第12話 酉施楼 弐

「そこまでだ! 今すぐに蘭花から、その汚い手を放せ!」


 蘭花を助けに現れたのは、明杰ミンジェではなく、慶虎ジンフーだった。


 軒虎シェンフーはチッと舌打ちをして、軽い身のこなしで寝台から床に着地する。


「お兄様……っ」


 涙を流しながら、上体を起こした蘭花の姿を見て、慶虎の顔がたちまち怒りに染まった。慶虎は腰にいた剣をスラリと抜く。


「……白軒虎。貴様……切られる覚悟は出来ているのだろうな?」


 言って、慶虎は剣を構えた。だが、当の軒虎は身構えることなく、気だるげに首を傾ける。


「おいおい、本気になるなよ。白慶虎」


 降参を表明するように、両手を挙げた慶虎は、蘭花を一瞥いちべつして冷笑を浮かべた。


「まだ手は出してない。……まあ、少し味見はさせてもらったけどな」


「貴様ぁっ!」


 慶虎は地を蹴って跳躍し、剣先を慶虎の喉元に突き出した。だが、軒虎は剣筋を見切り、回転しながら距離を取る。


 慶虎は着地と同時に間合いを詰めて剣を横に振った。軒虎は上体を大きく反らし、鼻先すれすれで剣先をかわした。


 その後、素早く体勢を整え、慶虎から間合いを取った軒虎は、上体を低くして獣のように前かがみになった。


 軒虎の赤い瞳が濃さを増し、全身から神気が立ちのぼる。


(まさか!)


 蘭花は戦慄した。――この男はここで転変する気なのだ。


 蘭花は乱れた交領えりを無造作に整えると、二人の間に立ち塞がった。


「二人共、もうやめて!」


 慶虎と軒虎は、ピタリと動きを止めた。


「蘭花、なぜ止める? お前ははずかしめを受けたのだぞ!」


 蘭花は、軒虎の身体から立ち昇る神気に圧倒されそうになりながら、赤い瞳から視線を逸らさないまま、慶虎に向かって声を張り上げた。


「お兄様、忘れたの? この男は、バイ氏の中で唯一白虎の姿に転変できるのよ! 私とお兄様の実力では、転変したこの男に勝てないわ!」


「だが、蘭花……っ」


 なおも言い募ろうとした慶虎に、蘭花は僅かに開放した神気を浴びせた。


 背後から、慶虎が息を呑む気配が伝わる。次いで、剣を鞘に収める音が聞こえた。


「……これでわかったでしょう? こちらには、あなたと戦う意思はないわ」


「そうみたいだな」


 軒虎は興がそがれた様子で構えを解いた。


 蘭花はホッと息を吐くと、くるりと身を翻して、慶虎に駆け寄った。


「お兄様! 助けに来てくださったのね! でもどうしてここに?」


 首をかたむけた蘭花を見て、慶虎は疲労の色を濃くする。「失礼するよ」と言って、蘭花の乱れた交領を整えた慶虎は、扉に向かって親指を向けた。


「お前を心配した小梅が、僕に助けを求めてきたんだ」


「小梅が? ……小梅ったら、私との約束を破ったわね」


 ボソリと呟いた蘭花の額を、慶虎は指で弾いた。うっ、と呻いた蘭花は、涙目で慶虎を見上げる。


「小梅を責めるんじゃないぞ。小梅が機転を利かさなかったら、今頃どうなっていたことか……」


 慶虎が片手で両目を覆ったとき、背後から、軒虎の含み笑いが聞こえた。


「何がおかしい?」


 言って、慶虎は蘭花の肩を抱いて引き寄せる。


「いいや? ただ、空々しい『優しいお兄様』を演じている姿が薄ら寒くてな」


「……何が言いたい」


 軒虎は中衣ちゅうえの汚れを軽く叩いて寝台に腰掛ける。それから煙草盆を引き寄せ、団子髪から煙管キセルを抜き取った。


「確か、あんたと偽物公主は、ガキの時分から親しかったんだっけか」


 軒虎は煙草入れから刻み煙草を摘み、煙管の雁首に詰める。


「小耳に挟んだんだが、あの王妃ババアは、あんたらをくっつけようと画策してるらしいじゃないか。だがその様子だと、上手く事が運びそうにないな」


 言って、火入れの炭で火をつけた。慶虎は眉をすがめて、蘭花の両耳を塞ぐ。「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえ」と、言ってから、蘭花の耳を解放した。


 一服して煙草の味を楽しんでいた軒虎は、クックッと笑って片膝を立てる。


「そりゃあ、違いない」


 フンと鼻を鳴らした慶虎と愉快そうに笑う軒虎を見て、蘭花は「この短時間でなにがあったの……?」と、不思議に思った。


 慶虎は首をかたむける蘭花の両肩を優しく掴んで、


「蘭花。お前は何も気にしなくていい」


 と言った。蘭花は、自分を真っ直ぐに見つめるべっ甲色の瞳を見つめ返し、こくりと素直に頷いた。


「わかったわ。お兄様がそうおっしゃるなら」


 煙草を吹かしながら、ことの成り行きを眺めていた軒虎は含み笑う。


「おーおー、信頼されてるねえ」


「いちいちうるさい奴だな。……そういうお前は、殷氏に信頼されていないようだが?」


 慶虎は蘭花を抱き寄せ、部屋の天井を顎で指し示した。


「……流石は、王太子殿下。気づいていたか」


「『元』王太子だ。僕は耳が利くんでね。部屋に入る前から気づいていた」


 ハハハッ、と笑った軒虎は、ハッと自虐的な笑みを浮かべた。


「俺は白氏の『偽物王子』なんでね。はなから信用されてないのさ」


 初めて聞く言葉に、蘭花は「えっ」と驚きの声を上げて金色の瞳を見開いた。


「第三王子殿下が『偽物王子』……? 私、そんなの初めて聞いたわ」


 ――自分以外にも、偽物と呼ばれる者がいた。


 蘭花は動揺を隠せなかった。


 確かに、軒虎の髪は老人のような白髪をしていて、バイ氏の特徴である銀髪を持っていない。


 瞳の色も柘榴ざくろのように深い赤色で、黄色やべっ甲色、蘭花のように金瞳きんめを持って生まれる白氏の色とは異なる。


 だが、軒虎は――


「でもあなたは、白氏の兄弟姉妹の中で唯一完璧に、金武ジンフー様と同じ白虎すがたに転変できる存在なのよ?」


 逆行前の蘭花が『偽物公主』と蔑まれていたのは、人型だけ白氏の特徴全てを持って生まれたからだ。もちろん。玉座ぎょくざにつくには、容姿も重要だろう。――民草は、簡単に理解できるものを信じるから。


 だが、このジン国を治める上で一番重要なのは、完璧な姿に転変して完璧に天候を操る力を持っているかどうかだ。そう考えた場合、次の王になるべきなのは、白軒虎バイシェンフーだと言える。


 軒虎が王になり、金武ジンウー様と同じ力を正しく行使すれば、天災を未然に防ぐことができる。そうすれば、民草は天災を恐れることなく生活ができて、農作物の生産量は上がり、国庫は潤い、民草が飢えることもなくなるのだ。


(だからこそ、逆行前の世界で、軒虎は王太子になれたんだわ)


そこまで考えて、蘭花はハッとした。


 ……よその事情に頭を突っ込むのは褒められたものではないが。


 蘭花はごくりと生唾を飲み込むと、深呼吸をして口を開いた。


「ねえ。あなた、もしかして……リウ氏とイン氏に大切にされてないの?」


 軒虎の肩がぴくりと動いた。


「やっぱり、そうなのね……」


 蘭花は、やるせない気持ちを抱いた。


「……もしかして、今日ここで私と会ったのは、殷氏と殷貴妃きひに指示されたからなの?」


「…………」


 軒虎は何も答えなかったが、それが肯定の証だった。


 シーンと静まり返る室内に、重苦しい空気が流れる。


 蘭花と慶虎が何とも言えない顔を見合わせたとき、煙管を灰吹きのふちに叩く音が響いた。


 二人は軒虎に視線を移す。


 軒虎は俯いたまま、


「同情するなよ。虫唾が走る」


 と言った。蘭花はその言葉を咀嚼そしゃくするのに、少しだけ時間がかかった。そして――


「はぁ!? 同情するわけないでしょう!!」


 と、怒り声を上げた。そして、驚いた表情を浮かべた軒虎に向かって、蘭花は指を突きつける。


「不幸自慢をするわけじゃないですけどねえ! こっちは一回死んでるのよ!! もがっ」


 慌てた慶虎に口を塞がれて、蘭花は己の失態に気づく。


 蘭花の言葉にポカンと口を開けた軒虎は、ハッと我にかえると、顔の目の前で手を振った。


「いやいや。おまえ、生きてるだろ」


はね!!)


 蘭花は慶虎に口を塞がれたまま、心のなかで叫んだ。


「……白慶虎。そいつ、一回侍医いしゃに見せたほうがいいんじゃないか?」


「ああ、そうするよ。だから、今の発言は忘れてくれ」


 軒虎は煙管の吸い口で頭を掻いた。


「……まあ、いいけどよ。殷氏おっさんに報告したところで、ややこしいことになりそうだしな。だけどな――」


 軒虎は煙管を団子髪に差し込み、指笛を吹いた。すると、天井から刺客が姿を現した。


 警戒しながら寄り添う蘭花と慶虎を一瞥した刺客は、片膝をついて、軒虎に頭を下げる。


「軒虎様。お呼びで――ぐはっ」


 軒虎は表情を変えることなく、赤く鋭い爪で、刺客の首を掻き切った。


 慶虎はとっさに、蘭花の頭を抱き込んだ。


 締め切られた空間に、血と煙草の臭いが充満する。


 刺客は身体をピクピクと痙攣させて、やがて事切れた。


 軒虎は返り血を浴びた顔を二人に向けて、冷笑を浮かべる。


「……余計な芽は摘んだ。安心しな。俺は意外と約束は守るんだ」


 そう言いながら、換気の為に窓を開けた時だった。

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