第22話 匕首
――この涙は永遠に止まらないのではないか。
そう思っていた蘭花だったが、日が傾き始める頃になると、涙は緩やかに収まっていった。
蘭花は喉の乾きを覚えて、むくりと上体を起こした。――泣きすぎたせいで、頭がぼうっとしている。
(今は何時かしら)
辛い現実から目をそむけるように、どうでもいいことを考える。それから数拍置いて、蘭花は布団をめくって寝台から足を下ろした。もぞもぞと靴を履き、寝台の端に丸まっていた
板張りの床を歩いて卓子に向かうと、卓上には
(小梅か小菊が用意しておいてくれたのね。ありがたいわ……)
蘭花は茶壷の蓋を閉じて、茶杯を表にして置くと、ゆっくり茶壷を傾けた。その時、
『そんな馬鹿な話があるか!!』
隣の部屋から
慶虎の怒鳴り声を初めて聞いた蘭花は、茶壷を卓上に置いて単衣を取り払い、中衣の上から外套を羽織って部屋を出た。そして、廊下に出てすぐ隣の部屋の戸口に手を掛け――
『劉賢妃が罪を認めたから捜査は打ち切りだと!? 劉賢妃を捕らえたからといって何になる!? どう考えても殷氏の……っ、殷貴妃の差し金だろうが!!』
ガシャーン! と陶器が割れる音が廊下にまで響いた。
蘭花は躊躇っていた手に力を入れると、勢いよく戸を開いた。
「お兄様! 今の話は本当なの……!?」
蘭花の視線の先には、額に手を当てて首を振る
慶虎はハッとした顔をして、足元に散らばった茶器だったものの残骸を、靴を履いた足で卓子の下に隠した。それからわざとらしい咳払いをすると、いつもの柔和な笑みを浮かべて、蘭花に近づいてきた。
「……蘭花。どうしてここに? 寝ていなくても大丈夫なのか?」
蘭花は、慶虎をキッと睨みつける。
「今は私のことなんてどうでもいいの! ……それより、さっきの話は本当なの!?」
蘭花の剣幕に押された慶虎は、たじっと後ずさって、
「あ、ああ……本当だ」
と言った。その言葉を聞いて、蘭花は口元を両手で覆った。
「そんな……どうして……?」
止まったはずの涙が再び流れ出す。蘭花は嗚咽をもらしながら、その場によろよろとへたり込んだ。
「蘭花」と、慶虎は気遣うような声音で言って、ぼろぼろと涙を流す蘭花の側に来て片膝をついた。
蘭花は流れる涙をそのままに、泣き濡れた顔を慶虎に向けた。
「花火の火が朧月堂に燃え移ったなんて嘘よ! 朧月堂は、後宮の端に建っていたのよ? それに、お母様のご遺体に不審な点があったから、
「――劉賢妃自身が、『陛下に寵愛される
そう言って明全は、蘭花に手巾を差し出した。蘭花は目の前に差し出された手巾を受取り、相変わらず感情の読めない明全の顔を見上げた。
「手巾をありがとう、師傅。……いえ、明全」
「もったいないお言葉にございます、王太女殿下」と、明全は恭しく頭を下げた。そして、
「王太女殿下。お許し頂けるならば、沈
蘭花は驚いて両目を見開いた。明全から受け取った手巾で涙を拭いて、
「……何か不審な点でも見つかったの?」
明全は
「はい。沈娘娘の死因は――火災によるものではございませんでした」
「なんですって……?」と、蘭花は表情を強張らせた。すると、今まで黙っていた慶虎が蘭花の手を取って立ち上がらせた。自然な動作で蘭花を椅子に座らせると、明全に向かって鋭い視線を投げかけた。
「明全。今の蘭花にその話を聞かせるのは時期尚早だと思うが」
「……今話すも、後で話すも、結果は変わりませぬ。どうせ最後には、否応なしに知るところになるのですから」
そう言って、明全は蘭花を見遣った。
「慶虎様は聞かぬほうがよい、と言っておられますが……王太女殿下はいかがなさいますか?」
蘭花は外套を両手で握りしめて覚悟を決めた。
「聞きます」
短く、はっきりと言いきった蘭花を見て、明全は満足そうに頷いた。
「結論から申し上げます。沈娘娘の死因は
「刺殺……?」
明全はこくりと首肯した。
「検屍官の話によれば、火災が原因で亡くなった場合、気道に熱傷を負って粘膜に腫れと損傷がみられるのだそうです。――しかし、沈娘娘のご遺体を検分したところ、そういった損傷は見られなかった……」
「ということは、お母様は火災が起きる前に亡くなっていたと?」
「そういうことになります」
「でも、まって」と、蘭花は額を触る。――酷い火災だったが、比較的に早く鎮火出来たおかげで、母の遺体は焼けずに残っていた。
「私は、お母様のご遺体を確認したけれど、火傷を負った意外に外傷はなかったはずよ。それに、気道の粘膜が綺麗だったということは、毒物で殺されたわけじゃない」
だとしたら一体どうやって手を下したのだろう、と疑問に思う蘭花に、明全は、
「
と言った。「匕首?」と蘭花が首を傾けると、
「――これが匕首だよ」
と、慶虎がつばのない短刀を、蘭花の目の前にかざした。持ってみるといい、と言われて、蘭花はおそるおそる匕首を手に持った。
「……とても軽くて、刃が薄いわ。それにとても短いのね」
「そうだろう? ――これは
慶虎は、蘭花から匕首を受け取ると、ヌメ皮製の鞘に刃を納めた。そしてそれを、懐の中にしまう。
蘭花は慶虎から顔を逸らすと、明全を見上げた。
「
「もちろんでございます」と答えた明全は、懐から筒状の紙を取り出し、蘭花に手渡した。
蘭花は、受け取った紙を広げる。書かれていたのは、下賜した朝貢品の記録だった。そして――
「……匕首を下賜されたのは、お兄様だけじゃないの」
愕然として慶虎を見上げると、慶虎は片眉を上げて、肩を竦めた。
「一本やられたね。大理寺の捜査が中止にならなければ、僕は投獄されていたかもしれない」
おどけたように言った慶虎に、蘭花は感情を高ぶらせた。
「何を言うのお兄様! お兄様が犯人だなんて、誰も信じやしないわよ! それに、お兄様がお母様を手に掛ける理由も、利点もないじゃないっ」
「それには僕も同感だ。暗殺に匕首を使ったのは下策だと思う。……だから、沈氏の暗殺は、殷貴妃の指示ではなかったのかもしれないね」
蘭花はハッと表情を硬くする。そして、慶虎と明全を交互に見て、
「……まさか、殷貴妃はお母様に手を掛ける気はなくて、劉賢妃が勝手に暴走しただけだというの?」
声をわななかせる蘭花に向かって、慶虎と明全は、沈痛な表情を浮かべた。
「そんな……じゃあ、劉賢妃が余計なことをしなければ、お母様は生きていらっしゃったの……?」
呆然とつぶやいた蘭花の肩に、慶虎は優しく手を置いた。
「全ては憶測に過ぎないが、殷貴妃の手口にしては杜撰すぎる。……だが、結局のところ、劉賢妃が動いたということは、殷貴妃が関わっているとみて間違いはない」
蘭花は手に持った紙をくしゃりと握った。
「……決定的な証拠がないから、殷貴妃はお咎めなし。捜査が中止になったから、大理寺は匕首の件を奏上しない。劉賢妃は自ら罪を認めたことで、罰は軽くなり、『まさか、中に婕妤がいたとは知らなかった』と言い逃れることができる……」
「……結局、全て、殷貴妃にしてやられたということなのね」と、蘭花は再び涙を流した。
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