので外さないと思う」

「どれ?」と夏夫。



 春彦は二枚のカードを手に取り「この黄色いのがランボルギーニ・カウンタックLP四〇〇だね。ミッドシップのV十二気筒エンジンと最高速度は三〇〇km/h、フォルムが美しくてドアも上に跳ね上がるんだ」と言ってから別のカードに持ち替えて、

「あとこっちの赤と黒のがフェラーリ五一二BB。BBはベルリネッタボクサーの略。こっちも三〇〇km/h以上のスピードで走るんだよ」と加えた。

「へえ。それでどっちがきみのお目当てなの?」と夏夫。

 すると春彦は首を横に振って「どっちでもないのさ」という。続けて「僕のお目当てはトヨタ二〇〇〇GTなんだ」と加えた。

「トヨタって、あの日本メーカーのトヨタ?」

「そうあのトヨタ」

「車種名がないの?」

「トヨタ二〇〇〇GTが車種名さ」

「うーん。そうじゃなくて、カローラとか、エルグランドとか、カムリとか、クラウンとか、マークXとかあるじゃない。その後で排気量の数字が来るでしょう」

「ないの。あるとすればMF―一〇という型式番号ぐらいだね」

 そういうとカードの一枚を手にとって、「これがトヨタ二〇〇〇GTだよ。ペガサスホワイトのグランツーリングさ」と説明をする。

「この車を撮りたくて、お年玉とお小遣いを貯めて、足りない分をとうさんにだしてもらったんだ」

「いいおとうさんなんだね」

「うん。とうさんは自分もカメラを持っている。ニコンとライカだ。僕には高価だからと言って貸してくれない。なんでも木村伊兵衛という写真家の先生が使っているものと一緒なんだそうだ。自慢の愛機ってわけさ」

「へえ」

「君は写真は撮らないの?」

「それが忘れてきたみたいで……」と夏夫が言いかけたとき、背後に大きな人影を感じた。祖父の秋助である。

「これを使いなさい。それとそろそろ夕飯だから下に来るようにとかあさんが言っているぞ」



 そういって差し出してくれたのはキヤノンAE―1の初期型である。後期型のプログラムシリーズよりもワインダー装着時の連写は秒間二コマと落ちる。しかしこの当時としては画期的で、廉価でワインダー装着可能なAEプログラム機である。しかも三〇〇ミリ望遠ズームが装着してある。

「とうさん、いつの間にこんなもの買ったのさ。母さん知っているの?」

「内緒だ」と目配せをしたあとで、軽く微笑んだ。そのまま祖父秋助は階段をゆっくりと降りていった。

「ところでさっき列挙した車種名、ちょいちょい知らない車の名前があったけど、トヨタの車だった?」と春彦。

「カローラ?」

「それはわかる」

「クラウン?」

「それもわかる」

「マークX?」

「それってマークⅡの間違いじゃない?」

 夏夫は一瞬『まずい。昔はそんな名前だったのか』と心中で発した。とりあえず今はこの時代の部外者的存在の自分だ。何かあれば繕うことに専念しなければならないので、すかさず「ああ、間違えた。たまに間違えちゃうんだよ。勘違いが多くて、覚えきれないからさ」とごまかした。

「まだうろ覚えの車種だったんだね」と春彦は言ってから、「じゃあ、ご飯を食べに行こうよ」と別段疑うこともなく平然と加えた。


   カメラバカ?

 この当時の不二家の食卓は自前の野菜がメインだった。大きな掘りごたつが座敷の中央にあり、その間取り、寸法に合うちゃぶ台が設置されている。勿論夏なのでこたつに布団はなく、練炭も入っていないが、その真上の天井に吊しがねが備え付けられていて、その近くの梁柱に煤が付いていることから、この場所が昔は囲炉裏であったこともうかがえる。この居間は父の昔を写したアルバムの写真で少しだけ見た記憶がある夏夫だった。

 とうもろこし、ぶどう、鮎の塩焼き、枝豆、手打ちのうどんと地のものと思われる食事が次々に食卓に運ばれる。最後にお豆腐とビールを持ってきたのが若かりし頃の祖母であった。

「小西くんだったわね。母の冬美です。きょうはたいしたものは出せないけど、たくさん食べていってね」と手ぬぐいを外しながら笑顔を見せた。

「かあさん、テレビは何かいいものやっているかね」と秋助が手酌でビールを注ぎながら訊ねる。

「さあ。新聞でも見て下さいな。ニュースでも見たらいいじゃないですか。でも折角春彦のお友達が来ているんだからお話でもして下さい」と冬美。

「それもそうだな」と秋助は夏夫に向き直って「学校では部活とかやっているの?」と訊ねる。

「鉄道関連のサークル活動をやってます」と夏夫は返した。

「おっ、君はスーパーカーじゃなくてブルートレインか?」と楽しそうな顔で応える。



 そして続けて「旅情を誘ういい写真を撮る人が多くなった。カンテラ持った駅員がブルートレインのテールランプを見つめるショットが先日カメラ雑誌の表紙を飾っていてね、あれは良かった」と始めた。

 すかさず祖母はあきれ顔で「ごめんなさいね。親子して我が家はカメラバカなの。我慢してつきあってあげてね。……でも疲れてきたら相手しなくていいからね。写真とカメラのことだとずっとしゃべっているからね」と二人の扱い方を喚起した。

 そんな祖母の言葉を気にすることもなく祖父は続ける。

「最近はどのフィルムメーカーも感度のいいものが出回るようになったので夜の写真でも黒つぶれしないものがとれるようになった。多少の粒状感はたまにきずなのだがね」

 さて困ったのは夏夫。秋助が何を言っているのかさっぱりわからない。

「フィルムにはASAって感度があってね、一般のものはASA一〇〇なんだ。この数字か低いほどきれいな仕上がりなんだけど、光の加減にシビアで露

出で失敗しやすくなるんだ。ラチチュードが広いとか狭いとかいうんだけどね。絞り値間違えると真っ白になったり、真っ黒になったりするあれさ。とうさんはそのASA数値の高いフィルムが安く市販されて、職業の人じゃなくても手に入るようになったのが嬉しいのと、ストロボを使わずに薄暗い夕暮れでも写真が撮れるようになったってことをうれしがっているんだよ。ただ数値の高い闇に強いフィルムはプリントしたときザラザラした感触があって、粗い感触が否めないということなんだ」

 夏夫の困惑顔を察した春彦はすかさず説明をしてくれた。おかげで夏夫は少しだけ祖父の言ったことを理解できた。ちなみにASAは現在数値はそのままにISOという感度名称に変更されているし、ダイヤル一つで数値を変えられる。感度を変えるためにフィルムを変えていた時代とは大違いである。

「写真って、こり出すと結構奥深いんだね。難しいや」と夏夫は素直に感想を述べた。

「そうそう、そんな難しい話よりもこのとうもろこし食べて。裏の畑でとれたのよ」

 冬美は静まりかえった場を和ませるように夏夫に食事を勧めてくれた。


   暦人

 夏夫は風呂を借りた後で、庭の縁台に座ってぼーっと月を見ていた。今宵の月は満月に近い。春彦が風呂に入っているときだ。その月明かりの中で自分の背後に静かに寄り添う影を見つけた。秋助である。

「暦人になったね」と秋助。

「えっ?」

「いま君の家、つまり未来のこの家は君に助けを求めているようだ。そして君に賭けている状況のようだ」

 秋助の言葉に無言の夏夫。そのまま秋助は続ける。

「我が家の裏手にある日月さまというおやしろがある。太陽の神さまと月の神さまのことさ。神さまはたまに家を救って下さるときに、家族の誰かに試練をお与え下さる。もちろん昔の本当の役目は農業の神さまなのだけれど、太陽神は鏡の神さまでもある。だから私はカメラもレンズも大好きさ。一方の月の神さまは暦の神さまでもあるんだ。昔は太陽太陰暦という月の満ち欠けによって暦を決めていた。その頃のこのあたりに住む人たちは暦、即ち現在で言う時間の流れを支配する神さまであると考えていたんだ。西洋のほうだとクロノスという、ずばりそのままの時間の神さまがいるのだが、我が国の神さまはいくつもの現象や分野をお仕事なさる。だから暦や月の満ち欠け、延いては潮の満ち引き、そして時間までもが暦の神さまのテリトリーということになるのさ」

 突然非現実的な話を始めた秋助に驚いたが、すでに非現実的な状況におかれている夏夫にとっては理解者はひとりでもいてくれたほうがいい。そう思っ

て、反論もせずに黙々と真剣に耳を傾けた。



「暦人って?」

「SF小説のようにいえば時間旅行者だね。もしかすると君の家に君の代から新しい風を入れないと家が良くない方向に傾くと感じてくれた神さまが君を暦人にしたかもしれない。あるいはこの家自体とか神さまご自身が、この時代に誰か使者をよこす必要が生じているのかも知れないね。目的は我々にはわからないんだ。普通に過ごして自分の時代に帰れば、自然と目的を達成するようになっているようだ。そして私がどうして君が暦人ってわかったのかというと、君の持っている鞄の定期入れに二〇××年十月まで有効の日付が見えた。偶然ね。どうやら多摩急線は二十一世紀にも通勤電車で走っているようだね」


 若い頃の秋助が滑舌も良く、なにより理論的な話し方をするのが夏夫には驚きだった。


「さて本筋だ。話を続けよう。君は何かを委ねられる配達員のような存在かも知れない。その中身は、さっきも言ったように私たちには解らないので状況に合わせての成り行きしだいということになる。そして君がそこから判断することだ。たとえそれが君のいる時代のそれまでの君の家の常識や習慣と逆行してもいい。その家を守るためだから。そしてそのことは次の暦人にだけ私のように教えてあげなさい。でないと君は時の漂流者、すなわち『迷い人』になってしまう。満月の日、つまり今月は八月三十日の夜に日月さまの境内にタイムゲートである七色の御簾がかかる。それをくぐれば元の時代に戻れる。たったの三日間だが春彦の良き友達として遊んであげておくれ。そして二十一世紀の私にもよろしく伝えてくれ。なによりこの家とそれにまつわる全てのことを救ってあげてほしい」


 夏夫はあまりにも現実離れした話に感情移入が出来ず、人ごと、いや作り話を聞いているような心境でそれを聞き入れた。加えて話が大きすぎて自分の手に負えず、想像もつかないのである。


「どうしてじいちゃんはそれを知っているの?」


「私は昭和三〇年の高校生の夏、暦人になったからさ。そのときは私がもって帰ったこの付近の言い伝えを記した古文書の在処(ありか)を示す手紙をきっかけに話しがトントン拍子に進んだ。そしてその古文書が文化財価値のあるものとわかり、その出土地一帯が史跡として指定され、宅地開発から裏山付近一帯が救われたんだ。きっと神さまが私を遣わしたんだろう。暦人同士は秘密を共有し合うことを許されている。何十年か後に、次の暦人が必ず君の前に現れるときが来るからそのときは満月の晩に七色の御簾をくぐることを教えることだ。いいね」


「わかったよ。ありがとう」と夏夫。「帰れるのなら大丈夫、不安なことはありません」と続けた。

「それとこの三日間の滞在費が必要だろう。この中に二万円入っている。これでいろいろなものはまかなってくれ」

 そう言って秋助は夏夫に封筒を渡した。中には初めて見る聖徳太子の一万円札が二枚はいっていた。

 秋助がそう言い終えたとき、春彦が頭を手ぬぐいで拭きながらパジャマ姿で二人の前に現れた。それに気付いた秋助は「シッ!」と人差し指を口元にあてて話をやめる。



 近づいてきた春彦が「何話しているの?」と訊ねてくる。

「AE―1の使い方の要点を教えていたのさ」

 秋助がさりげなくそう言うと「えー、とうさんそれはずるいよ。僕にも教えてよ」と春彦は小走りに二人の元に駆け寄ってきた。

「じゃあ、二階で現物を見て教えてやるか?」

「そうしよう」

 そんな会話を楽しみながら夏夫の初日の夜は更けていった。


   出会い

 朝六時過ぎの東京駅八重洲口側の駅前ロータリー。夏夫と春彦はカメラをバッグに詰め込んで、四時の始発電車に乗ってようやくこの場所までたどり着

いた。駅前の歩道には小学生から大学生ぐらいの様々な人たちがやはりカメラを片手にぶらぶらしている。晴海で行われるスーパーカーショーに行くためのバス停を捜しているからだ。

 朝食をとらずに来た二人は縁石に腰掛けて、ミルクスタンドで買ったパンと三角パックのコーヒー牛乳を詰め込んでいる。眠さもあり二人とも無口だ。

 そこに目の覚めるような美人の女の子二人組が声をかけてきた。


「あの。ちょっとすみません。銀座の方面に行くにはどうしたらいけるんや

ろ。教えてもらえますか?」


 関西弁のようななまりに、手にはボストンバッグとハンドバッグを持って、ふたりとも白地のプリント地のワンピースを着ている。年の頃は春彦たちと同じくらいだろうか。最後のパンのかけらを口に放り込み、それを飲み込むと春彦は「ここからなら歩いても二十分。丸ノ内線で五分くらいかな。国電なら有楽町下車で二三分」と説明した。


「ごめんなさい。私たち今さっき夜行列車で三重県から着いたばかりで、東京初めてなんです。地名も電車もわからへんのです」

 そんな会話をしている間に、置いてあったもう一人の女の子の手荷物をすっと持ち去ろうとする輩がいた。それに夏夫はいち早く気付き「こら! おまえの荷物じゃないだろう」といって猛ダッシュでその輩を追いかけ始める。残りの三人はあっという間の出来事になす術もなかった。

 荷物を盗んだ輩は夏夫の追跡に観念したのか、そのボストンバッグを自分の進行方向とは逆のほうに投げ捨てて走り去った。一瞬、どちらを追うべきか夏夫は戸惑ったが、すぐに「荷物が先決!」と向き直って荷物を確保した。

 呆気にとられた三人のもとに夏夫が戻ってきたのは、十分もしないうちだった。手に荷物を持った姿が確認できると、その荷物の持ち主は涙ながらに「ありがとう」と夏夫に駆け寄った。


 その女の子は夏夫に握手のリクエストをうながすと「私コダクハツホ。小さい邸宅に初めて歩くの字で、小宅初歩っていいます。ありがとう」と発した。

 応えるように握手を交わすと「僕は不二……じゃあなかった小西夏夫です」と涼しげな彼女の瞳を見つめて返した。


 夏夫が驚きに気がつくのはそれからすぐのことであった。

「コダクハツホ。ん……どこかで聞き覚えのあるような」とつぶやいたあと、その単語が自分にとって重大なことを意味していることを察知する。

「あああーっ!」と叫んでから『かあさんじゃないか! 旧姓だ。おいおい、古新聞かたづけたのだしてくれよ』とその場にへなへなと座り込んだ。夏夫は自分の父母の出会いの場面に遭遇してしまったのだ。しかも母の危機をしっかり救っているではないか。もちろん座り込んだ夏夫の姿は、初歩にとっては猛ダッシュをして鞄の奪回してきた疲れに映っている。


 そんなことを夏夫が考えている間に春彦と話をしていた女の子も「アグハオリ、十八歳です」と自己紹介をしていた。

『かあさんの幼馴染みの阿久のおばちゃんだ。昔はこんなにかわいかったのか』と夏夫はまるで見てはいけないものを見たかのように心中思った。


「僕は不二春彦。君たち無事に銀座までたどり着けるの?」と怪訝そうである。スーパーカー会場まであと少しという場所に来ていながら、余計なことに

首を突っ込んでしまったことに、苦虫をかみつぶしたような表情である。いかにも父らしい。自分のいた時代でもそれは同じで、夏夫の母親がやっかい事を父に頼み込む時に見せるあからさまに嫌がっているときの顔だ。夏夫はその顔を見てあまりのおかしさに吹き出しそうになった。


「とりあえず宿はどこ? そこまで連れて行ってあげるよ」と春彦。


 やはりぶつぶついいながらも面倒見の良い父の面影がここにも表れていて夏夫は観察するのが楽しくなっていた。勿論夏夫には春彦の意図が手に取るようにわかる。この言葉には『宿まで案内してやるからそこで放免、勘弁してくれよ』という意図が隠されている。見殺しにして薄情者のレッテルを貼られたくない外面と、趣味に没頭しているときにあまり自分の世界に入ってきてほしくないという内面の葛藤が起こす父特有の決断の着地点であり、言い回しである。父と母のやりとりが二人の青春時代、十八歳の時にすでにできあがっていることに息子としては興味深いものがあるのだ。


 夏夫と春彦は二人の女の子の荷物を持ってあげると外堀通りを銀座、新橋方面へと歩き出した。

「いったい、君たちは三重から何しに東京へとやってきたの? こんな夏休みの終わりに。観光?」と春彦。

「オーディション」と葉織。

「私は付き添いと受験の下見」と初歩。

 訊いておきながら全く興味のなさそうな春彦。そしてその後の会話が思いつかなかったのか、徐々に気温が上がり始めた夏の東京都心を黙々と歩き続けている。長い沈黙の間、大きな交差点を二つばかり過ぎたあたりで、夏夫はふと気付く。

「まだ宿の名前聞いてないけど、僕らはどこに向かっているの?」

 彼のもっともな意見に暑さからワンテンポずれた反応をした残り三人が、数秒たってから高笑いを始めた。もう半分やけくそである。

「そうよね」と葉織。

 彼女はバッグの横に付いているポケットから宿泊先のメモを取り出した。

「京橋銀座ペンタプリズムホテルで、住所は中央区銀座一丁目〇八四六番地になっているわ」

「銀座一丁目ってことは京橋との境だから東京駅寄りの銀座だ。あともうすこしだ」と持っていた地図を確認しながら春彦が言う。


 すでに中央通りにさしかかった四人は、ペンタプリズムホテルの大きなビルディングを見つけた。

「あれか」

「随分高級そうなホテルじゃないか。君ら金持ちか?」

 見るからに春彦は『やれやれ、ようやくやっかい事から解放される』といった面持ちでくつろぎの表情を見せた。

「ちょっと待って!」

 ロビーに通じる自動ドアの玄関先で、葉織は仁王立ちになって、通せんぼをするように三人の行く手を阻んだ。

「どうしたの?」と初歩。

「越美と白馬だわ」

 見れば、身だしなみの整った清涼感ある大きな男性が二人、チェックインカウンターごしにホテルマンと何かを話している。いや、打ち合わせをしているといってもいいかもしれない。

「えっ? あら本当、葉織のおとうさんの秘書さんだ」

 あまり状況を察していないのか、顔見知りに偶然出くわしたうれしさを感じて初歩は親しみを持って駆け寄りそうになった。

 だがそれを早々に断ち切って、「ちょっと待った、初歩」と手をひいて戻す葉織。

「これは退散したほうが良さそうね」と加えた。

「春彦くんたちも悪いけど、そっと引き返して。あのタクシーのりばからタクシーにのるわよ」と向き直り、車寄せのロータリー脇にあるタクシーのりばに向かうように指示を出す葉織。


 ようやく解放されると思っていたのがおあずけになり、上京二人組からの束縛にまだつきあわされるのかとわかった春彦は限界すれすれだ。かなりふてくされた顔でタクシーのりばへと向かった。ダゲレオ交通と書かれたタクシーが止まっており、合図をするとトランクを開けてくれた。彼らは素早く荷物を納めると助手席に春彦、後部シートに初歩、葉織、夏夫の順に乗り込んだ。


「どこまでいくの?」

 運転手は行き先の確認と同時に初乗り三三〇円とシールの貼られた後部ドアを閉める。

「春彦くん、お願い」と葉織。

 しばらく考えてから「晴海と上野公園ならどっちが行きやすいですか?」と運転手に尋ねる。

「晴海は今日はスーパーカーの展示会で築地から先の晴海通りは動かないし、上野は恐竜展の関係で混んでるよ」と言って、しばらく間をとって熟考した後で「でもまあ、上野のほうが無難かな」と加えた。


 春彦はそれが言い終わるか否かで、間髪入れず「上野!」と告げた。

 メーターを下ろし賃走モードに変わったタクシーは、車寄せのついたロータリーを一周してから通りへと出た。その際にロビー前、エントランスから見える場所を横切った。そのタクシーを秘書のひとりが見つけたようで、あわてて駆け寄るそぶりを見せた。距離は二十メートル以上ある。


「なんかこっちに合図してますけど、お客さんの知り合いかな?」と運転手。


 四人はきっぱり「いいえ」と応え、朝、眠りから覚めて活気を取り戻しつつある都心の町並みの中、半べそかいた秘書の顔を尻目にタクシーは中央通りを上野に向けて走り始めた。



   旅は道連れ

 電話ボックスからホテルのキャンセルを終えて葉織が出てきた。上野西洋リビング軒の前で三人はそれを迎えた。

「君はなにものだ?」と春彦は葉織に訊ねる。

「何者って?」と葉織。

「〇〇七の映画じゃあるまいし、逃走劇を繰り返すことになったらこっちの身が持たない」

「あら、かっこいい! MI―6(エムアイシックス)ね」と初歩。MI―6は英国の海外諜報活動機関のことで俗に言う国家スパイ組織のことである。


 その横で夏夫は『かあさんの能天気な性格はこのころからなんだ。空気読めない本当の天然ぼけなんだな』と意外に客観的に判断できていた。息子だけに愛すべき性格といいたいのであろうが、実害があるのでそうも言ってられないようだ。


「リクエストがあるので再び名乗ります。私は阿久葉織。十八歳。高校三年生。三重県の松阪っていうところに住んでいるわ。さっきの二人はパパの会社の秘書。おそらく書き置き一つで家を出てきたのでパパに言われて探しに来たんだわ。たぶん家にあったホテルの予約の際のメモかなにかを見つけたのね」

「つまり親に黙って出てきたってことか。……家出だね」

「あら秘書さんたちが行き先知っていたのだから家出じゃないわ」と初歩。

 春彦は初歩をキッとにらむと「君は話のピントが甘いので、すこし口を挟まないでくれる」と諭した。


 初歩はしゅんとして目線を落とす。しかしすぐに持ち直して「怒られちゃった」と笑顔で夏夫の顔をみて愛想笑いをする。そのやりとりを見て、やはり夏夫は思った。まるで日常の父母の会話そのものである。何年たっても本性というのは変わらないものである。


「では訊こう。どうして彼らは君を追ってきた」


「私、ファッションモデルになるためにオーディションの本選を受けにきたのよ。父親は反対しているけど、母親がそっと送り出してくれたの。だから家出じゃないわ。パパが過保護なだけ。それで昨日の夜、十一時過ぎの東京行きの寝台列車に乗って今朝ここに着いたってわけ。もうすぐ創刊されるティーン向けのファッション雑誌のモデルになれるチャンスなのよ。もう来春から東京の大学に入ることもほぼ決まっているから、こっちに来てモデル活動もできるということよ」


「家庭内の問題に秘書さんやら何やらを使って阻止したり、追いかけっこをしたりなんなんだね、君は」と春彦。

 彼特有の正義感である。たまに方向性を間違えることもあるのだが、今回は彼が正しいようだ。しかし人間というものは

道理の通りには納得しないものであり、その言い方が正しさを振りかざして言われるほど頭にくるものでもある。勿論、その台詞を聞いて葉織は怒っていること間違いない。それがそのまま言葉に出た。


「それはご迷惑をおかけしました!」と大声で当てつけた。

 初歩のほうを向き直ると「行くわよ初歩!」と言って、夏夫の肩から自分のバッグを無理矢理外すと「ありがとう」と残してすたすたと歩き始めた。


癇癪かんしゃく持ちの女の子だ』


 夏夫は思った。このとき彼の頭によぎったのは切実な現実である。春彦と初歩、このままこの二人に別れてもらっては困るのだ。夏夫自身がこの世に存在しなくなってしまう。『冗談じゃない!』と夏夫は内心思った。そう思うやいなや彼は葉織の横に並ぶように歩いて、「良かったら宿探し僕にお手伝いさせてよ」と声をかけた。その姿、きっと我ながら卑屈な顔しているだろうと考えていた。


 立腹顔の葉織が少し和らいで、「あら、あっちの唐変木とは違って優しいのね。モデル志望の私に惹かれているのね。スキャンダルはこまるわ」と笑って言った。冗談で言っているのだろうが、一般的に異性に向けた言葉としては少々トゲがある。こっちも違う意味で勘違いの天然な性格である。もちろん愛想笑いの夏夫は『問題は君じゃなく、初歩と春彦が住所交換するまで、友人関係になるための機会を得たいのさ』と声には出せずモゴモゴとつぶやいていた。


そして葉織が癇癪持ちだけでなく、少々自意識過剰ということも理解した出来事であった。


 今思えばなのだが、この時代の上野は意外にも観光客向けの宿が林立する場所であった。この頃まで東北や上越、常磐方面の代表的な長距離列車は全て上野が起点となっていたためだ。啄木が歌を詠むくらい旅行者でごった返す姿は、昭和四十年代、五十年代までは存在していたというわけである。

 宿の種類はというと格安でシンプルなトイレ浴室共同の部屋のみの宿から修学旅行生用の大部屋旅館、ビジネス・観光客向けのベッド付き洋室まで多種多様で、他のターミナル駅よりも若干リーズナブルなところが魅力だ。また格安旅館は昭和通りの日暮里方面、修学旅行向けの旅館は御徒町方面、観光・ビジネスは公園の周りという具合の棲み分けがおおざっぱにできていた。つまり公園にいた彼らにとっては、観光用のホテルを当たりやすい場所に丁度いたということになる。


 公園の花壇柵に建つ時計を見れば、すでに十一時を回っていた。春彦がいらいらするのも仕方のないことである。楽しみにしていたスーパーカーショーにいけないのだから。カメラだって使わなければただの手荷物、体力作りの鉄アレイの意味しか持たない。



   チェックライター

 四人がビジネスホテル光画園こうがえんのエントランスの自動ドアを出てきたのは、丁度正午のことだった。ツインの部屋を押さえることができた。

「これで大荷物も預けたので早速、オーディション会場にいけるわ」と葉織。

 夏夫の説得により春彦ももう少し彼女たちにつきあうことを渋々承諾した。

椰子家銀行やしかぎんこう、ってこの近くにあるかしら?」

 葉織は春彦と反対側にいた夏夫にわざわざ尋ねる。

「僕も最近戻ってきたんで、あまり東京のことはわからないんだ」と夏夫。

 仕方なく葉織はそっぽを向いて「どこかに椰子家銀行の支店ないかしら?」と訊ねてみる。

 するとやはり葉織とは反対のそっぽを向きながら「京成駅の正面にあるよ」と春彦。


 その不自然な会話のやりとりが楽しいようで、無邪気に初歩は「はおちゃんと春彦くんっておもしろい会話の仕方をするのね。お互いに透明人間に話しているみたい」と火に油を注いだ。これが夏夫の母の天然と呼ばれる由縁だ。ちなみにピンクレディのヒットソング『透明人間』が発売されるのはこの翌年の昭和五十三年であり、この会話とは無関係である。


 とにかく銀行に入ったおかげで、四人は暑くなってきた午後の日差しから逃れることができた。この時代は町中で冷房が効いている場所も限られており、公共施設、役所、デパート、銀行ぐらいのものだった。公共交通機関でさえ運が悪いときは非冷房の車両もあったほどだ。

 葉織以外の三人が銀行の長いすに腰掛けると、葉織はハンドバッグから帳面らしきものを取り出し、近くの行員に何かを訊ねている。しばらくすると行員はカウンターの奥でどこかに電話をかけて、笑顔で了承をとると葉織の持っていた帳面のようなものにガッチャンと次々にスタンプを押し始めた。

 そしてスタンプを押し終えた頁を切り取ると葉織はペンで何かを記入し、それを再び行員に渡した。笑顔で受け取った行員は「しばらくお待ち下さい」と言ってプラスチック製の番号札を葉織に渡した。


 戻ってきた葉織に初歩は「はおちゃん何やってきたの?」と問う。

「行員さんに『チェックライター貸して』っていったら、換金までの手続き全部やってくれたのよ」

「チェックライターってなに?」と初歩。当然、夏夫も春彦もそれがなんだかわからない。

「小切手に金額を入れる機械。手書きより信頼性があるわ」

「へー」と感心する初歩。どうやらさっきのスタンプ作業が金額の印字だったようである。


 高校生の分際で小切手を扱うという葉織に『いったいこのおんな何者だ?』と疑問に思う男二人。

 二十一世紀の葉織の素性を知っている夏夫でさえこの時代の葉織に驚いているのだから、初対面の春彦はもっと驚いていることだろう。

「軍資金もできたしあとはオーディション会場に行くだけね」と葉織。

「ちなみに水道橋ってどうやっていくの?」と加えた。

「山手線で秋葉原乗り換えだね」と夏夫。さすがにこの線区は夏夫のいた時代と変わってはいないはずだ。


   ファッション雑誌

 水道橋駅を後楽園遊園地、現在の東京ドームシティーとは逆のほうに歩くと出版街にでる。もちろん後楽園遊園地にあった球場は有名な背番号三番、長島選手の「永遠に不滅です」の宣言場所の球場である。その遊園地を背にして歩くこと数分、古書店街の神保町、旧飯田町駅界隈は出版、雑誌、印刷などの企業が軒を連ねる場所である。その白山通り沿いのトプコンモード社が葉織のお目当ての雑誌社であった。


『ニュートラにする? ハマトラで行く?』なんてコピーが、玄関先に貼ってある雑誌広告ポスターに書かれている。夏夫と春彦は場違いなところに来てしまったと少々困惑気味である。


「ハマトラってなに?」と玄関先で夏夫は初歩に小声で尋ねる。

「横浜トラディショナルよ」

「動物の名前かと思った」と夏夫。それに頷く春彦。

「詳しく知りたい?」と加わる葉織。

 とりあえず頷く男ふたり。


「もともとはニュートラの派生系とも言われているのだけれど、それに大学生らしさの手軽さと値段の手頃さを組み合わせた若者のファッションなんよ。特に横浜の山手の女子大の人たちが元町の商店街で組み合わせたファッションをし始めたのでそう呼ばれているの。まだ始まったばかりだからこれからハマトラは来るわよ。ちなみにニュートラはニュートラッドっていう神戸の典型的な欧風トラディショナルファッションで、それは銀座を中心に広がったアイビースタイルとも一部で結びつくモードスタイルなんやわ」


 西の方のアクセントの入ったほぼ標準語で説明してくれる葉織。おそらくこれでも初心者向けの適切な説明になっているのだろうが、男性でしかも二十一世紀からきた夏夫とカメラ以外のことをよく知らない春彦にはとうてい理解しがたい内容であった。「兎に祭文」、「馬の耳に念仏」とはこのことであろう。周りの華やかさとは反対に無表情、目がうつろな夏夫と春彦であった。

 しばらく廊下を行くと受付があり、オーディション参加者と付添人はここで分けられるようである。

「じゃあ、僕たちはここで待つことにしよう。お菓子とお茶の用意があるね。ありがたい」と春彦。

「お二人さんも初歩もご飯まだだよね。ごめんね。終わったら私おごるね。軍資金も調達できたしね」と軽くウインクすると葉織は三人と別れて、オーディション会場に続く廊下を歩いて行った。三人はその後ろ姿を見送りながら、控え室に入った。


 控え室の奥には撮影用の機材が床に並べてあり、ドンと陣取っている感じだった。この部屋は付添人控え室と機材置き場を兼ねているようだ。

「アンブレラフラッシュだ。リンホフ、ローライのボディもある」

 現金なもので春彦はさっきまで仕方なく付いてきた様子だったのに、機材の山を見たとたんに満面の笑みである。当然のことだがデジタル時代に育った夏夫には何のことかさっぱりわからない。初歩は座り心地の良いソファーの上ですっかり熟睡のようだ。あっという間の出来事だった。


「なんだカメラ好きか?」と春彦の興奮の様子を見ていた一人の男性が春彦に声をかけてきた。無精ひげに丸めがねのいでたちはカメラマンというよりも明治時代の小説家のように見えた。

「はい」と返事の春彦。

 夏夫はその男性をどこかで見た記憶があったのだが、そのときはまだ解らなかった。


「ここにあるのは全部中判だ。右から6×7《ろくなな》、6×6《ろくろく》、6×4・5《ろくよんご》だ。アスペクト《たてよこひ》の比率は違うが全て一二〇ないし二二〇ロールの中判フィルムで写すカメラだ。撮像面積が広いので細部まできれいに写る。低感度のシビアなフィルムなら丁寧に露出をすればポスターサイズまで美しい仕上がりになる」


「6×4・5《ろくよんご》は父のものを触ったことがあります」

「ほう。父上はやるのか」とシャッターを切るジェスチャーをする男性。

「父は風景や自宅の作物、乗り物をとっています」

「そういうものを自由にとれるのは幸せな身分だよ」と笑顔の男性。

「そうなんですか」

「ああ。うらやましい限りだ。私の好きな写真家の先生、植田正治さんもそんなことを雑誌のインタビューでいっていたなあ」

「僕はいまスーパーカーをとっています。いずれカメラの勉強もしようと思っています」

「今いくつだ?」

「高三です」

「受験か? 就職か?」

「一応進学を考えています」

 男性はしばらく考え込むと「高三の夏休みか……」と軽く頷いた。そして懐からおもむろに名刺入れを取り出すと、開いて中から一枚名刺をとりだした。


「もし大学や専門学校にいってからも興味が変わっていなかったら訪ねてきな

さい。アルバイトで一度覗いてみるのも勉強だ。トプコンモード社の会場で会

ったって受付では言ってくれよ。覚えておくよ」


 そういって男性は名刺を渡して去って行った。その名刺には『間宮大介 Daisuke Mamiya』とあり、銀座の事務所の住所と電話番号が添えてあった。

 そしてその名前を見たときに夏夫は不二家の歴史の一つを知った。


『たまにじいちゃんのところに植物のことを聞きに来る大介さんだ。無精ひげで若いから別人のようだ。昔は人物を被写体にしてたのか。知らなかった。とうさんに写真の「いろは」を教えたというのはこういうことだったんだ』


 そのときだった。「お待たせ」と戻ってきた葉織は上機嫌で彼らの前に現れた。

「あら、初歩はまたねているのね」

 ソファの中にうずくまるように半分口を開けて無防備な寝顔をさらす子どものような初歩を見て、葉織はクスッと笑った。

「結果は?」と春彦。

「まあ合格みたいね。来月号に載せてもらえるみたい」

「すごいな……」と思わず本音がでた春彦。いがみ合っていても相手の秀でた部分に対しては敬意を表するところが、天性的な彼の客観的考察を備えた部分である。一種の才能だ。

「あら、素直ね。よろしいご飯をおごるわ」と葉織。

 ずれた寝顔を崩しながら、初歩が二人の会話で目を覚ました。

「ごはんおごってくれるの?」と彼女は肝心なところはしっかりと聞き漏らさずにいた。

「そうよ。なんかリクエストある」

「さっき電車に乗っているとき『肉のパンセー』というのが気になったわ。お肉食べたい」という初歩のリクエストである。

「春彦くん、知ってる?」と葉織。

「勿論。秋葉原の肉料理屋さんだ。交通博物館に行く手前の橋のたもとにあるよ。総武線で二駅だ」

「よし、そこに決まりだ。祝杯を挙げるぞ」と葉織。

「祝杯っていっても、サイダーかコーラだろ」と春彦が加えると、「勿論!」と葉織。

 その光景を見ていた夏夫は「でも自分で祝杯をあげるってすごいな。さすが阿久のおばちゃん」とぼそっとつぶやいた。


   築地午後三時

 午後三時を回ったあたりだった。タクシーの中で四人はスーパーカー展示会の会場の晴海に向かっていた。運河を渡ったその先の埋め立て地に存在する当時の国際展示会場である。一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、幕張メッセや東京ビッグサイトの完成でその座を譲った国際展示場である。かつて東京モーターショーなどの歴史ある国際的なイベントは晴海で行われていた。


 秋葉原で食事をした四人は、春彦と夏夫が朝からスーパーカー展示会に行くために東京駅にいたことを話したのだ。すると自分の用事は終わったし、つきあってくれた二人に「敬意を表する」と、気風の良い葉織は展示会場まで費用を出して同行することに決めた。必然的に初歩も付いていくことになった。

「スーパーカー。流行っているわね。圧倒的に小学生とか中学生だけどね」と葉織。


 加えて、「でも高校生でスーパーカーはちょっとどうかしら? ミニカーででも我慢すればいいのに」と余計な一言。思ったことをそのまま口に出すタイプである。ストレートな意見に春彦は眉をひそめる。


「じゃあ、あんたのモードやら、ファッションやらもリカちゃん人形の着せ替えで我慢すればいいじゃないか」と春彦。ストレートな意見には、同様の意見で返す。馬の合わない人間関係の縮図がここにでた。


「なんですって!」

「言い出したのはそっちだぞ」

 互いに埋められない溝の部分はだんだんと理解してきたようで、同時に「フン」と声を重ねてそっぽを向く葉織と春彦だった。

 見方によっては似たもの同士の春彦と葉織であるが、元来人間関係における平穏主義者の夏夫には寿命の縮む思いだった。

「ごめん。お取り込み中、申し訳ないが……」と運転手がもらす。


「この先さあ、慢性渋滞の場所のうえにスーパーカーなんとかで動かないねえ。どうする。展示場までは歩いても三十分はかからないと思うけど……。い

や、こっちはいいんだ。乗っていてもらってもメーターが上がるだけだからさあ。でも見たところ君ら学生さんだろ。お小遣いもったいないだろう。お年寄りなら健康上乗っていてねっていうんだけど、若いからどうかな。君ら次第でいいよ」


「ありがとうございます。じゃあ、ここで」と春彦。相談なしに一人で決めてしまう。このときまた葉織との間で一悶着ありそうな危険を察知した夏夫だった。


「じゃあ、ここでね。ここからはもう一本道なんで、大川と運河を渡ってしばらく行けば晴海埠頭だから、まず間違えることはないよ」


 運転手は料金をもらって、その先の道を教えてくれた。この時代の人たちは懐具合を常に考えてくれる人間関係が社会縮図の中に備わっていたのかと驚かされる一面だった。商売っ気を出していい場面とそうでない場面を、皆がわきまえていた時代なのである。

 そしてもうひとつ、二十一世紀の子どもに対する一個人と見なして接してあげる「小さな大人」という社会的な愛着や思いやりも素敵なものが多いが、この時代はちょっと角度の違う視点で、子どもたちを特別視するのでなく付属物を保護するような責任感的な見方で社会全体が子どもを守っていた時代なのであった。だから交通機関として目的地直前の最後に乗っていたタクシーの運転手は目的地までの道案内をすることで、責任を全うしたという気持ちになったのだろう。


 歩道に降り立った四人はハザードランプを点滅させて去って行くタクシーを見送ると現在地を確かめた。

「築地だね」と夏夫。

「なんでこんなところで降りたんよ」と葉織。ご多分洩れず少々不機嫌である。


「築地って、お魚市場のあるところかしら」と初歩。

 皆が好き勝手な見解を述べた。全く統制のとれていない一行である。

 街路樹の脇にある軒先の広い家の前で縁台を出して、通りを眺めているパジャマ姿の男の子がひとり。縁台には丸瓶風の金魚鉢。古き日本の涼を象徴しているようだ。その男の子、年の頃は夏夫たちと同じくらいである。

 物怖じしない性格の初歩が「何しているの?」と訊ねた。

 その男の子は突然通行人に話しかけられて面食らったが、すぐに持ち直して、

「スーパーカーショーに行く人たちの乗ったバスを見ているんだ」と返す。

「どうして」

「僕、今、体こわしていて体力がないから人混みに行くことできないんだ。あと一ヶ月後だったらいけたのになあと思ってね」

「そう」と伏し目がちの初歩の横で葉織が顔を出す。


「不治の病じゃあるまいし、ドンと待っていなさいよ。展示会はまたあるわよ」と後ろから元気の良い声が飛んできた。

 男の子は一瞬驚いた顔を見せたが、その励ましの言葉に「モード好きのお姉さんがいたんだね」と加えた。

「ん?」と葉織。

「あらいけない。雑誌の撮影のままの格好だったのね。忘れてた」と両肩から自分の体を見下ろす。撮影衣装のカジュアルな肩紐ワンピースに、ヘアバンドという服装、一方メイクはアイラインとシャドー、チークもバリバリにキメたままであった。そして「でもお姉さんじゃないわよ。この子と私同い年よ」と加えた。

「へえ。なんか大人っぽくって、ファッション雑誌から出てきたみたい」と男の子。

 素直な彼の言葉に葉織は機嫌良く「来月雑誌に出るのよ」と自慢して見せた。

 そして「おや、後ろには彼氏たちか。残念……」と彼が笑うと、二人は大きく横にかぶりを振って「大外れ!」と声を合わせて笑った。

「えっ、じゃあ彼氏じゃないの?」と男の子。

「今朝出逢ったばかりさ」と春彦。

「じゃあ、このきれいなお姉さんはぼくにもチャンスがあるってこと」と笑う。

「のしつけて差し上げます」

「あたしゃ、お中元か」と葉織。

 向き直ると男の子は、「僕は時名純一。私学の高校三年」と自己紹介をした。

「私は阿久葉織。三重県の高校三年」

「私は小宅初歩。同じ三重県の高校三年。葉織とは幼なじみ」

「僕は不二春彦。高校三年」

「僕はただの転校生、小西夏夫、高校三年」


 暑い歩道の街路樹の下、四人は純一と紹介を終えて、少しこころの距離を縮めた。そしてここで夏夫は再び驚いた。


『純一おじさんだ。阿久のおばちゃんの旦那さんじゃないか。これで二組のカップル成立ってわけか。こんな瞬間に立ち会っちゃったよ。しかも純一おじさん、いつも都会育ちって自慢してたけど、下町育ちだったんだ』


 夏夫は純一の話の中に少し見栄のような自負心があったことに気付かされ微笑んだ。

「あなた気に入ったわ。私たちこれからスーパーカーを見てかえってくるから、そしたらまたお話ししましょう」と葉織。

「オーケー。じゃあもんじゃ焼きでもたべようよ」と純一。

「何それ?」と初歩。

「お好み焼きの東京版みたいなものさ」

「へえ!」


 今ほど出版や情報事情が発達していなかった七十年代は、一般的な十代の子どもにとって遠方や違う地方の食生活は、自分たちの生活とはかなりかけ離れた存在だった。自分から情報を探しに行くと言うことは、図書館で一冊の本を探し当てることになる。本や雑誌を探してからほんの数頁の記事を見つけるのだから手間も時間もかかることだった。いまなら「もんじゃやき」をサーチエンジンの検索機能で回せば、ご丁寧に写真入りで紹介記事が出てくるだろう。時代の進歩である。


 またこの頃新しい食生活や名物という部分では、グルメ番組の少なかった当時、かなりメジャーな定番の名物か高級品で話題にならない限り知らなくて当然であった。その代わりに旅行や出張などで珍しいものに出くわした大人が、土産話に子どもに地方の料理や名物を教えるというのがこの頃の日常的なスタイルだった。だから初歩がもんじゃ焼きという料理を知らなくてもこの時代はあり得る話しなのだ。

 程なくして一行は純一の家の電話番号を受け取ると、一路晴海へと歩き出した。


   銀幕の晴海展示場

 マセラティ・ボーラ、ランチャー・ストラトス、ロータス・ヨーロッパ、ランボルギーニ・ウラッコ・シルエット、フェラーリ五一二ベルリネッタボクサー、フィアットX1―9、ポルシェ九三〇ターボ。きらめきながら、ピカピカに輝く夢の名車たちが鉄柵の向こうに勢揃いしている。ひときわ人気を集めているのがランボルギーニ・カウンタックLP四〇〇である。なにせ横開きの扉が多い車種の中で垂直横扉構造ガルウイングや運転席後部にエンジンルームを持っている中央配置ミッドシップエンジンなど、少年たちのこころはカウンタックに釘付けであった。とにかくカウンタックの周りは混み合っていて、写真を写すどころの騒ぎではない。

「ランボルギーニ社は農機具である耕耘機の会社でもある。農業人の気概を見られるスーパーカーって感じだね」と春彦。

「どうりで馬力がありそうだ」と夏夫も笑う。


 興奮気味の男の子たちに対して女の子たちの冷めた臨場感は葉織の一言に集約されていた。

「私、どの車もみんな同じに見えるんだけど……」

「うん」と同調する初歩。

「でも純一くんも格好いいって言っていたし、きっと男の子には魅力に写るのね」

「うん」と再び同調する初歩。

 どうやら葉織にとって、都会的な品の良い純一の意見は、素直にこころの中で消化できるようである。

 二十一世紀から来ている夏夫にとって新鮮なのが、会場のどこに行っても設置してあるフィルム店の多さである。のぼり旗がそれぞれのブースの入口に立ち並び、みどりの旗、朱色の旗、黄色の旗がそれぞれのフィルムメーカーの陣取り合戦のように並んでいる。そこには各メーカーご自慢の撮影感度と撮影可能枚数の違いなどによる商品が所狭しと並んでいる。ASA一〇〇の二十四枚撮り、ASA四〇〇の三十六枚撮りといった具合だ。


「昔、フィルムってこんなに需要があったんだ」と驚きの夏夫。

 そして複数本のフィルムを購入すると簡易アルバムや下敷き、ボールペンなどをプレゼントしてくれるサービスがあった。みどりの旗のメーカーはきれいな女性の表紙のアルバム、黄色のメーカーは子猫が並んで写っているアルバム、朱色のメーカーは人気コメディアンの表紙のものという具合だ。

 次の建物に入っていった四人の目の前に出てきたのが日本車の三台である。トヨタ二〇〇〇GT、フェアレディ四三二Z、コスモスポーツ。それぞれトヨタ、日産、マツダが誇る日本のスーパーカー、スポーツカーである。その姿を見つけるやいなや春彦は「あった!」と駆け寄っていった。「ペガサスホワイトの妖精だ!」と言ってシャッターを切り始めた。

 あとから歩いてきた三人もなじみのメーカー三社の自動車ということで親近感を覚えたようである。

「へえ、日本の車にも斬新なものがあるのね。あんまり走っているの見たことないけど」と葉織。

 その横で相変わらず「うん」と応える初歩。

 ただし夏夫はこの二〇〇〇GTのフォルムの美しさに魅了されて、春彦に続いてシャッターを切り始めた。

「すごい車だ。これが一九六七年の日本で作られたのか……」


 トヨタ二〇〇〇GTはトヨタ自動車と現在のヤマハ発動機に当たる部門が共同で開発したグランツーリズムをコンセプトにしたスポーツカーである。ホワイト以外のカラーも存在したが一般的に知られているのが、ペガサスホワイトと呼ばれる白い二〇〇〇GTである。イギリスの映画〇〇七シリーズではオープンカー仕様でスポークホイル・タイヤをつけたこの車が、ジェームズ・ボンドを助手席にのせて、東京の町中を走り回るシーンを見ることができる。映画の中で運転したのが日本の諜報部員に扮した女優の若林映子さんである。この映画のおかげもあって、海外でも人気が高く、生産台数が少ないことも重なって幻の名車として知られている。

「トヨタは世界を股にかけてきたんだ」

 この春彦の言葉に、

「歴史を紐解けば、トヨタも機織り機械の会社が基本ベースで、自動車部門として発展したよね。お蚕さんを扱う農業人を助けてきた気概だね」と夏夫。

「やっぱり農業って、長いスパンで言えば文明を進化させてきた部分もあるのかもね」と生意気に文化論を説く二人。


 ひととおり撮り終えた春彦が夏夫の横に並んだ。夏夫は「〇〇七の映画に登場ってのもすごいけど、このフォルム、君の言っていた魅力が解った気がするよ」と二〇〇〇GTのほうを見ながら話しかけた。

「すごいだろ」

「ああ」


 感無量であった。青春期の男の子はひとつのわかり合えるなにかを見つめたときに通じ合えるときがある。同じ価値観に、同じ審美眼、そして同じ空間でそれを味わうことは、男同士の友情にたどり着いた瞬間であった。トヨタ二〇〇〇GTがはぐくみ、教えてくれたのだ。


「こっちもとっちゃおうぜ」と春彦。

「四三二Zもなかなかお目にかかれない代物だ」と加えた。

「そうなの?」

「フェアレディというネーミングはね。ロマンチックな日産の当時の経営者がつけたのさ。やはり演劇や映画に関係する話でね。『マイ・フェア・レディ』というミュージカルか映画の作品に感銘を受けてネーミングしたと聞いているよ」

「じゃあ、もしミュージカルならブロードウェイね。そして映画ならヘップバーンの映画やわ」と葉織。

「誰?」と夏夫。

「いやね。オードリー・ヘップバーンじゃない。『ローマの休日』で有名な女優さんよ」

「ふーん」

 夏夫は解ったような、解らないような返事で応えてから、「二〇〇〇GTといい、フェアレディといい、意外に日本の車メーカーの人たちは舞台や銀幕が好きなんだね。おしゃれだね」と言った。


 彼の言ったこのセリフ。このあと、『マイ・フェア・レディ』と同様に、下町を舞台にしながらも、『ローマの休日』のようなひと騒動がおきることを一行は予想だにしなかった。

 会場の出口にはスーパーカーのカードや下敷き、トランプ、書籍などが売られている。凄まじい人だかりである。そんな人混みを横目に四人は来た道を築地方面へと歩き始めた。

 ここまでほとんど口を開けば「おなかすいた」と「うん」しか言わなかった初歩が突然きりだした。

「春彦くん」

「なに?」と春彦は後ろにいた彼女のほうを振り返る。

「私ね。来年、こっちの大学受けるんやけど、もしこっちに来て友達できんかったら、友達になってくれる?」

 もじもじしながら西日になりかけた夏の太陽を背にして問いかけた初歩に春彦は一言返した。

「言っている意味がわからないけど、もう友達じゃないかな。僕たち」

 その笑顔に初歩は安堵の笑顔をむけて「ありがとう」とつぶやいた。

「あんたたち、青春って感じね。映画よりよっぽど銀幕っぽいわ」と葉織。


   『築地の休日?』

「八百屋の横丁にのれんの出た千乃音というもんじゃ焼きの店がある」


 電話で聞いた純一の言葉通りに、四人はその店にたどり着いた。ようやく日差しも柔らかくなりもう少しで赤色に染まるといった時間。打ち水を済ませたアスファルトの路面。下町の風情が残る路地裏通りの植木鉢の並ぶ横丁の店だ。聞いたとおり、白地に墨一色の暖簾で千乃音とある。入口はこの当時よく見られた木枠でできたガラスの引き戸で、上下段のガラスが磨りガラス、中段のガラスは通常のガラスで店内が見える。軒先には波模様の白青地に赤で

「氷」と書かれた小さなの暖簾旗が下がっていて、中途半端に下ろされた、すだれが夏の夕べを物語っている。


 中は鉄板の付いたテーブルが五卓、愛想のよいおばさんが三角巾を被って一番奥の席に招待してくれた。

「あんたらかい? 純一の新しい友達って言うのは」

「はい」と葉織。

 返事をした葉織の身なりをしげしげと見て、そのおばさんは「あんたべっぴんさんだね。あんなさえない純一の友達とは思えないけどね。あんたみたいなガールフレンドがいたら、わたしゃ鼻が高いね」と飾りのない言葉で鉄板をもんじゃ用の大きな、はがしへらで磨きながら笑った。

「あの。おばさん誰ですか?」と初歩。

 初歩のほうを向き直ると「わたしは純一の母親さあ」とはにかんでみせた。

 それを聞いてあわてて挨拶をし出す四人。

「初めまして、おかあさんとは知らず失礼しました。私。小宅初歩です」

「わたし阿久葉織です」

「僕は小西夏夫です」

「不二春彦です」

 改まった四人に好印象を感じたのか、純一の母親は三角巾をとるとお辞儀をして、

「純一の母親です。仲良くしてやってね。いまあの子、どこにも行けなくてぐずぐずしっぱなしだから。本当はもう外出許可出てるんだけどね」と笑っ

た。


 そして奥の扉から純一が丁度姿を見せると「おやおや一日中着たきり雀のパジャマ小僧が、ちゃんと着替えてきたよ。べっぴんさんの力はすごいねえ」といいながら調理場へと戻っていった。

 純一は母親を軽くにらむと「かあさん、また変なこと言ってないだろうね」と釘を刺す。

 奥から「あたしゃ、挨拶しただけだ。あんたのことなんか話題にもしてないね」と小唄混じりに返事をした。

「おかあさん気さくやね。わたしあれならうまくやれそうやわ」とジョークを飛ばす葉織。


 少し赤ら顔の純一は「サンキュー」と笑うと「好きなもの頼んでいいよ。今日はおごるから」と言った。すると奥から聞こえてきた声が「おごるのはかあさんです。その子は一銭も払いません」と涼しい顔で親子ならではのジョークを飛ばす。


「とりあえず、かあさんの好きでもってきてよ。ごちそうになりますね。かあさん!」


 会話を遮りたいのか、純一は当てつけておおざっぱな注文に切り替えた。

 全員に麦茶が行き渡ると葉織が夏夫に向かって言った。


「そういえば小西くんだけ、学校も家もどこだか訊いていなかったわね」


 夏夫は『阿久のおばちゃん。そこ触れなくていいよ』と内心思ったが、この状況で逃げ切れるはずもなく、嘘もあまりつきたくないので「結構遠い場所なんでいってもわからないよ」と言った。

「どれくらい遠いの?」と初歩。

「ここから電車で何時間くらい?」と純一。

「いや。公共の乗り物じゃいけないし、地図にも載ってないと思う」

 腕を組んでいた春彦が「やっぱり外国だ。最初会ったときからそうじゃないかと思ったんだ」と加えた。

「一時帰国っぽい話をしていたよね」と続けた。

「ええっ、外交官の子どもなの? 総合商社?」と興味は尽きない。

 初歩は「ご両親はなにしているの?」と問う。

 夏夫は『母親はあんただよ』と言いたい気分だった。『もともとあんたが新聞を片付けてどっかにやっちゃうから、こんな言い訳のできない環境になってしまったんだぞ』とお説教でもしてあげたいほどだった。

「そんな毛色のよい家に生まれてないから」と夏夫。若かりし頃とはいえ、両親を前に少々気のひける台詞である。

「それより葉織さん、追ってきた人たちの相手はもう大丈夫なのかな?」と話題をずらす夏夫。それにはっとした葉織。

「いけない。連絡入れておかないと大事おおごとになる」

 すっくと立ち上がった葉織は「公衆電話どこかな?」と問う。

「いいよ。ここでかけな」と純一の母親。


 純一の母親はピンク電話の鍵を外すと硬貨なしで掛けられるようにしてくれた。プッシュホンの少ない時代、電話のほとんどはダイヤル式だった。ジーカラカラ、ジーカラカラとダイヤルの行き来する音が響く。

「もしもしパパ。あれどういうことやの。越美さんと白馬さんが東京におったいに。なに? 田室さんと辺留盆さんもこっちに向かったんかいね? はあ? どうなっとるんや?」

 横で初歩はいつものことという顔で「また親子の言い合い、小競り合いやね」とつぶやく。


「奥さん、けっこうあれてますけど」と夏夫は純一に言う。

「奥さんじゃありませんよ」と純一。夏夫はうっかりという顔で『まだ奥さんじゃなかった』と心中で独りごちた。

 電話の最中に葉織が初歩にペンで字を書くジェスチャーをした。筆記用具の要求だ。素早く初歩は自分のリュックサックからメモ用紙とボールペンを渡

す。

「だから東京にいるから心配ないんだにぃ……」

 父親と電話をしながら書いたメッセージを葉織は初歩に見せる。

『あと少しで越美さんたちがここにくる。まずい。連れ帰される』

 そのメモを男の子たちも見た。そしてそのメッセージをみるやいなや立ち上がったのは意外にも病み上がりの純一である。勝手口に通じる扉を開けて、逃げ道の確保に努めたようだ。

「……もう切る」と一方的に葉織は電話を切った。

「はおちゃん。どう?」と初歩。

「とりあえず、宿で会いましょう。ここはもうつきとめられているみたいや

わ。不二くんも明日朝十時にここでね」

「解った」という初歩と春彦の返事が早いかいなかという瞬間に、葉織の手を引っ張って勇敢にも純一が勝手口に連れて行く。バタンという音がした直後

に、入れ違いで越美氏たちの姿が店先に見えた。

 引き戸を開けて半身乗り出した格好で越美氏は「小宅さん。こんばんは。葉織さまはどちらに」と訊ねてきた。

「あ、こんばんは。今お手洗いじゃないですか?」と返す。

 そのとき自転車のスタンドを解除する金属音がパタンと響いた。

「バカ」としかめ面の春彦。


 すると越美氏の後ろにいた白馬氏が「あの自転車が葉織さまだったかもしれない!」と指をさして言った。みれば紺色の空を背景に二人乗りをして去って行く自転車があった。そのまま月に向かって飛んでいきそうである。

 振り返る越美氏にあごで指図する白馬氏、軽く会釈すると二人は静かに引き戸を閉めて走り出した。

「はおちゃん、しっかり」と念じる初歩。

 事のしだいを見ていた純一の母親は「お嬢さんってのも大変だね。あたしゃ貧乏人の娘でよかったよ。まるで『ローマの休日』見てるようだ」とあきれ顔で、もんじゃ焼きの具を銀盆にのせてテーブルに現れた。


「こっちのお嬢さんはおうちはなにしているの?」

「私の家は父は役所の公務員で、母は自治体の美術館の学芸員です。だから大金持ちではないです」

「あらあら、堅実なお家だこと。それでのんびり屋なのね」

 残りの三人の前に鉢を並べながら純一の母親が続ける。

「二人前余っちゃったから私もいただこうかね。今焼いてあげるからね」

 彼女は鉄製の大きなはがしへらを一旦鉄板の横に置いて、鉢に添えられたスプーンを握ると調理を始めた。

「もんじゃっていうのはね。この野菜の具をしならせて土手を作るところから始めるんだよ」


 手際よくスプーンで具だけをよそった。そして具のキャベツやもやし、コーンににんじん、エビなどが熱で琥珀色に染まり柔らかくなったところで、両手に大きなはがしへらを持ち替えて小刻みに叩いていく。ペースト状に仕上げて、その具をリング状、噴火口のように丸く形を作っていく。いわゆる土手と呼ばれるものだ。そして鉢の中に残っていたもんじゃの汁をその土手の中に流し込む。まるで鉄板の中にできたカルデラ湖のようになる。

 知らなければ、それをお好み焼きのように固めると思うのだが、もんじゃはこれを再びかき混ぜてしまう。そしてムースやグラタンのようなクリーム状の柔らかさのまま小さなはがしへらですくっては食べるのである。


「見た目はどうかなって思ったけど、結構いけますね」と初歩。

「だろ。だし汁がうちは決め手でね。ラーメンの煎餅菓子なんかを入れるとさらにいい味になるよ」

「へえ、じゃあこれもいけるかも」


 そういって初歩は自分のリュックの中から一袋の煎餅菓子を取り出した。

「なんだいそれ」

「これねえ。『山ん中あられ』っていう三重の名物。三重の人はこのあられにだし汁やお茶、お湯をかけてふやかして食べるの。主におやつやお夜食にしてる」


「へえ。そんな食べ方をねえ。じゃあみんなで試してみようねえ。もう今日は貸し切りにして、店じまいだ」

 そう言って純一の母は戸口の札を裏返し『閉店』にした。そして暖簾を手際よく屋内にしまうと、お湯を取りに厨房に戻った。

「あの二人は大丈夫でしょうか? 心配しないんですか?」とのんびり食事の会話を楽しんでいる二人に疑問をぶつける春彦。やはり正義感、心配性、責任感の人なのだ。


 するとポットを持って戻ってきた純一の母は平然と「行き先はわかっているから大丈夫さ。父親のところ。私の別れた旦那のところさ」と笑って見せた。

「場内だからたとえお金持ちでも入るのには苦労すると思うよ」

 その言葉に春彦は「市場の中か! こいつはいいや」と安堵と喜びの混じった笑顔を見せた。

「あと一ヶ月はじっとしているっていっていたのに、純一くん結構元気よね」と初歩。


「だから言ったろう。もう外出許可がでるくらい元気なんだよ。ただ学校行くのが嫌だったから長引かせているだけ。ずる休みさ。具合悪いって言うくせに、べっぴんさんにはほいほいついていくんだからね。誰に似ちゃったんだろうね、あの子は」


 麦茶をすすりながら微妙な面持ちの純一の母親。彼女の話す下町ジョークに、一同は笑いながら頷いていた。



   営団銀座線

春彦たちが初歩を送るために、上野の宿の近くまで戻ってきたのは午後七時を少し回ったところだった。不測の事態に備えて、純一の母親には春彦の家の電話番号を渡しておいた。勿論携帯電話など存在しない時代にはベースとなる連絡先が必要だったからだ。この当時の慣例として、ある者は自分の家に誰かいればその家族にお願いをするし、またある者は顔なじみのショップや行きつけの喫茶店などを連絡先代わりに使うような時代だった。とにかく待ち合わせる者同士の双方が外出してしまったときの連絡手段はそんな感じだった。


 初歩を真ん中に、三人は肩を寄せ合う。日のとっぷりと暮れた上野公園の中を本郷方面に向かって歩いていた。特に変わったこともなく、黙々と歩き続ける一行に時折夜光虫の羽の音が聞こえてくる程度の静けさだ。おそらくすぐ脇にある動物園のジャイアントパンダのランランとカンカンも眠っている頃だろう。……元い、パンダは昼でも寝ている可能性がある。

 その一瞬の隙を突いて、夏夫は暗闇の藪の中から急に手を引っ張られた。あまりにとっさのことで、抵抗もできないまま、藪に引きずり込まれてしまった。無言のまま歩いていたので、特に変化もなく歩き続ける春彦と初歩。

 しばらく歩いてから、最初異変に気付いたのは隣を歩いていた初歩だった。

「あれ、小西くんがいない」

「なんだって?」

 春彦も急いで辺りを見回すがひと気がない。

「どこか脇道で逸れたのかな?」と一考したが、すぐに「下手に動いてもはぐれてしまうから、この場で待っていよう」と春彦は案を出した。

「そうね」と同意の初歩。

 二人は仕方なく水銀灯の下で夏夫の合流を待つことにした。


 一方の夏夫は尻もちをついて「いてっ」と発した。その声を出してから、息つく間もなく口を不意に手でふさがれた。

「うぐぐっ」

 もがく夏夫に「シーッ」という声が重なって聞こえた。

 暗闇に目が慣れてきてわかったが、純一と葉織だった。相手が何者かわかり、しかも仲間だったので一安心。夏夫は安堵した。

「オーケー。もうわかった」

 そう言ってふさいだ口元の手を払いのける。

「どうしたのさ」と夏夫。小声で訊ねる。

「ホテルの周辺は完全に張られている。移動不可能だ。それでさっき公衆電話から予約をキャンセルをしてしまった。明朝、宿代の半額を支払いに行く約束をした。僕か、残りの男、君か春彦くんがいいね。女性たちだと捕まってしまうかもしれない」

「ふーん」と相づちを打ちながら、夏夫は葉織の家がかなり立派な家であることにあらためて気付かされた。

「なら、はやくあの二人を止めに行かないと。面が割れていないのは君だけだ。急いで追いかけてくれ」と夏夫。

「勿論。そのつもりで君を引っ張り込んだ。僕が二人を追いかけている間、葉織ちゃんをよろしくね」

「オーケー。じゃあ、君が彼らに追いついたら、町山田の春彦君の家で落ち合おうと伝えてくれ。僕は葉織ちゃんと一足先に町山田に向かうから」

「わかった」

「じゃあ、町山田で」

 そう告げると軽く手を重ね合わせて、ハイタッチの姿勢で純一と夏夫は笑顔

を交わした。


「さあ、葉織ちゃん、いくよ」

 そういって夏夫は若い頃の阿久のおばちゃんを連れて茂みを飛び出し、広小路方面へと歩き始めた」

「上野駅はターミナルなので追手が張り込んでいる可能性が高い。それを避けて上野広小路駅からメトロの銀座線で行くよ。……っていっても営団線って言うのか、この時代は」

「うん」と頷く葉織。

「そのまま丸ノ内線に乗り換えて新宿に行く。そこから私鉄で町山田へ向かう。それが今回の行程だ」

 夏夫の説明を聞きながら「純一くんも夏夫くんも頼りになるね。純一くんは東京の道路が結構頭に入っているみたいで、抜け道を駆使して連れてきてくれたわ。小西くんは地下鉄の路線図が入っているのね。すごい!」と感心していた。


 夏夫は褒められてまんざらでもないのだが、いくら多摩地方とはいえ、東京生まれの東京育ちからすれば普通のことなのである。外見はファッショナブルでも、中身はやはり地方出身者の葉織なのであった。


「宿に置いてきた荷物は明日まであきらめよう。新宿でいったん降りるから、そこで明日の着替えや化粧品などの必要なものはそろえてね。町山田まで行くと都心と同じものは入手しにくいので。あと初歩ちゃんのものも買っておけるかな?」

 手際よく説明をすると「軍資金はたんまりあるから大丈夫よ」と葉織。

 二人は西郷さんの銅像を横目に『食堂聚楽台』の大きな看板のある自由通路の入口に飛び込み、階段を降りて広小路へと向かった。



   三重観光の約束

 多摩急行電鉄町山田駅。国鉄の駅とは少々離れた私鉄の駅。この頃放送局主体の住宅展示場がオープンしたためにラジオなどを通して、その名前が関東一円に知られるようになったが、まだまだ都市近郊のベッドタウンというイメージが抜けない時代であった。


 そこからバスで十分ちょっと、里山の叙情感が残る集落が春彦の家、不二家のある場所だ。バスを降りた瞬間に、驚いたのは葉織だった。バス停の上の電灯にはカブトムシやカナブンが集まっている。

「ちょっと、ここ東京なの?」

 その質問に対して苦笑いの夏夫。お世辞にも東京のイメージとはかけ離れており、都会とは言えないからである。

「住所は東京都だけどね」

「私の住んでいる三重のほうが都会なんですけど」

 この時代の町山田の市民もその台詞には誰もが頷くはずである。住所だけの東京都よりも地方都市の中心部のほうが便がいいに決まっているからだ。おまけにニュータウンや団地の住民なら敷地内に商店やスーパーが設置されていて便利だが、古くからの集落にはコンビニのない時代、あるのは個人商店や万屋さんの類だけである。したがって午後九時を回ったこの時間に開いている商店はない。自販機の灯りがぼんやりとともっているだけである。

「あの山の向こう側が横浜市なんだ」

「はあ?」

 ほとんど見えない山の稜線に向かって指をさす夏夫に、葉織は疑いの目を向けた。

「私のこと田舎から来たと思って適当なこと言ってへん?」

「本当さ。横浜市緑区。れっきとした横浜市だ」と自信を持って言う。

「なんか観光名所の港とか西洋風の町ってイメージがないわね」

「それって単なる観光のイメージで、そこで市民全体が生活しているわけじゃないから」

 この理屈に納得したのか、「そうやね。三重全体が伊勢志摩ってわけでもないもんなあ。あれも観光のイメージか……」と葉織は同調した。

「伊勢か……。伊勢神宮だね」

「そう。日本で一番と言っていい高貴で大きな神社さん」

「そっか。伊勢神宮って由緒あるお宮さんだね」

「皇室祖廟ともいわれており、国民全体の氏神さまともいわれているわ。だからお願いは勿論だけど、毎日を元気に過ごせることに感謝、ありがとうを念じてお参りするのが伊勢の人の心意気なのね」

「へえ。今度一度いってみたいねえ」


「いらっしゃいよ。案内するわ。いいところよ。伊勢の方言では『よいとこせ』っていうの。魚介類も、果物も、お米もみんなおいしいわ」


 この話を葉織としていたとき、三重出身の彼女たちが上京して春彦と友情を育み、やがては愛情へと変化して、家庭を作ったことに不思議なご縁を感じずにはいられなかった。自分を暦人に選んだ裏山の日月さまの意図のようなものを勝手に感じてしまった。もちろん何の根拠もない夏夫の妄想かもしれないのだが、お伊勢さまとお天道さまのお導きがふと脳裏をかすめたことは偶然と必然の二文字が夏夫の中でぐるぐると渦巻いていた。


「じゃあ、大人になったら、今日見た、あの二〇〇〇GTで三重を旅しましょうか」

「ははは、いいねえ」


 夏夫は珍しく無邪気な葉織の提案に半分冗談で相づちを打った。それというのも二十一世紀の現在、完動品の上等品、きれいな初期型のトヨタ二〇〇〇GTは億単位の取引がされているものもあるからだ。そこそこの使用度の完動品でさえ二千万円はするという。値段などわからなくても、どう考えたって一般人の夏夫が手に入れて、維持していくのは容易なことでないということぐらいはわかっていたからだ。


 バス停のベンチで二人が話を始めてからどれくらいの時間が過ぎただろう。次のバスのヘッドライトが二人の目に映った。

「あのバスに乗っていないと次は一時間後だね」

 視力のよい葉織はすぐにドア口に立つ三人を見つけたようだ。

「乗っているわ。三人とも」

 そうしているうちにバスは二人の前に到着して、ドアを開けた。中から大荷物を持った三人が飛び出してきた。

「お待たせ」

 春彦はいつものようにクールに笑って見せた。

 そしてそのバスの車体をみた葉織は再び「本当にここ東京なの? 神奈川センターバスって書いてあるわよ」と町山田市民にはおなじみのネタで疑問を投げかけた。

「町山田はね、行政区分は東京、地域文化は神奈川なので神奈川都民とか横浜市東京区とか冗談でいわれているの。だって町の境の電車で繋がっている場所が東は川崎、南は横浜、北と西が相模原とみんな神奈川なんだから」と笑いながら春彦が応えた。


   大人の優しさ

 春彦の家はいつになく大忙しの状態であった。なかでも一番の大はりきりは母親の冬美である。なにしろ女の子二人が訪ねてきてくれたとあって、話し相手ができたようで生き生きとしている。少し遅い食卓を囲んで話が弾む。晴れ着のこと、ファッションのこと、好みの男性俳優のことなど、日常この家の食卓で話されない話題が続いていた。

「いつもカメラと土いじりの話だけだからうれしいわ」というのが冬美の意見である。

 そして「今日一日の話を教えて」という冬美のリクエストに初歩が応えて、事細かに時系列を追って話し聞かせた。朝の出会いから、オーディション会

場、スーパーカーショーに、純一の家のもんじゃ焼きの話、めまぐるしいテンポの一日の行程を一部始終説明する。

「…で、そんなこんなでやっとここにたどり着きました」

 その話を聞いた冬美は「随分盛りだくさんな一日だったのねえ」と感心すると同時に、「今の話を聞いてる分には、秘書さんたちはそんなに悪意があるとも思えないけどね」と大人ならではの意見の落としどころを見つけた。子ども側から見れば、親の立場での杓子定規にもうつるケースだ。

 客観的に考えれば、確かに具体的に何かをされたというわけでもなく、葉織が一方的に逃げ回っているというのがシンプルな考え方である。あちらとしては、逃げる葉織をただ追いかけているだけで、何の手出しもしていないのである。


「でもまあ、日常的ないきさつなどを考慮していないので、一概に決めつけはできないけどね」と冬美は所詮外野である自分の立ち位置も無難に付け加えておいた。

「それで明日はどうするの?」と話題を変えた冬美。

「はおちゃんの用事が済んだので、明日は私が受験する丘の上女子大を見に行きます」と初歩。

「横浜の?」と反応の良い冬美。

「ええ」

「私その学校の高等部の卒業生なのよ」と再び冬美。

「そうなんですか。じゃあ場所訊いておけますね。やった」と何の根拠もないのに憧れの学校に一歩近づいた気分の初歩である。


「私の頃は市電が走っていたけど、いまは根岸線の石川町駅下車で行くのが一番近いわね。受験の宿は桜木町や関内にビジネスホテルがたくさんあるからご両親ととまるならその辺がいいわ。一駅だし、もし市営バスが出てればもっと楽かも知れないわね。まあ、明日自分で確かめてみるのが一番いいわ」

「はい」

「お礼拝堂も素敵だし、帰り道に美味しいお店がいっぱいあるの。元町商店街っていうのよ。懐かしいわあ。古くからある女学校だから卒業生も多いのよ。あの辺はマリンタワーや氷川丸もあるから、下見が終わったら散歩してくるといいわねえ」

説明半分、思い出話半分でうっとりと冬美がそんなアドバイスをした時だった。土間を兼ねた上がり端の玄関先にスーツを着た男性四人が一糸乱れぬ整列状態で挨拶をしてきた。


「ごめんください」

 勿論聞き覚えのある声に葉織と初歩はドキリとした。

「越美の声だわ」と葉織。

「つけられてた?」と初歩。

「……みたいね」と葉織。残念そうな面持ちだ。とりようによっては観念したような表情にも見える。

「はーい」

 誰かも知らない冬美は能天気に玄関先に小走りに出向く。そこにはスーツ姿の礼儀正しい秘書の越美氏たちがいた。冬美が上がり端まで行き着くと深々と礼をして、越美氏は困っているように話し始めた。


「突然のお邪魔で失礼します。私、阿久物産で社長室室長と秘書課長をしております。越美酒造えつみさかぞうと申します。連れは順に社長室副室長の白馬、秘書課相談室長田室たむろ、経理部副部長の辺留盆べるぼんです。本日はお宅に阿久葉織さまがご厄介になっているとの連絡があり、お話をさせていただきたくお訪ねしたしだいです」


「あら、まあ、それはご丁寧に」と冬美。

「それで手土産代わりと言っては何ですが、社長、葉織嬢の父親よりのお礼としてこちらをお渡しするように言いつかって参りました」

 そう言って越美氏は日本橋の老舗百貨店の包み紙にくるまった大きな箱を差し出した。

「いえいえ、こんなものいただくいわれもありませんから、どうぞお持ち帰り下さい」

 そう言って冬美が押し返そうとすると「いえ、受け取っていただかないと社長に私たちがしかられてしまいますので、どうぞ気持ちと思ってお納め下さ

い」と今度は相手方の越美氏が手で軽く押し返した。

「そんなことを言われましても、今初めてお目にかかった方にいただくというのもいかがなものかと存じますが」と再び冬美も押し返す。

「困ります。困ります。私が社長から大目玉です。お願いです、納めていただかないと…」と本当に弱った顔になり始めた。

「でしたらご厄介になるお宿代と言うことで、何とぞ……」と代替案を出した越美氏は冬美に懇願のまなざしである。


 さすがにここまで言われるとそろそろ引き際である。冬美は仕方なく受け取ることにした。

「わかりました。ではお気持ちとしていただきます。次回からはこのようなものはご遠慮下さい。かえって堅くるしくなっていけません」

 当時はこの遠慮のやりとりが相手の信頼と常識度を測る目安だった。かつて日本の一般家庭の玄関先では、日常のように行われていた社交辞令の一種である。経済環境が社会に及ぼした「失われた二十年」以後すっかりこのような光景を目にすることも少なくなった。生活の慣例が簡素化して「はい、お土産です」に対して、「これはどうも」、あるいは顔見知りなら「サンキュー」のレベルで一般家庭の常識がフランクになった結果であり、親しみのある生活習慣がおおよその家庭に浸透した結果であろう。


 このような遠慮のやりとりは現在もないわけではないが、会社の重役同士やオフィシャルな場などで見られたり、大事な商談などでも行われているよう

だ。しかしかつては社会に出たり、結婚して家庭を持つと、この程度の社交辞令を庶民レベルでも見よう見まねで覚えていくことが、一部では大人としての生活を送る第一歩だった。一回引っ込めたり、押しつけたりを繰り返し、端から見ていると演劇のリハーサルと勘違いしそうなやりとりだ。


 さらに親しくなるといただいたお茶菓子を早速その客人に「お持たせで恐縮ですが…」と出したり、包んできた風呂敷や器、容器の類を「空でのお返しは失礼になりますので…」と言って家でとれた果実や失礼のない程度の簡素な家にあるものを入れてお返しするなんていうことも多かった。


 要するにこの判断の物差しによって、冬美は越美氏たち一行を常識を備えた社会人として理解したというところに繋がるのである。ここは子どもたちの論理とは随分違うこの当時の大人の価値判断がはたらいた。

 受け取ってもらえたという安堵感は越美氏の方にもあり、客人として認めてもらえたということで、訪問した本来の目的を申し出た。

「すみません。恐縮ではありますが、社長が心配しているので葉織さまとお話をさせていただいてよろしいでしょうか」

「ええ、ええ。むさ苦しいところですが、どうぞお上がり下さい」

 そう言って冬美は越美氏たちを食卓のある居間へと誘った。

 驚いたのは葉織たちだ。自分たちが逃げ回っていた相手が勢揃いして、隠れ家の茶の間にやってきたのだから。

 越美氏たちの姿が見えるとうつむく葉織。いつもの強気な性格はどこへやらといった感じの表情だ。


「お嬢さん。あんまり不二家の人たちにご迷惑を掛けないで下さいね。社長には、私のほうから明日にはお帰りになるとご報告しておきますから」


 食卓を前にして、腰を落とす前に越美氏が話す。


「私たちだって、なにも興奮して見境のない社長のご指示を全部お嬢様に飲ませるようなことはしませんから、あんまり手こずらせないで下さいな。築地市場の場内じょうないに入るのにどれだけ苦労したことか。また上野の宿までやっとの事で追いついたのにまた高飛びなさって。社長とお嬢様のご両人の考えの落としどころをうまく潤滑油となってさばいているつもりですから、もう少し私たちを信用して、一方的に社長の手先みたいに思って逃げないで下さい」


 意外に冷静で友好的な越美氏の言い分に葉織も「はい」と素直にうなだれた。


「ではお二人のお荷物は私たちが責任持って上野のお宿から三重まで運んでおきます。ついでにお支払いも済ませておきます。よろしいですね」

「はい」と葉織。

 初歩は「よろしくお願いします。重い荷物もって帰らなくていいなんてラッキー」と渡りに船の具合である。相変わらずのお気楽屋だ。

「さあさあ、雪解けも済んだら、湿っぽい話は終わりにして、秘書さんたちも召し上がって。今日は厚木の鮎がたくさん貰い物であるから食べてね」


 こういった場所に場馴れしていないのか、ぎこちない表情で葉織の父の秘書たちは、冬美の言葉に遠慮がちに箸をつけ始めた。

 越美氏は串に刺さった鮎の塩焼きを背中側からかじると白馬氏と目を合わせた。

「これは宮川の鮎並みにうまい」

「わかりますか? 鮎の味の善し悪し」と今まで沈黙していた秋助が嬉しそうに言う。

「もちろん。四万十の鮎にも負けない、宮川の鮎はあのあたりじゃ天下一品で

す。それに匹敵する味とは、食べている川のこけがきれいなんでしょう」と続けた。


「厚木の相模川とその支流の中津川一帯は鮎の宝庫なんですよ。神奈川の穀倉地帯なので自然が残っている場所です」

「肉付きも天然物独特の太さがある。これはお金を出してもいただけないいい鮎です。それを東京近郊でいただけるとは…」

「実は知り合いが友釣りの名人でね、傷をつけずに釣るのが得意なんですよ」

「ほう、鮎自体だけでなく、釣る人の腕で鮮度も良いと言うことですね。ちなみに一匹のオトリで何匹ぐらいいけるんですか」

「その人の話では五、六匹はいけるといっていたかな。いやもっとかも」

「うん、ベテラン級の釣り人だ。そんな鮎をいただけて最高です」


 友釣りは鮎の縄張り習性を利用した釣りの方法なので、おとり鮎の体力消耗が早いと操作が下手、長くもてばおとり鮎の扱いが上手であるという会話である。釣り糸で操られたおとり鮎が自分の縄張りに入ってくると、その縄張りの鮎は体当たりをして自分の縄張りからおとり鮎を追い出そうとする。その体当たりの時に糸に仕掛けられた針に鮎を引っかけて釣る方法なので、おとり鮎はあわせの遅い釣り人が使うと、当たられすぎて弱ってしまうということのようだ。


 べた褒めされた鮎に機嫌をよくしたのか、酒の相手をしてくれる年齢の人が来てくれたからなのか、秋助はいつになく饒舌になったようだ。


「宮川っていえば、外宮さんの禊ぎの川だね。江戸の頃はあの川で身を清めてお参りしたというじゃない」

「よくご存じで。私はその川の支流で産湯を授かりまして……。あの川の上流域は特に全国でも水が清らかなことで有名なんです。だから酒造りも盛んなんですよ」

「水はきれいで水量もあるおおきな川だからなあ。種籾さえいいもの選べばさぞかしいい酒が造れるだろう」

「三重に来たことがおありで?」

「随分昔だけどね」

「そうですか」


 大人がお国自慢と天然素材のグルメ談義を交わしている時、暇をもてあました若者たちは二階へと上がり、春彦ご自慢のスーパーカーカードとカメラの話を始めた。女の子たちもつられて二階へと上がった。春彦は例のご自慢の缶箱を開けて純一にカードを見せる。

「結構集めたね」と純一。

「このフェラーリ・ディーノがたまらない」

「ほう。通だね」

「こっちのポルシェ・カレラもいいね。ポルシェ九二八も悪くない」

「九二八と九二四ってポルシェっぽくないよな。デザインが」

「ああ、イタリア車って感じだね」という会話をする二人の横で、夏夫は『どうみてもマツダのユーノスにみえるけどなあ』と思っていたが黙っていた。

 純一はひとしきりカードの名車を堪能した後、葉織のほうを振り返って「よかったね。完全におとうさん側の味方というわけでもなかったようだね」と笑った。


「そうね。ちょっとだけ越美を見直したかな」

 正確にはそもそもよく確かめもしないで、逃げ出した葉織に問題があったと言うべきである。

「まあ、取り越し苦労だったってわけだ」と純一。

「でもあれは春彦くんのおかあさんのおかげかもね。大人同士の説得って、子どもにとって何が一番なのかを吟味してくれるヒントになるでしょう。わたしもあんな素敵なおかあさんになれるといいなあ」と初歩が言う。

 その横で『なれてないかな? 新聞を出してくれたらそう思ってあげてもいいよ』と内心笑っている夏夫がいた。

「…っで、明日の予定だけど、午前中から横浜に行くんでいいかな」と春彦。

「オーケー」

「意義なし」

「了解」


 その返事を確認して「では満場一致で横浜に向かいます」とまとめた。

「そして私たちは午後九時の夜行列車で三重に戻ります」と葉織。

「そっか」と少し残念そうな純一。

「お三方、本当にいろいろお世話になりました。私、東京って怖い人ばかりだと思っていたのに、結構いい人もいるんだとわかった」

 初歩もちょっと残念がりながら東京の感想を述べた。

 すると「僕、葉織ちゃん心配だから一緒について行こうかな?」と純一。

「えっ?」

 さすがに残りのメンバーも全員が耳を疑った。

「いや、もちろん松阪に着いたら引き返して、帰りは名古屋から新幹線で帰ってくるけどね」という純一の説明を遮って、「そういうことではない」と春

彦。

「君、ここまで動けるんなら、十分スーパーカーショーにいけたんじゃないかな?」と続けた。

 一同共に「うん。そう思う」と声が重なった。

「ははは、だよね。恋の力ってすごいな」と純一。

 その言葉に過剰反応の葉織。

「えっ? あれってほんとなん? 冗談かと思ってたわ」

 両手をほおで押さえてみたかと思えば、今度は両手で顔をぱたぱたと団扇のように扇ぎ始める。明らかに葉織は不自然な行動をしている。

「よかったね。はおちゃん。行かず後家さんにならへんで」と初歩。

 春彦は素直に「葉織ちゃんって、金持ちの高飛車女だと思っていたら、こんなに赤面して意外にかわいい女性だったんだね」と笑う。

 旅の魔法なのか、東京への憧れなのか、恋というものはいつでも勘違いと、思い込みと、偶然が織りなすロマンスから生まれるのである。


   それぞれの青春

「どうでもいいけど、すごい石段だな。もし初歩ちゃんが入学したらここを毎日通ることになるんだろう。体力つくぜ」と純一。

「昔から横浜は坂地が多くて、平らなところは大体が埋め立て地だそうだ」

 純一の言葉に息を切らしながら春彦が応える。

「詳しいんだな」

「かあさんが横浜生まれの横浜育ちだ」と春彦。

「いわゆるハマッ子ってやつだな」

 初歩は階段の中腹まで来たところで眼下の町を振り返る。そこには横浜の町並みと遠くには丹沢連山と富士山がうっすらと見えている。

「いい見晴らしだわ。あれって富士山?」

「そう。晴れた日は結構見えるらしいや。この辺は戦前までは見晴らし茶屋って呼ばれてたらしいから、風光明媚なんだ」

 初歩の質問に春彦が答える。

「丘の上女子大っていうだけあって、本当に丘の上なのね」

 両脇には洋風の建物が軒を連ねる山手本通りへと坂道は合流する。この当時、洋館は珍しく、日本家屋の多い中に欧米風の建物があったためひときわ目

立つ。ましてや素敵な教会も複数あり、よりいっそうの異国情緒あふれる町並みを作っている。明治の頃はここを山手外国人居留地といっており、通称で外国人は「ブラフ(日本語で山手と訳す)」と呼び、日本人は「居留区」と呼んでいた場所だ。


「すごい、ヨーロッパやアメリカみたいね」と葉織。

「行ったことあるの?」と眉唾の顔で訊ねる春彦。

「うん。でもほんの四、五回だけど」

 当てつけで言うつもりだった春彦だが、素直な答えが返ってきたのでそのまま納めてしまった。こういうものは庶民感覚の常識で立ち向かうと、おおよそ撃沈されるものだ。『触らぬ神にたたりなし』である。

「そこに公園があるから僕たちはそこで一休みをしようよ。さすがに朝から歩き通しだ。座りたい」と純一。

「オーケー。そしたら私、学校案内か願書の類いをもらってくるから、みんなここにいて」と初歩は笑顔で学校の方へと歩いて行った。

「それにしても、教会と洋館が多いな。築地とは大違いだ」と純一。

「築地は一番何が多いの?」と葉織。

「魚!」

 純一の答えに「そりゃそうだ」と皆が笑った。

「ところで葉織ちゃんは学校決まっているの?」と夏夫。

「まだ完全に決まったってわけじゃないけど。指定校推薦をいただけたので……。過去にそれで落ちた人がいない、って聞いたから大丈夫かなって思っているだけなんだけどね」

「とんでもないことやらかさなければ大丈夫でしょう」と春彦。

「どこ?」と純一。

「広尾女子大」

「ええっ? 本当のお嬢さんじゃないか!」と純一。

「そうなの?」

 大学のことをなにもわからない春彦は純一に尋ねた。

「カトリックの有名な女子大だね。こっちの丘の上女子大はプロテスタントだ」

 正直なところ進学情報はおろか学校名すら知らない春彦は、私学特有の教育理念や意義、純一がそんなことまで知っていることに感心した。

「夏夫くんは?」と純一。

「僕は将来なんてあんまり考えていなかった。じいちゃんの仕事手伝って、好きなことやって生きていけたらぐらいしか思ってなかった。自分がこれっていうものがない人だから。なんとなく進学しようかなってくらいの考えだ」と皆と比べれば、児戯に等しい将来像に少し恥ずかしくなった夏夫だった。

「これから考えるってことよね」とめずらしく葉織が助けの言葉を出した。

「はは……」と笑ってごまかすしかない夏夫だった。


 選択肢が多く、成熟した社会で育った現代っ子の夏夫は一つしか選べないと思い込みがちだったこの時代の進路や方向性にあまりなじんでいない。またこの時代のような希望や夢をおおっぴらに語り合う環境でもない。あきらめを用意した閉塞感と隣り合わせの夢を抱く夏夫の時代とは随分違っていた。

 反面、「次があるさ」という再チャレンジの時代とは異なり、親も先生も社会も十八歳くらいになると進路進路とやかましく出される時代だった。そのとき「ゆっくり考えろ」と助言してくれる人はまれで、一同のそうした考えに基づく会話の中で葉織の言った言葉はそれに等しいありがたい助言だった。

「春彦くんは?」と夏夫。父のこのときの心情を少し知りたいという気持ちから出た言葉である。


「僕は農業大学校か、どこか入れそうな農学部で地道に稲の研究と植物の写真でもとってみようと思っているけど」と言って、「でも純一くんみたいに進学校にいるわけじゃないからどうかな?」と素直に真情を吐露した。

 その言葉に『とうさんも迷っていたんだ』と少し親近感を覚えた夏夫。その言葉を聞いて勝手に励まされたのか、勇気の出た夏夫は「よし、僕、写真家を目指してみよう」とその場限りの適当な意見に思われてもおかしくない宣言をした。


 端から見たら「えっ?」と浮いてしまいがちな意見に、意外にも葉織が「私、その夢素敵だと思う」と賛同した。そして「春彦くんにたくさん教えて

もらいなさいよ。折角一緒にいられる関係なんだから。これからもずっと」と加えている。


 その言葉が応援として嬉しい反面、夏夫が現代に帰ってからのことを示唆している気がしたのも確かだった。葉織については、時折自分の正体を見透かされているような気がして仕方がない夏夫だった。

「きみはどうなのさ」と純一に春彦が問う。

「はは、さっき君が言ってくれたとおり進学校にいるけど、ついて行けなくて落ちこぼれて、学校行きたくない病でだらだらしている。大っきな登校拒否児さ。人にはいうけど、自分がからきしダメだね。ラストスパートでどっか入れそうなところ探してみるよ」

「でも僕よりいいよ」と純一を慰める春彦。

「同類哀れむって感じだね」と互いに笑った。

「女の子の方がしっかりしているね」

「本当だ」

 彼らの話が一段落したところで「お待たせ」と初歩が入学願書の入った紙袋を胸に抱えて戻ってきた。

「どうだった、学校」と春彦。

「とっても素敵なところだった。近くにテニスコートもあってね。なんか横浜って感じ。いいわあ」と話しながらも夢うつつの初歩だった。そして「でもこの公園も素敵ね。海が見える公園なんてロマンチックね。三重の海岸も素敵だけど、整備された港の海も大人のスポットって感じ」と加えた。

「えっ? ここ海見えたんだ」といまさらながらの一同の反応。

 この素っ頓狂な反応に、どうもこの人たちは察しがいいのか悪いのか判断に苦しむ夏夫だった。


   カメラとかき氷

 初歩の受験の下見を終えた一行は、山手の丘から坂を下りて山下公園にたどり着いた。潮風がはいるため、夏の暑さが少々和らぐ場所だ。あたりにはアイスクリンという当時のコーン型アイスシャーベットを売るおばちゃんが結構な数で点在している。ワゴンにパラソルを立てて、顔は頭巾であご結びしている。日焼けを避けるためであろう。その上から当時流行のサンバイザーである。その姿はまるでゴルフ場のキャディーさんというとわかりやすい。

 氷川丸とマリンタワー、この時代の横浜の定番である。同じく定番のシウマイとヨット停泊所の名前のパイ生地のお菓子もいたるところに売店が設置されて売られている。まだ高層ビル群もなく、赤レンガ倉庫はただの鉄道廃墟に過ぎなかった時代のことである。このあたりの港付近は線路だらけでいたるところに使わなくなった線路が縦横無尽に延びていた。

「このあたり築地に似ているな」と純一。

「ああ、線路だらけだもんな」と春彦。

 この当時、築地も下関などから直送列車が運転されていた時代なので、汐留貨物駅からの引き込み線の線路がたくさんあった時代だ。

「なんかもう帰り支度をしなくちゃいけないなんて少し寂しい」と葉織。

「スリリングだったけど、楽しい夏休みだったよなあ」

 家に隠りきりの純一にはいつも以上に変化にとんだ時間だったのだろう。

「実は僕も今日でお別れなんだ」と夏夫。

「だから東京駅に葉織ちゃんたちを見送りには行けない。ごめんね。でも二人は東京駅まで行ってくれるはずだから。もしかすると三重まで行っちゃうのかな?」と笑いながら続ける。

「みんなで昼食を食べたら、一足先に僕はお別れするね。見送りはいらない」

「わかった」

 少し残念そうに振る舞ってみたが、個人の都合ということもあるのでその辺は皆が自ずと立ち入らなかった。

「ねえ、昨日みんなの話聞いていたら私もカメラほしくなっちゃった。自分へのお土産に一眼レフ一台買って帰ろうと思うんだけど、一緒に選んでよ」と葉織。

「じゃあ、このまま量販店に行こうか。横浜駅の周辺にあるだろう」

「それがいいよ。クーラーの効いているとこに行きたい」と純一。

 歩きながら葉織は春彦に質問する。

「どうやって買えばいいの?」

「どうやってって、『これ下さい』、っていえばいいんじゃないのかなあ」

「ふざけてる?」と少々憤慨気味の葉織。

「ごめんごめん」と宥めてから春彦は続ける。

「一眼レフはまずボディ本体を買うんだけど、それに合わせて五〇ミリの単焦点レンズを購入するのが一般的なんだ。それが俗に言う標準レンズ」

「別に買うんだ」

「…というよりボディだけで売っている商品だから」

「わかった。それで」


「予算の立つ場合は、通常単焦点で三十五ミリの広角レンズと九〇ミリの小望遠レンズ、一五〇ミリの中望遠レンズの三本が一応最低限のシステムと呼ばれるセットかな。九〇ミリはポートレートなどで使うことが多いし、一五〇ミリはそこそこ遠くの被写体を探すときに使う。慣れてきたら二〇〇ミリか三〇〇ミリの望遠で大きめの野鳥や近づけない被写体を撮る時に使う。でもこれを使うには高速シャッターをきるか、あるいは一脚も必要になるかな?」


「へーなるほど。例えば、他に近づいた花の写真とったり、風景が「ぐにゃ」ってなってるのもそれで撮れるの?」と葉織。

「えっ? 結構写真作品とか見てるの?」

 彼女が意外に作品写真を見ているのかと驚く春彦。

「まあ、雑誌にのっているものをパラパラとかねえ。でもあんまり詳しくないわ」


「いや、十分だ。説明のしがいがある。今言った二つのタイプの作品に使うレンズを順に説明するよ。花の写真や商品やグッズの拡大写真は接写レンズ、一般にはマクロレンズとかマイクロレンズと呼ばれるレンズで撮るんだ。用途によっても異なるけど倍率が1/2倍程度のものがお手頃な価格かな。もちろん等倍なんてのもあるんだけど僕らには夢かな? あと歪んだ画像を撮るのは名前だけ良く聞く魚眼レンズだ。英語でフィッシュアイレンズと呼ぶメーカーもある。フィッシュアイは広角レンズの広げすぎたなれのはて、なんて言う人もいる。一般には十八ミリ以下のレンズが多いね。こいつは歪んだ風景を撮れるだけでなくて、接写レンズ並みにワーキング・ディスタンスを縮めて撮れるんだ。被写体との距離のことね。だから近寄って歪んだおもしろいスナップ写真などにも使えるね」


 勿論、この時代はマクロも魚眼も技術的に春彦の言うとおりだが、現在は当然性能も向上しているので、この時代とは比べものにならない。夢と言った等倍マクロは当たり前だし、魚眼も一〇ミリ以下のものが存在する。またどちらのレンズも今はコーティングが進化したおかげで、屈折光に弱かったという弱点をかなり克服したレンズが当たり前になっている。

「へー、やっぱりすごいねえ。好きなだけあって知識豊富ね」と葉織。そして、

「オーケー。全部買って帰る」とこの時代にそういう言葉はなかったが、今で言う『大人買い』である。

 あっけらかんと言った彼女に男三人は目を丸くした。


「ニコンもキヤノンもオリンパスもボディで五万円以上でしょう。単焦点五〇ミリは一万円、三五ミリ広角は三万円、一五〇ミリは六万円以上、三〇〇ミリにいたっては暗いF値のものでも八万円はするな。魚眼とマクロにいたっては予測不能。それに保護フィルターとレリーズケーブル、水銀電池、清掃用具、で一万円以上、全て新品でそろえれば、しめて三十万円はいくぞ」と春彦。


 この時代大卒初任給は八万円の時代である。ラーメンが一般的なお店で二五〇円程度で食べることができた。ざっと素人目で見積もって、令和の世の中の貨幣価値ではかれば、おおよそ百五十万円といったところだろうか。


「海外旅行の免税店の買い物だってそんなに買わないよ。ましてや十八歳だぜ」と半分おもしろがる純一。

「細かいこと言わないの。どうせ私の買い物なんだからそうなるのは見えていたでしょう」という葉織。あっけらかんと言い放つ。

「まあね」としかいえない一同。

 そんな中、夏夫だけが『やっぱり阿久のおばちゃん。ひとついい具合にずれているよなあ』と心中で感心していた。

「どのみち三重で買うより商品がそろっていそうだから」と加える葉織。


 その言葉には一同「なるほど」と頷いた。確かに東京や大阪、名古屋近郊での商店の品数、在庫数は地方とは比較にならない突出した時代だった。今と違い物流も未発達、量販電気店や格安カメラ店が地方にはあまりない時代で、こういったものを買うのは大都市という人も多かった。またそれを狙った東京や大阪の小売店の「地方発送承ります」の広告を専門雑誌でもよく見かけた。ネット通販主流の今はその頃に戻った感もある(笑)。

 あるいは東京のカメラ量販店が地方の百貨店でフェアとして出張催事販売を行うこともよくあることだった。その会場はおおよそ連日超満員という盛況ぶり、その日ばかりは東京でしか見ないはずの紙袋を抱えた多くの購入者たちが自慢げにカメラ店の紙袋を下げて町をかっぽしていた。それだけ大都市のカメラ量販店は地方購買層のあこがれであった。


 その葉織の大人買いの反応に他の三人とは違った反応をしていた夏夫を彼女は見逃さなかった。彼女は少々眉をひそめて見ている。

「いつも思っていたんだけど、私がすること夏夫くんだけは驚かないのよね。なんで?」と葉織は訊いてきた。

「驚いてほしいの?」と逆に返す夏夫。

「ううん。ただね。私の性格を知っているような気がして仕方ないのよ」という葉織の台詞に、聞き役だった初歩と春彦が「うん」と賛同した。夏夫はなんとなく葉織に「先手打たれた」という感じを受けた。

「私もなんか見透かされていそうで不思議な感覚がある」と初歩。

「同意見だね」と春彦。

『だって両親なんだから当たり前でしょう』と言いたくてもいえない暦人のつらさが夏夫にはある。

「気にしすぎ。僕はよくみんなにそんなこと言われるから、そういう性格なのかもね」と切り抜けた。

「そうでなきゃ、僕はエスパーと言うことになっちゃうよ」と加える。

「まあ、それもそうね」

 言い出しっぺの葉織も説明のつかないことに結論は出ないので夏夫の話が当然と考えた。

 皆の話が一段落したところで初歩は「私も自分にお土産買って帰る」と宣言した。

「君もカメラか?」と春彦。


「ううん。暑いので、『ペンギンちゃんの氷かき』買って帰る」

 すると「うん、あんたには似合っているわ」と葉織。そして「初歩、わかっているとは思うけど、あれはかき氷を作る機械で、あれ自体がかき氷でないことは理解して言っているわよね」と加えた。

「もちろん。前からほしかったんだ。家の冷蔵庫の氷で作れるかき氷製造器」

 これもまた一世を風靡した玩具で、家庭用冷蔵庫の製氷器で作った真四角の氷でかき氷が作れるという画期的な商品だった。しかも玩具扱いなので安価で手軽さがうけて大ヒットとなった。

「じゃあ、それも売っているところにいきましょう」

 一行はセミの鳴き声のする銀杏並木の通りを横浜の繁華街に向かって歩き始めた。


   最後の昼食

 横浜駅前広場のロータリー周辺には駅ビルをはじめ。老舗の百貨店などが軒を連ねている。そんな隙間を縫うように放射状に小路が伸びているのだが、その一本の道沿いにホビー専門の百貨店、ホビーの月進があり、そこで買い物を済ませた後、新田間川の橋のそばにあるステーキ店へと足を踏み入れた。

「おいしそう」と初歩。

「あんた、この旅行中お肉のリクエストばかりね」と葉織。

「だって育ち盛りだもん」

「ナマ言って…」とおでこを突く葉織。

 この会話、夏夫に通じてなかった。

「ナマって、ビールはダメだよ。未成年だもん」というと、葉織は「海外長いのねえ」と笑って、「ナマは生意気のナマよ」と教えてくれた。

「なーんだそうなのか。僕はてっきり泡の出る黄色い飲み物かと思った」

 クーラーの効いた店内には肉料理のいい香りが立ちこめている。

 先頭にいた春彦に気がついたひとりの人物がいた。店の中程で食事を終えて間もないその人は彼らに声をかけてきた。

「やあ、昨日の彼じゃないか」

 テーブルに座って、話題の泡の出る黄色い飲み物を口に含みながらにこやかに春彦の方を見ている。

「間宮さん、こんにちは」

「こんなに早く会うとは何かのご縁だね」と言いながら、「こっちに座れば、僕はすぐにおいとまするから」と笑う。

 ぞろぞろと長いすのテーブル席に五人が分散して座る。

「あれ、昨日のモデルの葉織ちゃんだね。志熊くんにポートレート撮ってもらっていたよね。彼の友達だったのか。それで彼らは付添人の控え室にいたんだね」

 間宮の合点がいったところで葉織は「昨日はお世話になりました」と深々お辞儀をした。

「僕は何もしてないよ。志熊くんがアドバイスしていたもんね。上手な人に良いモデルだから優勝したんだね。おめでとう」と握手の二人。

「仕事回してもらうの?」と間宮。

「いえ、まだ卒業していないので、四月からにして下さいとトプコンモード社の人にはお願いしました」

「それがいいね。何か困ったら言ってよ。僕で良ければ協力するから。……といっても、僕はいつもはあんな華やかな世界にいるわけじゃなくて、自然や風景を撮っているので、あまりノウハウのない門外漢だけど。今回は人がいないからって僕のところにお誘いが来たの。あまり役に立ってなかった」と笑いながら最後の一口のビールをひげ面の口で含んだ。

 その話を聞いて『やっぱりメインの被写体は人物じゃなかったんだ』と夏夫は納得した。

 そのまま間宮は春彦の方を見て、「ところで君、名前なんて言うの?」と続ける。

「不二春彦です」

「春彦君か。機材は何を使っているの?」

「ミノルタのXEです」

「ロッコールレンズか。残念、僕は持っていないや。あれば使わないレンズの一本、二本あげようと思ったんだけど」

「いやいや、そんな図々しいことできません」ときっぱりと放つ。まるで入社試験の面接のようにカチカチな様子だ。

「礼儀正しいね。そういうところ好感持てる人物だね」と間宮の言葉に少し嬉しくなった春彦。

「よし、気に入った。じゃあ春彦君、来週の日曜日だけど、空いてるかな?」

 間宮は彼の実直さをこの短時間で見抜いたようで、自分の相棒として一日過ごすことを思いついたようだ。

「今のところ予定はありません」

「じゃあ、一日アシスタントのお願いしてもいい?」と優しい顔で春彦の興味のある世界に誘ってあげられることに喜びをおぼえる間宮である。

「えっ、僕でいいんですか?」

「僕は固定したアシスタントを雇わない人なので、いつも困っているんだ。正確には雇えないのかも知れないけどね。よかったら手伝ってよ」とジョーク混じりの間宮。

「はい、喜んでやらせてもらいます」と春彦の方も嬉しさに酔いしれる。相思相愛な仕事関係ほどやりやすいものはない。

「日給はあまり出せないけど四〇〇〇円だ。交通費と移動費、食事代はこっちで持つから。アシスタントという名の荷物持ちなんで、半分肉体労働みたいなもんだけどよろしくね」

「お金もらえるんですか?」と驚く春彦。

「仕事だもん」

「良かったね」と純一が春彦の肩を叩く。

「ありがとうございます。お役に立てるようにがんばります」

「本当、ありがとう。じゃあ、日曜日、朝の八時に銀座の僕のオフィスに来てくれる。現地までは車だけど、その後の徒歩行程、結構重いものもあるけど大丈夫?」

「ハイ、大丈夫です」


「よし交渉成立だ」と握手を求めた間宮に、右手を差し出す春彦。

 春彦との話に一段落すると今度は一同に向かって親しげに「話は変わるけど、ここねえ。実はビーフカレーが美味しいよ。ステーキの肉がそのままごはんといっしょにカレーをかけて出てくるの」と間宮が言う。

「本当ですか」と葉織が言うと、示しを合わせたように彼のその言葉に倣って皆がビーフカレーを注文した。

 すると間宮はウエイトレスから書いて間もないその伝票を預かった。一同に「ここ払っておくから」とその伝票を指で挟んでバイバイとジェスチャーをとった。間宮はレジで代金を払い終えると軽く手をかざし、重たそうな機材の入ったバッグを持って去って行った。


「あの人、自分で払える範囲で僕たちにおごってあげたかったんだね」と純一が言った。

「確かに貧乏ではないだろうけど、あんまりいい身なりはしてないから、せめてものお祝いだったのかな」と初歩も続く。


 恣意的な思い込みで少し貧乏と思われている間宮。人柄からくる温厚さと折角の好意、一同はありがたくごちそうになることにした。そしていい気なもので、これが精一杯の大人の優しさとそれぞれが勝手に勘違いしていた。

 ただしそれから数分後、間宮への彼らが下した身上判断が違っていることに気付くことになる。テーブルの上に届いた現物のカレーを見て口にしたとき、彼らはその味の絶妙さとメニューに書かれたビーフカレーの味に見合った金額に驚いた。この当時、食堂などで二百円から三百円程度が相場であったカレーライス、なんと彼らの口にしたものは千五百円もする超高級品であった。てっきり気軽におごってもらえる金額のメニューだと思っていたのに、無理をさせたんじゃないかと責任感まで感じ始めた。皆が震えながらかみしめて味わい始める。

 そんな中、葉織一人だけが、

「うん、絶妙な海鮮出汁とレアな焼き加減がいいわね」と日常通り、平静のまま食していた。そして「彼は違いのわかる男ね」とインスタントコーヒーのCMのキャッチコピーをもじって感想を述べた。


 かなり後の話しだが間宮に関して言えば、一同は個展の世界では大流行作家であることを知ることになる。初歩の勘違いした彼の格好は頓着がないだけの仕事着なのだ。これを彼らが知るのは不二家に間宮が出入りするようになってからのことである。やがて彼らは「人は見かけによらない」ということを学ぶことになるのだ。


 一足先に食べ終わった夏夫は時を見計らって切り出した。

「名残惜しいけど、僕はここで失礼するよ」

「帰るのか?」と春彦。

「ここは僕の居場所じゃないからね。でもカメラもスーパーカーも、そして何よりもみんなのことを忘れないからね」と返す。

「そんなの当たり前よ。みんな仲間なんだから……っね!」と葉織が笑う。

「しんみりするのは好きじゃないので、さりげなくここを出るからね」

 夏夫のその言葉に「でも別れの言葉を皆に伝えてから行くべきだわ」と葉織。その言葉に「僕もそうするべきだと思うよ」と珍しく同じ意見の春彦。

「たまには意見が合うのね」と葉織が茶化す。

「そうだね」と頷いた後、春彦は「ひとりずつ言っていこうぜ」と続けた。

「じゃあ初歩ちゃんから」

「一緒に食べた『パンセー』のすき焼き、春彦君ちの鮎の塩焼き、そしてこのビーフカレー、忘れないからね」と初歩。

「夏夫君と食べ物どっちよ?」と葉織が揶揄する。

「どっちも」

「じゃあ、セットで覚えておいて」と笑顔の夏夫。

「お前さんの物静かなところ、好きだったよ」と純一。

 その純一に「学校行きなよ」と笑顔で茶化す。

「了解。がんばってみるよ」


「私はまた不思議の国で会えると思うわ」と葉織はまた意味深なのか、適当なのか、訳のわからない挨拶をする。

 追求しても仕方のない夏夫は「オーケー、ルイス・キャロルにもし会うことがあったら訊いてみるよ」と洒落た文学的な返答する。


「また、カメラのこと教えてよ」と夏夫は春彦に握手する。

「勿論、できることは協力するぜ」と春彦。「ただし僕にできることは本当にちっちゃいけどね」と加えた。すでに二人の間にはどこか信頼関係のようなものが芽生えていた。


 互いに順番にアイコンタクトを送ると、夏夫は「それじゃ」と言って店を出た。

 夏夫の後ろ姿を見送った春彦は、コップの水に入っていた氷をひとかけら口に含むとかみ砕いた。そして「僕たちも準備ができたら東京駅に向かおうか」とつぶやいた。


  万感の惜別

 葉織と初歩を見送りに来た春彦は東京駅の長距離列車ホームにいた。この当時の東京駅はEF65型の五〇〇番台や一〇〇〇番台という電気機関車に牽引されるブルートレインと呼ばれていた客車式の青いボディの寝台特急が西日本方面に向けて頻繁に運行されていた時代だ。東京発以外のブルートレインは機関車の前面にあるヘッドマークと呼ばれる丸い愛称板をつけて走ることをやめてしまったため、相変わらず愛称板をつけて走る東京発のブルートレインだけに人気が集中していた時代だった。


 その中の『さくら』や『はやぶさ』は現在も新幹線の愛称として残っているが、『あさかぜ』、『富士』なども人気列車だった。そうした東京発の多くのブルートレインの中に『紀伊』という寝台特急もあった。それが東京と三重を結ぶブルートレインだ。


 おおよそ最終の新幹線や特急電車、航空機などが出発した後に東京駅を出て行き、始発の他の交通機関よりも朝早く目的地に到着するというのがこれらの列車の役目であった。ちょうど現在の高速バスが担っている役割に近いものだが、車内設備などのアメニティ環境は当時としては数ランク上といえる。そのため走るビジネスホテルなどと呼ばれることもしばしばだった。

「また会えるといいね」と春彦。

「ほんま、思ってる?」といたずらっぽい顔の葉織。しかしすぐにその言葉が自分の横にいる初歩に向けられている言葉と考え直すと「ごめん。初歩にや

ね」と笑った。

 照れ隠しなのか「いーや。二人に言ってます」と意地になって冷静を装う春彦。

「私、一生懸命勉強して丘の上女子大学に合格するわ。あのミッション系の学校で学んでみたい」と初歩。

 ふとあたりを見回すと純一の姿が見えない。四人一緒に東京駅まで来ていたはずである。

「純一くんは?」と葉織。

 二人もその言葉にホームを見回すが見当たらない。

「どこ行ったんだろう……」

 辺りをしばらく見回していた彼らが純一を見つけたのはその後すぐだった。

 階段をゆっくりと上がってくる純一の手には駅弁が三個と左手には容器に入ったお茶がぶら下がっていた。ペットボトルのないこの時代、駅弁のお茶は独特のプラスチック容器にティーバッグをいれたものだった。その容器にはみどりの針金が取っ手としてつけられており、コップ代わりにもなる蓋もついていた。


「どこ行ってたの?」と春彦。

「ごめん。切符買って、お弁当買っていたら遅くなっちゃって」

「切符って?」

「勿論、紀伊号の寝台特急券だけど」

「本当に行くんだ」

 予想しなかったわけではないのでそれほど驚きはなかったが、あらためてその事態を目の当たりにすると軽い動揺はあったようだ。

「明け方には三重に着いてしまう列車なので、折り返し紀勢本線で名古屋に戻ればお昼すぎには新幹線を使って戻ってこれる。そしたらまた春彦くんとは落ち合おうよ」


 まるでトラベルミステリーの小説に出てくるような行程である。

「いいよ。でもよくそんな金もっていたなあ。君んちもチェックライターの類か?」と春彦。

 笑みをこぼしながら「よせやい」と言った後で純一は続ける。

「かあさんがここぞと言うときに使いなさいって、余計に持たせてくれたお小遣いがあったんだ。かあさん、結構あの二人のこと気に入っていたみたいでね」

「そんな感じしたね」と納得顔の春彦。

「まあせいぜい二人のナイト役を頼むよ。僕はお昼過ぎから交通博物館にでもいこうと思っているから」

「オーケー。じゃあ、博物館の入口のゼロ系新幹線の前に午後一時に。もし僕が遅れているようだったら、うちのかあさんのところに連絡入れてみて。状況をかあさんに伝えておくから」

「了解」

 男の子二人がそんな会話をしていると発車のベルが鳴り響く。

「ほんま、ありがとう」と初歩。

「また会おうよ」と春彦。

 そう告げたとき発車ベルが鳴り止んで、静かにドアが閉まった。

 手を振り合う二人の背後には多くのカメラ少年がブルートレインを堪能している。


 電気機関車に牽引されている客車式の列車は当然動力源が先頭にある。汽笛が聞こえた後、機関車に近い前の車両から順に、トントントントンと各車両の連結器が引っ張られる音がドップラー効果の音のように走って行く。それが後部車両まで行くと実際に列車が動き出す。ゆっくりと動き始めたドア越しの三人に軽く手を振る春彦は、遠ざかる顔を目で追い続けた。


 しだいに速度を増していく列車は、彼女たちを視界から離して、やがてついには駅からも離れていった。一定のリズムを刻み続ける鉄路の音だけを耳に残して…。


 それは賑やかな祭り囃子が止んだ夏の夜のようにも感じた。大人数で行動していたこの数日が嘘のような静けさへと変わったのだ。

 春彦は小さくなる列車のテールランプの色が、今日はいつもよりやけに赤く見えるのが、にじんでいる涙のせいということに気付いていた。十八歳にして初恋の女の子に出逢い、別れる愛しさを感じた夏のことだった。ちょうどこの当時流行していた小気味良い言葉で言えば、センチメンタルをもじった言葉で「ちょっとおセンチ」になっていた。


   沈黙のお手柄

 一方夏夫は国鉄横浜線で町山田に戻っていた。家の前まで来ると祖父秋助がそわそわしながら待っていた。夏夫の顔が見えると大きく手を振って走り寄ってくる。

『この頃はじいちゃん走れたんだな』と好々爺の姿しか知らない夏夫だが、誰もが若さを等しく持っていたことを初めて実感した。


「おいおい、遅いじゃないか。心配したぞ」と告げた後、辺りを見回して「春彦は?」と加えた。

「女の子たちを送りに東京駅に行っているから帰りは遅いかも」

「それは好都合だ」

 そういって祖父秋助はポケットから一握りの袋を取り出した。それは茶色の紙袋だった。それを夏夫に握らせながら続ける。


「これは参宮錦という酒米の種だ。農業試験場で試験場の人と私が育成させた品種だ。残念ながら経済発展と共に完全自然発酵の日本酒が少なくなる一方

だ。短時間熟成を求められるご時世で、昔ながらの醸造をする蔵元も少なくなっている。自然の力で醸造させるにはもってこいの酒米なんだが、時間やらコストやらなにやらで……。もしおまえさんの時代に自然志向のお酒のニーズが再燃されるときがきたら使ってくれ。さらさらな口当たりのよい日本酒が造れるはずだ」


「蔵にでも置いてたって、水で戻せば二十年後、三十年後でも芽を出すんじゃないの?」

「確率が低くなるんだよ。おまえさんの体と一緒にタイムスリップしてくれれば、経年劣化せずにおまえさん同様確実にそのままの姿で時間を越えることができる。役に立つ可能性が増えるわけだ」

「なるほど…」

 秋助の言っているのは、大衆酒が市場の大半を占めていた時代のことである。その後九〇年代以降の地酒ブームと称する雑誌などの特集が本格的に始まり、杜氏の作る自然発酵の少量生産の日本酒が見直されてからはすでに久しい。現在では安価で手軽な大衆酒と、プレミア感のある自然発酵酒の棲み分けや用途の区分けもしっかりできている。

「しかもそんな社会背景の事情で、この品種の研究は今年で打ち切りが決まってしまった。折角の苦労を無駄にしたくない。何とか役立てる場所が見つかるまで、一年でも多く、状態の良いままでしまっておきたいんだ」


 秋助が稲にかける情熱をこんなに持っていた人と思いもしなかった。デジカメほしさの孫の機嫌までとっていたのが、その情熱をわかってほしかったということのようだ。夏夫にはここでようやく理解できた。

「わかったよ。じいちゃん」

「この若さで、じいちゃんか…」

 照れたような、納得のいかない顔つきで秋助は微笑んだ。そしておもむろに腕時計を確かめると、「そろそろ時間だな」とつぶやいた。

 とっぷりと日の暮れた鎮守さまへの短い一本道を秋助について黙々と歩く。どこかで雑草を焼くいぶした煙が風に乗って香ってくる。のどかな風情のある時代だ。


 鎮守さまの境内に着くと社殿の上には大きな月が二人を十分に照らすだけの光量で輝いている。その石段の下にある池の水を反射した光の帯が霧を通して七色に浮かぶ。月の反射した光が作るプリズム模様だ。まるでガラス玉の横に出る虹色の透過光、それも高精度のペンタプリズムのようなガラス玉の輝きである。

「お別れだな」と秋助。


「とうさん、かあさんにも、ばあちゃんにもよろしく伝えてね」と笑顔の夏夫。


 夏夫は一歩、また一歩とその虹色の光の御簾の中へと足を運ぶ。何歩か行った先でまぶしい光が夏夫を包んだ。すると夏夫は空中から落ちていくような不思議な感覚を覚えた。ちょうど摩天楼の高速エレベーターで下っているときのような気分だった。




 次の瞬間不意にその感覚は止んで『ドサッ…』という音とともに彼の頭上には古新聞の山が降ってきた。

「いてえ」という夏夫。

 あたりにはスモークをはったようにほこりが舞い上がった。夏夫は後生堪忍という顔で目の前を手で扇いでいる。今にもコントの仕掛けのように口から煙を吐きそうな光景だ。

「大丈夫か?」と言って秋助が手を貸してくれた.。

「じいちゃん」

 夏夫の前に現れたのは年老いた優しい笑顔の秋助だった。

「お帰り、ご苦労だったな」

 まぎれもなく好々爺の秋助である。二十一世紀に戻ってきたのだ。

「ただいま」


 照れながら夏夫は古新聞まみれの場所で秋助に支えられ立ち上がった。

「今まで何も知らなかった我が家の歴史を少しだけ垣間見てきた。きっとこの家を守るための経験になるんだろうね。今月の初めには十八歳の誕生日も越えたしね」と夏夫。


 孫にこんな言葉を言われたら、秋助だけでなく世の中の祖父誰もが嬉しくなるだろう。少しだけ大人になった、そして頼りがいのある人間へと心の成長を果たした夏夫の言葉に胸を打たれたのは言うまでもない。

 そして懐から「じいちゃん、これ」と言って、さっきもらったばかりの参宮錦の酒米の種をそのまま手渡した。


「助かったよ。ありがとう」と本当に嬉しそうな秋助。

「役に立つの、これ?」

「もちろんだ。大助かりだよ」

 この言葉の本当の意味を夏夫が理解するのは、その日の夕方のことだった。そしてそれは不二家を助け、醸造業、農業、鎮守さまを助けることも意味しており、夏夫の大手柄ということになった。ただし知っているのは秋助と夏夫の二人だけだ。自慢することも、褒めてもらうこともできない沈黙のお手柄だった。


   もうひとりの葉織 ―エピローグ

 夏夫は改築された我が家に戻るのはとても懐かしい気がした。農業試験場に勤める春彦が帰宅したのはそれからすぐのことだった。


「どうしたのとうさん、いつもより早いね」と夏夫。リビングのソファーに寝そべりながらの会話だ。

「旧友が訪ねてくるという連絡があってね。午後からお休みをもらったんだ」とネクタイを緩める春彦。

「へえ」と興味なさそうな返事の後で夏夫は「ところでかあさんがいないんだけど……」とまだ引き摺っている。


 ごく自然に春彦は「その旧友、ここに来るのが久しぶりなので、家をわからないといけない。だから母さんが新横浜まで迎えに出ているんだよ」と説明をつける。

「だからいなかったのか」とようやく時空まで越えての解決を見た夏夫。続けて「で、旧友って誰?」と問う。

「ほら、おまえも昔会ったことがあるだろ。阿久のおばちゃんと旦那さんの純一くんだ」


 父親のその言葉に思わず『つい数時間前まで一緒でした』と言いそうになった夏夫だった。

「あの二人来るんだ」

「ああ、なんでもじいちゃんに聞きたいことがあるらしくてね」

「へえ、じいちゃんにねえ」と相づちの後、夏夫は「ねえ、とうさん。仮にだよ、仮に僕が写真家になるって言ったらどうする?」とさっき決めた夢の話を早速父親に訊いてみる。折角早く帰ってきた父親と話しする時間があるのだから、ちょうどいい機会だ。ここは現代っ子らしく、ダメと言われたらすぐやめようと考えていた。


 春彦はおやっと言う顔を一瞬見せた後で続ける。

「お前、作品の写真なんて写したことあるの?」と普段着に着替えた父の言葉。春彦は基本的に頭ごなしに反対はしない。逆に言うと結論までのプロセス

の長い男である。


「ないよ。でもね、絞りやシャッタースピードのことを詳しい人に教えてもらったら、なんか楽しくなってきた」


「ふーん。いいんじゃないかな。でもおばあちゃんに写真バカとかカメラバカとかいわれるぞ。耐えられる?」と実感のこもる春彦のジョーク。

「だって仕事であればカメラバカじゃないよね」と返す夏夫。

「そりゃそうか。少なくともとうさんは反対しないよ。自分の人生だ、精一杯がんばってみれば。できる範囲での手助けはしてやるよ」

「本当?」


「とうさんにできること本当にちっちゃいぞ」と笑う春彦。あのときと同じ答えである。


 そして思い出したように続けて「ああ、でも田圃はどうするんだ」と問う。

「それもやりながらだよ」と当然のような夏夫。

「まるでじいちゃんと一緒だな。そのうち丘の上女子大から嫁さんが降ってくるかもナ」

 春彦は我が子を茶化しながらソファーに座る。

 夏夫はテーブルの上にあった煎餅をひとかじりすると、「ねえ、とうさん。甘いものないかな、しょっぱいものばかりで、甘いものがほしくなったんだけど」と訊ねる。

 春彦は苦笑いすると「俺に訊いて知っていると思うか、この家のもののありかを」と言う。

「そうだよね。かあさん以外だれもわからないよね」と納得した。

 その直後にタイミング良く「ただいま」と母親の声がする。

 以前の土間とは異なり、今風に改築されいる玄関先で葉織と純一の声もしていた。

 春彦が顔を出すと「久しぶり、春彦くん」と嬉しそうに顔を合わる葉織と純一。


「このたびはご協力ありがとう」と握手をする葉織。

「なんのなんの。お助けするようなことができて光栄さ」と言って、「まあ疲れただろうから座ってからにしようよ」とリビングに二人を誘う春彦。この大人たちの会話を端で見ていた夏夫は、たまに大人が昔の友達に会うと、その瞬間だけ、こころがタイムスリップすると例えることが解るような気がした。だから五十代半ばの歳ではあるが、話し方も仕草もあのときの春彦や純一なのだ。

 そして大きなサングラスを頭にのせて、スカーフなのか薄手のショールなのか、よくわからない布を肩に羽織った葉織は相変わらす不思議なモード人だった。

 リビングには秋助が二人を待っていた。その姿を見るやいなや葉織と純一は、

「おじさん、このたびは大変ありがとうございました」とお礼から始まった。

「これお口に合えば嬉しいのですが…」と葉織が秋助に差し出したのは三重県の銘菓、神宮のそばで売っているあんころ餅である。夏夫はその言葉を聞き漏らさなかった。

「あっ、甘いものだ!」

 その声に「あら夏夫くん。久しぶり!」と葉織。


 夏夫も「どうも……」と言ってから『六時間ぶりです』と心中つぶやいた。

 するとまさかとは思うが、葉織は小声で「……あなたのほうはね……ふふ」と言った気がした。そのまま葉織は続けて、

「夏夫くんには別に小箱のやつ買ってきたから一人で食べちゃっていいわよ」と言って、もう一つの小箱のあんころ餅をカバンから出してくれた。


「はい、ちょっと遅いけどハッピーバースデー」と言葉を添えた葉織の手から折り詰めの箱を受け取る。

「こいつ、ちょうど甘いものを食べたいっていってたんだよ」と葉織に言った後、春彦は向き直って夏夫に「よかったなあ」と笑う。

 夏夫は『誕生日、一日ですので随分遅いんですけど…』と軽くぼやいた。

 餅を頬張りながら、「ところでおばちゃん、今日は何しに来たのよ」と夏夫。


「夏夫くんの顔を見に来たのよ、と言いたいところだけど、お仕事の話しなの。でも後でビッグなサプライズもあるから楽しみに待っててね」と笑う葉織。

 さすがに葉織にビッグなサプライズとか言われると、本当にすごいことを考えなくてはいけないのが、この人の感覚のいいずれ具合である。夏夫は心した。


 にこやかな顔を改めて、真面目に秋助の方を向き直ると、「もう半分はあきらめているのですが、せめて参宮錦のお話だけでも伺えたらと思いまして参上しました」と話し始めた。

「いやいや。ところでことのいきさつ、詳しいことをお聞きしていないので、もう一度順を追って説明してもらってもいいかな?」と秋助が葉織に問う。

 葉織は「勿論です」と言ってから続ける。



「実は父母の時代からおつきあいのある、私の古い知人で日本酒の蔵元を営んでいた方がおりまして、そこは完全に自然発酵、醸造の日本酒を宮川の支流域で作っておりました。ところがそこに酒米を提供してくれていた農家が高齢で米が作れないという状況になってしまったのです。そして二、三年はよその土地でとれた酒米を使って銘柄をかえて作っていたのですが、やはり味が違うというご指摘を受けて、その知人も酒蔵自体をたたもうかと悩み始めたしだいなんです。ところがそんな内輪の事情とは別に、酒の味、かつての銘柄に注目が集まり、評判を聞きつけた各地の酒問屋や百貨店のバイヤーさんからの注文や問い合わせがひっきりなしに参ります。その数は半端なものではなく、経営として十分にやっていけるだけの量でした。伝統文化存続と郷土の味や酒造りのノウハウの伝承という使命もあり、どうにかならないものかと私たちも考えました。そこで以前、私たちが高校時代にお邪魔したときに、一緒に来ていた父の会社の秘書をしていた越美が、突然一念発起してその酒蔵を引き継ぐと申しまして、主人の純一も一緒にやることになりました。しかも二人は以前の銘柄の日本酒を復活させると言い出したのです。一緒に鮎をごちそうになったこと

があるので、越美のことはお父様も覚えていらっしゃると思うのですが……。そして調べ聞けば当時の酒米は参宮錦という品種で、もうあのあたりでは栽培されていないと聞きます。困り果てて農業試験場にお勤めの春彦さんに相談したところ、昔お父様がその品種に携わったことがあると聞きましてお邪魔したしだいなのです」



 腕組みをして頷いていた秋助は「なるほど」と納得した。そして少し笑みを浮かべると「その酒の銘柄、『紀勢の白石』だな」と言った。

「ご存じでしたか」



「もちろんだ。自分で育てた品種を使ってくれてた酒のことは覚えているよ。あの酒は特にいい。水のようにさらさらな舌触りと無色透明の透き通った味わいのあるお酒だった。神宮の関係者にも好評だった。確か嫌みのない樽の香りがしみこんでいた気もする」


「多分そうだと思います。以前杜氏をしていただいていた方とも連絡を取りまして、東北の方なのですが、参宮錦と以前使っていたもろみ用の桶と以前の樽が用意できるのなら考えてくれるというのです。その方ももう高齢で、誰かに伝承しないと仕込み方が途絶えてしまうとおっしゃって、残念がっておられました」


「桶や樽は以前の醗酵の残り種が味を良くするということからだと素人目には思う。それが香りとしてお酒の味になっていたのかも知れない。ただ他にも理由があるのかも知れないが酒造りの職人ではないので、その仕組みはわからんがね。しかし復活となると、そううまくいくかな。そしておっしゃるとおり、その酒米はもうどこも作っていない。つまり作り方を知っている人も少ないと言うことだ」



「やはりだめですか。入手不可能か…」と落胆の二人。

 すると秋助は「おいおい、作ってはいないと言っただけで、手に入らないとはいってないよ」と笑った。

「えっ? あるんですか」

 思わず葉織と純一の声は重なった。


「今朝方、偶然孫の夏夫が蔵の古新聞の中から種籾を見つけ出してくれたんだよ。こんな偶然もあるんだなあ」と秋助は高笑いをした。

 その姿に夏夫は『役者だね、じいちゃん』と吹き出しそうになった。そして『まあ、蔵の中から持ってきたというのは少なくとも嘘ではないしね』と思った。

「本当ですか?」と葉織。

「本当だ。結構な数があるから半分持って行くがいい」

 そう言って、さっき夏夫から渡された袋の中の種籾を新聞折り込みの上で広げた。



「栽培方法は私がいずれ直接伺って教えるので、そのときに作付けの場所を拝見しよう。君たちがまず行うことは種籾を発芽させて、足腰の強い苗まで育てるハウスを作ることだ。大風が心配ならガラスフレームの温室でもいいし、農家の納屋をお借りしてプランターで育てて、日中だけ天日に出す方法もある。方法は君たち次第だ。来年の三月には全てができあがり、準備が整うといいなあ。発芽用具の準備のあと、そのやめてしまった農家の方に苗植え、つまり田植えの時期の目安を何ではかっているのかなどを訊くとしよう」



「というのは?」

 広げた米粒のひとつをつまんで凝視しながら純一が訊ねる。


「地域によってそういう習慣があるはずだ。さくらの花、花菖蒲、花菜などの満開時期に合わせて目安をつけて、田植えを行うと時期のずれによる失敗がないんだ。もちろん今なら気温や水温が何度以上になったらなどという方法もあるのだが、農家というのは昔からのその土地の季節感でやる人も多いのでね。植物のことは植物に訊くのが一番というわけだ。それを地元で酒米を作っていた人に尋ねるのは当たり前だ」と教える。


 さらに「それぐらいは調べてから酒米を育てるといわないといかんな。純一くん」とジョークを飛ばす。

「恐縮です」と頭を垂れる純一。

 すると「頭を垂れてもらうのは君じゃなくて秋の稲穂でないといけないねえ」と再び笑う。


「後の半分の種籾はここで栽培をするんだ。幸い我が家の田圃はこの辺の河川用水を使用していない。裏山の神社と昔のご神域だった緑地が水源となっている山の湧水が主な水源だ。奇跡的に残った混じりっけのない清らかな水だ。そして日照りなどの緊急時の水不足の時はポンプ井戸でまかなっている。どちらにしても自然水そのままの田圃なんだ。もし向こうでうまくいかなかったら、ここでとれたものを酒蔵に持っていく予備米にするといい」



「そこまで考えていただいているんですね」

「相手は自然だからな。来年早々から私は東京と三重を行ったり来たりすることになりそうだ」と秋助は嬉しそうに続けた。



 そのとき玄関先で「ごめんください」と声がした。話に夢中の大人たちは気付いていない。仕方なく餅を口に頬張ったままで夏夫が玄関先まで出て行っ

た。するとそこにはさっき別れたばかりの若き日の葉織が立っていた。

「はへ(あれ)?」と首をかしげる夏夫。

「ひょっとして夏夫くんやろ?」という返事と同時に口の中のものを「ゴクン」と飲み込んだ。


「きみも来ちゃったの?」と夏夫は返す。

『同じ時間の中に二人の葉織ちゃんがいてもいいのか? よく読むSF小説では時空のずれが……』と考えながらごにょごにょ独り言を続ける。

 すると気配に気付いた葉織が玄関先まで出てきた。


「あら、もう着いたの? さすがに速かったわね」と笑いながら若いほうの葉織に話しかけている。そして夏夫のほうを向き直ると葉織は「夏夫くん、紹介するね。娘の晴海。東京の晴海埠頭と同じ字でハルミ」と意味深に言った。

「初めまして娘の晴海です。今年二十歳です。私のほうがちょっとお姉さんやね」と夏夫に自己紹介をした。


 あまりに昔の葉織に似ていたので夏夫は面食らったが、娘と聞いて一安心だった。あらためてみると、当然今のファッションに身を包んでいる晴海は葉織とはやはり違うのだろうが、表情や仕草が似ていることもあって、夏夫はどうも落ち着かなかった。

「高三やね。進路は?」という晴海に、「ええ、写真作家目指してます」と夏夫。

「本当? すごい目標ね」と感心のまなざしの晴海。当然、なれればすごいという話しであり、誰もがなれるわけでないことぐらいは皆が知っている。夏夫も言ったあとで少し後悔した。痴れ者心地である。

「いえ、いまちょっとだけ見栄をはりました。でも嘘ではないんですけど…」と素直に虚栄心を捨てて弁解してみる。


「何で見栄張ったの?」と晴海。

『男はきれいな人の前で見栄の一つぐらいはるもんです』と格好つけたかったのだが、残念ながらそんな柄ではないのもわかっているので、「そのこころは……晴海さんが三重県からきたから」と落語のお題のウケのように返した。

 意外にも「くすっ」と笑った晴海は「お後がよろしいようで、……とは言わへんの?」と加えた。そして少し間をおいてから「あたりの良い性格やわ」と夏夫に親しみを感じたようだった。

「私は丘の上女子大に通っているの。不二のおばさんと同じ学校ね」

「じゃあこっちにいるんですか?」

「ええ、いまは夏休みで三重に帰省しているけど、学校のあるときは横浜にいるわ」

 その言葉に夏夫はなぜだかちょっと嬉しくなった。

 一段落したところで「じゃあ、表にでようか。夏夫くんも一緒に」と葉織が言う。

「えっ?」


 肩を押されながら扉を開けて表に出ると、蔵の前に一台の車が駐車してある。それは紛れもなくペガサスホワイトの妖精、トヨタ二〇〇〇GTであった。あのとき晴海の会場で夢中になってシャッターをきった被写体である。

「三重県にはモータースポーツのメッカ鈴鹿があるの。その鈴鹿サーキット関係のお得意さんがね、年齢的にも維持がきつくなってきたっていって、興味があること以前に言っていた我が家にまず話を持ってきてくれたのよ。それですぐに二つ返事で譲り受けたってわけ。おかげで市場価格の半値ほどで我が家にやってきてくれたのよ」と葉織。そしてそのまま続ける。


「あのとき、この家の前のバス停で約束したね。さすがにもう私じゃ無理なので、代わりに娘が三重県を案内するから乗って行っちゃって。初歩にはもう旅行の了解とってあるから」と涼しい顔の葉織。


 暦人の話らしきことを口走るこの人には、祖父の言っていた禁じ手も何もないようだ。暦人の知識の共有が常に許されている人のようである。『なんでだ?』と思っているそばからお構いなしにポンポン言葉が飛び込んでくる。


「ちなみにこの子もカレンダーガールだから! わかるわよね」と葉織はウインクして、笑顔で助手席に夏夫を押し込んだ。『カレンダーガールって、暦人ってことか? おい、おばちゃん、ちゃんと説明してくれ!』と夏夫は心中叫んだ。頭の中の混乱は避けられない。


「僕、財布も着替えも持ってないので…」と夏夫が言いかけて降りようとしたそのとき、葉織が夏夫を優しく押さえ込んで、「そんなの途中でこの子に全部買ってもらいなさい。たいした話じゃないわ。なんならデジカメもアクセサリー一式ごと買ってもらいなさいよ。ねえ晴海?」といつものいい案配のずれ加減を披露してくれた。

「オーケー、買っておくわ」と晴海は平然と応える。ある意味、親子して手強い性格だ。


 しかしいまここで簡単にカメラを買ってもらえると言うことは、自分が苦労して秋助の手伝いをしてきたことが、単なる無駄骨になるということを意味する。なんとも微妙な面持ちの夏夫だった。

「あっ、あと以前母に聞いて知っていたんだけど、私、写真家になるお手伝いもするつもりだから、末永くよろしくね」と晴海は加えた。夏夫はその言葉に山手の公園を思い出しドキッとした。


「とりあえずカメラ量販店でニコン、キヤノン、ペンタックス、オリンパスくらいをそろえておきましょうか?」と晴海は続ける。


 そこに「それから夏夫くん……」と窓越しに急にまじめな顔で葉織は加える。ここでついに『禁じ手の話が出るのか?』と思わず生唾を飲んで覚悟を決める夏夫。事としだいによっては時空を越えた危険なルールもあるかも知れないからだ。


「女の子と同じ部屋に泊まるからって、みょうなハメを外しちゃダメよ」とまじめ顔の葉織は夏夫を見つめて言う。そう言っておきながら葉織はちょっと考えて間を置く。そして「うーん」と、うなった後、考えるのが面倒になったようで「でも、そんときはそんときね。どうにでもなれって感じね」と無責任に笑った。


「おかあさん!」と晴海は軽く葉織を睨み付けて運転席に座る。そしてスターターのキーを回す。エンジンが躍動し始める。サイドシートで真っ赤になっている夏夫に気づき、「話通りのまじめくんね」といいながら、シフトレバーの右下にある金属製サイドブレーキを解除した。このサイドブレーキは今では珍しい、時計回りで四分の一回転させて、押し放つタイプのものだ。


「今宵から三日間、私とデートしてもらうわよ」

 晴海はそう言うとアクセルを踏み込んで爆音と共に車を走らせた。夏夫は車窓に見える日月さまの森に向かってお辞儀をすると、今度は晴海のほうを向き直って「こんな美人のお姉さんとドライブできるなんて最高です!」と挨拶をした。そのとき少しだけ純一の気持ちがわかったような気がした。もしかすると夏夫にとってのペガサスホワイトの妖精は、ペガサスホワイトの車に乗ってくる妖精のことだったのだろうか?


 運転席の彼女はウインクとともに、左手の親指を立てて「こちらこそ。そんなこと言われたら、お姉さんは君と恋に落ちちゃうかもよ」と言いながら東名高速道路に向けて町山田街道を走り始めた。その仕草と言葉に「やっぱり親子だ」と直感した夏夫だった。

 そしてバックミラーには笑みを浮かべる葉織の姿が映っていた。

『いったい阿久のおばちゃんって何者なんだ?』

                    ―了―

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