通話でもメッセージでもいつでもして来い――と、壱さんは言ってくれた。



 でも出来る訳がなかった。



 仕事が忙しいと分かってる上に、元々そういう習慣がない。



 ふたりの関係が今までとは違うと頭では分かっていても、何年も積み重ねてきた所為で当たり前になってしまったものを、急に切り替えられる訳もない。



 通話やメッセージを送るとなれば、それ相応の用件が必要なんじゃないかと思って、自然としないようにしてしまう。



 だからと言って、壱さんから連絡がくる事もなかった。



 例えば、声を聞きたかったからとか、何をしてるのかなと思ったからとか、そういう他愛もない用件で連絡をくれたら、わたしからも気兼ねなく出来るようになったかもしれないのに。



 結局、壱さんから電話が掛かってきたのは、ふたりの関係が進展した日から、一週間が経ってから。



『ちょっと会えるか?』


 夜の十時過ぎ。そんな呼び出し文句と一緒に、わたしの家の近くにある公園で待ってるという用件を伝えられた。



 会える事は飛び跳ねるくらい嬉しかったけど、会うにはそれなりに準備が必要だから焦った。



 結局、着替えて化粧をして髪をセットして、ようやく家を出たのは、壱さんからの通話を切ってから優に三十分が経ってからだった。



 それでもかなり急いで用意をした方だったけど、寒い中で待ってた壱さんとしては相当長く感じる時間だったと思う。



 公園に着くと、出入り口近くにある照明灯の下に、大学に来てくれた時のように、寒そうに両手をコートのポケットに入れて俯き加減で立ってる姿を見つけた。



 走って近付くと、気配に気付いたのか足音に気付いたのか顔を上げて、目を細めて微笑んでくれた。



 そんな風に今までしてくれた事がない反応をしてくれたから、胸がキュンとして寒さなんて吹き飛ぶほど体温が上昇した。



「ごめんなさい。出るのに時間が掛かって……」


 駆け寄ってまずした謝罪に、壱さんは「構やしねえよ」と笑った。



 その笑い方が凄く優しい感じだったから、またキュンとした。



 分かりやすく、これまでとは違うって事を態度で示してくれるから、ふたりの関係が変わった事を実感出来る。



 実感すると途端に幸福感で満たされる。



 だから自然と顔の筋肉が緩んでしまって、口許に自然と笑みが浮かんだ。



「こんな時間に呼び出して大丈夫だったか?」


 白い息を吐き出して聞いてくる壱さんの鼻は赤い。



 よくよく見ると目の下にくまもある。



 それら全てを隠すように、壱さんは少し俯ぎ加減で、「家の人、心配してねえか?」と続けざまに質問をした。



「大丈夫です。両親にはコンビニに行くと言って出てきました」


「そうか。ならあんまり遅くならねえうちに帰さねえとな」


「あの、壱さんは一度家に帰ったんですか?」


「いや、まだ。このあと帰るけど、何で?」


「昨日は家に帰ったんですか?」


「いや、昨日は帰ってねえ。三日前は日付が変わるくらいに帰ったけど、それ以外はずっと会社に泊まり込んでる」


「じゃあ、どうして小綺麗なんですか?」


「あん?」


「変な臭いもしませんし、髭も全然伸びてないし……」


「風呂屋行ってから来たんだよ。一週間振りに会うから小綺麗にしとこうって男心なんだから、そういうとこは詮索しないでくれ」


 眉尻を下げて笑った壱さんは、「だからまあ、近付いても臭くはねえはずだ」と付け加えて徐にコートのポケットから両手を出した。



 そうしてその手でわたしの腕を軽く掴むと、促すように優しく引き寄せた。



「ちょっとあっためて」


 囁きのような言葉が聞こえた時には、壱さんの腕の中にいた。



 大量の煙草の臭いと少しの石鹸の香りに包まれた。



 こういう経験が無いに等しいから、踊り狂ってるかのように激しく打ち始めた心臓を鎮める事が出来なかった。



――きっと壱さんにも聞こえてる。



 そう思うと恥ずかしさまで湧き上がってきて、顔が熱くなった。



 なのに壱さんは余裕の態度だった。



 胸に顔を押し当ててる感じになってるから心臓の音が聞こえてくるけど、打つリズムは常に落ち着いてた。



 年齢の差か経験の差か知らないけど、わたしばかりがテンパってるのは、ズルいと思う。



「明後日は早く帰れそうなんだよ」


 心臓が打つリズムと同じように落ち着いた壱さんの声が、頭の真上から聞こえてくる事にドキドキする。



 好きな人と付き合うというのは、心臓への影響が結構ある。



「なあ、聞いてるか?」


「き、聞いてます。明後日早く帰れそうって……」


「聞いてんなら返事しろよ。独り言みたいで寂しいじゃねえか」


「ご、ごめんなさい……」


「まあ早いっつっても七時は過ぎるだろうけどな」


「はい」


「何か予定あるか?」


「はい?」


「明後日、家来る?」


「い――行きます!」


 勢いよく顔を上げたら、こっちを見下ろしてた壱さんとバッチリ目が合った。



 恥ずかしいのと照れ臭いのとで目を逸らしたい衝動に駆られた。



 けど、そうする前に壱さんの顔が近付いてきたから、思考回路は停止した。



 昔も今も変わらない、好みのど真ん中の顔が超至近距離にくる。



 色気がある伏し目がちの目に、胸がキュンキュンする。



 吐息が唇に掛かるくらいの距離まで近付いた。



――直後。



「ガン見やめろ」


 壱さんの笑った声が聞こえて慌てて瞼を閉じると、少し冷たい壱さんの唇が重なった。



 キスをしたのは処女を捧げた夜以来。



 初めてじゃないけど、優しいと感じるキスをされたのは初めてだった。



 啄むようなキスを何度か繰り返したあと唇を割って入ってきた壱さんの舌が、優しくわたしの舌と絡まる度に、まるで掴まれてるみたいに心臓が痛くなった。



 強く抱き竦められて、深いキスをされて。



 それだけで経験が乏しいわたしはいっぱいいっぱい。



 何をどうしたらいいのか分からなくて、壱さんの背中に回してた手を握り締めてるだけだった。



 キスを始めて一分か二分。もしかしたら五分くらい経ってたかもしれない。



 ゆっくりと唇を離した壱さんは、抱き締めてた腕に更に力を入れて、「ふう」と息を吐くと、「明後日、ヤろうな」と、少し掠れた色気のある声で誘ってきた。



 そんな声を出すのはズルい。



 しかもあんな優しいキスをした直後に言うのはズルい。



 そういう事をされたら、意思とは無関係に頷いてしまいそうになる。



――けど。



「嫌です」


 何とか雰囲気に流されない程度には「自分」というものを持ってる。



 壱さんはすぐには口を開かなかった。



 数秒の間を空けて、「あん?」と言った。



 言い方からして聞こえなかった訳じゃなく、聞こえた内容が信じられないものだったからこその聞き返しだった。



 だからもう一度、気持ちをはっきりと伝えるべく「嫌です」と言った。



 またも数秒の間が空いたのは言うまでもない。



「……え? 嫌って言ったか?」


 あれだけはっきりと言ったのにまだ確認してくる壱さんは、少しだけ体を離して顔を覗き込んでくる。



「言いました」


 真っ直ぐ目を見つめて答えたら、二度瞬きをされた。



 挙句。



「え? セックスの話だぞ?」


 わたしが何も理解していないという扱いをしてきた。



「セックスの話だという事は分かってます」


「じゃあ、分かってて嫌って言ったのか?」


「そうです」


「え? 冗談で?」


「わたしがそんな事を冗談で言うと思いますか?」


「お――もわねえ……」


「そうでしょ」


「ま、待て! あれだぞ!? この間のは本当にわざとだぞ!? 言ったろ!? わざとあんな風にしたって! 次は絶対あんなに痛い思いはさせねえから!」


「壱さん」


「ヤる気になったか!?」


「何を言われてもヤるつもりはないので別の話をしましょう」


 そう提案した途端に分かりやすく固まった壱さんは、間もなく「嘘だろお!?」とご近所迷惑になりそうなほど大きな声を出した。

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