第30話 兄弟ではなく
岳斗は目を覚ました。と言うより、ほとんど眠れなかった。海斗が来るかもしれない、などと考えたのが愚かだった。海斗はとうとう来なかった。一日中試合をして疲れている海斗が、夜中に起きて来るわけがないのだ。
岳斗は洗濯をした。海斗のユニフォームも。ベランダで干していると、海斗が起きて来た。
「岳斗、洗濯ありがと。」
そう言って、後ろから岳斗の肩に顎を乗せた。ズキューン!と何かが岳斗の胸を射る。
「うん。」
だが、平静を装って返事をする岳斗。期待させておいて何もしないなんて、と少し腹を立てていたのだが、今の一瞬でそんな不満は消えた。これが恋なのか、と岳斗は思った。それも腹立たしい。
「昼飯どうする?どっか食べに行こうか。」
海斗が言った。
「じゃあさ、食べに出て、帰りに買い物して来ようよ。夕飯は何か作ろうぜ。」
と、岳斗が提案し、二人で駅前のファーストフード店へ行った。
「ちょっと、見て見て!」
「キャッ!」
岳斗と海斗がハンバーガーなどを買って席を探していると、前の若い女子たちが、手を口に当てて騒いでいる。この背格好にこの顔。海斗が現れたら女子はときめかない方がおかしい、と岳斗は思う。男子とて、ついつい羨望の眼差しを向ける。
空いている二人席に座ると、海斗の後ろの席に座っている女子たちが、声を押し殺してはしゃいでいる。だが、何食わぬ顔で海斗はハンバーガーにかぶりつく。その食べっぷりもカッコいい、と岳斗は思う。
「食べないのか?」
海斗が不思議そうに岳斗を見る。岳斗はハッとした。海斗に気を取られ過ぎだ。いつも向かい合わせに座って食事をしているというのに、何て事だ。そう思いつつ、岳斗が包みを開けてバーガーにかぶりつくと、その様子を横目で見ていた海斗が、ふっと笑った。
「なんだよ。」
岳斗がモグモグしながら言うと、
「可愛いなと思って。」
などと言う。岳斗はやけになり、二口三口続けて頬張ってやった。そうしたら、海斗が楽し気に笑った。目立つ。恥ずかしいと思う岳斗であった。
二人はファーストフード店を出て、近くのスーパーへ入った。
「何作ろっか?」
岳斗が言うと、
「一緒に作れるもの……餃子は?」
と、海斗が言った。それで、岳斗は餃子の皮、ひき肉、ニラをかごに入れた。
スーパーでは試食販売をしている事があり、岳斗も子供の頃はよくもらって食べたものだ。だから、おばちゃんが子供や奥様向けに試食品を提供する、というイメージだったのだが……今はどうだ。あっちのおばちゃんもこっちのおばちゃんも、あっちのお姉さん?も、海斗に近寄ってきて、試食品を勧めている!
「ほら、お兄ちゃん、これ美味しいから、食べて。」
「一つと言わず、二つ食べていいわよ。」
「買わなくていいから、ほら、持っていきな。」
とまあ、しつこい。
「海斗、行くよ。」
岳斗はかごを持った海斗の腕をぐいぐい引っ張って、おばちゃんたちから引き離した。
「まったく、油断も隙もありゃしない。」
岳斗が憤慨して鼻息を荒くしている横で、海斗は涼しい顔で商品を見ている。
「これも買おうぜ。」
と、お菓子の物色。慣れているのだろうな、ああいう事に……と、岳斗は心の中で呟いた。
帰宅後、二人は早速餃子を作り始めた。六十個の餃子を作ろうというのだから、時間もかかるというものだ。
二人で料理をするなど、ずいぶんと久しぶりだった。料理だけでなく、何かを一緒にする事自体、もしかしたら小学生以来かもしれない、と岳斗は思った。岳斗はよく料理を手伝っていたが、海斗はいつもサッカーだった。それでも、海斗は餃子の包み方は覚えていて、せっせと包む。大きな男が餃子を包む姿は、なかなか可愛げのあるものだ。
「あ、ご飯炊かなきゃ!」
途中で思い出し、急いで米を用意する岳斗。それから、餃子とご飯だけでいいのか?味噌汁は?などと考え出すと忙しい。それらを岳斗がバタバタと用意し、海斗が餃子を焼き、何とか夕飯が出来上がった。何時間かかっただろうか。
「いただきまーす!」
二人でそう言って、餃子を頬張る。
「うまい!」
二人して自画自賛。
「俺たちさあ、二人だけでも暮らして行けそうだよな。」
と、海斗が言った。
「まあ俺が、洗濯も買い物も料理も出来ますからね。」
岳斗はふざけて嫌味っぽく言う。
「あー、そうだよな。俺は餃子作っただけだもんな。岳斗、ありがとう。」
と言って、海斗がチュッとその場でキスする真似をした。むー、エロイ、と岳斗がこっそり考えていると、海斗が岳斗の表情を見て、ニヤッとした。そうだろう、自分は顔も耳も赤くなっているだろうよ、と岳斗は思った。
また二人で洗い物をした。楽しいのだが、慣れない家事は疲れる。二人してぐったりとソファにもたれかかった。
「疲れたな。」
「うん。」
「風呂にでも入るか。」
「うん。」
「一緒に入るか?」
「え?!」
岳斗はびっくりして海斗の顔を見た。
「あはは、冗談だよ。風呂沸かすな。」
海斗はそう言って、立って行った。冗談か。今日もまた、兄弟に戻ったままだ。
やっぱり……二回も海斗の事を突き飛ばしたのがいけなかったのか、と岳斗は考えた。あんな風に突き飛ばしたら、嫌がっていると捉えるのが普通だ。だから、海斗は何もしないわけだ。それでも、岳斗が海斗を好きになったという事実は認識しているはずなのに。
海斗の次に岳斗が風呂に入った。岳斗が風呂から出てくると、海斗はソファでテレビを見ていた。岳斗もソファに座って、一緒にテレビを見た。番組が終わると、海斗はテレビを消した。そのまま部屋へ戻ろうとする。
「じゃ、お休み。」
などと普通に言って。せっかく、今夜も二人きりなのに。岳斗はもう、認めるしかない。何にもないのは嫌なのだ。どうしても、またドキドキする事が……したい。岳斗は、海斗の背中に飛びついた。
「行っちゃ嫌だよ。一人にするなよ。」
「ん?」
海斗は振り返った。岳斗は恥ずかしくて顔が上げられない。顔を見られたくなくて、今度は前から海斗に抱きついた。
「もうちょっと、一緒にいようよ。」
「岳斗……。お前、親がいなくて寂しいのか?」
「なっ、んなわけないだろ!」
もう、しらばっくれて!と憤る岳斗。
「海斗、俺の事好きだって言ったの、嘘だったの?俺の事、その気にさせておいて、実はからかっただけとか?」
「え?」
「それとも、俺を振り向かせるゲームだったとか?俺が海斗の事を好きになったら、もうゲームは終わり?」
岳斗は徐々に声を荒げて行った。海斗の胸に両手のこぶしを当てる。すると、海斗は岳斗の両手首を掴んだ。
「何言ってるんだよ。そんなわけないだろ。」
「でも、こんな、二人きりなのに、何もしないじゃないか。以前の、兄弟みたいに戻ってるじゃないか!」
「岳斗、お前……俺に何かして欲しいのか?」
岳斗はハッとした。これではまるで、岳斗の方から誘っているみたいだ。
「何をして欲しい?何でもしてやるぞ。」
海斗がニヤけた顔で下から顔を覗き込む。岳斗は顔を背けた。恥ずかし過ぎる。海斗は岳斗の手首を離し、背中に手を回した。
「俺は、岳斗が嫌がると思って、我慢してたんだぞ。まったく。」
岳斗は驚き、顔を上げて海斗の顔を見上げた。
「我慢、してたの?」
「そうだよ。こんな風に、家で二人きりなんてシチュエーションじゃ、迂闊な事したら止まらないだろ?でもさ、それで岳斗に嫌われたら、俺すっごく困るし。だからもう、兄弟みたいに振舞うしかなかったっていうか……。」
最後はボソボソと、そっぽを向いて言った海斗。
(そうだったのか。安心した。それならいいや。何もしなくても。)
「あ、お前今、それなら何もしなくていいやって思っただろ?」
どうして分かったのだ、と岳斗は目を丸くした。
「後悔しても遅いからな。こうなったら、今夜は一晩中離さないから、覚悟しておけよ。」
と、海斗が言った。
「いやしかし、このベッドではもう狭いな。子供の頃は二人で寝てたけど。」
海斗は岳斗を自分の部屋に連れていったものの、海斗のベッドで二人一緒に寝られるとも思えなかった。絶対出来ないわけでもないだろうが。
「そうだ、いい事考えた!」
海斗がそう言って手を打った。
そして、二人それぞれ自分の枕を持ち、一階の両親の部屋へ行った。両親の部屋にはダブルベッドがある。今夜は空いているわけだから、このベッドを借りようというのが海斗のアイディアだった。だが……。
「なんか、やめた方がよくない?」
「うーん。確かに。」
二人して枕を抱えたまま、綺麗に整ったベッドを見下ろしてそう言った。ここに寝たら、絶対にバレる気がした。そして、どうしてここで寝たのかと聞かれたら……答えられない。
「海斗、一緒に寝るのは諦めようよ。」
岳斗がそう言うと、海斗は苦い顔で頷いた。
そしてまた、ソファに並んで腰かけた。
「あのさ、この間は……二回も突き飛ばしてごめん。その、嫌だったわけじゃなくて、びっくりしただけだから。」
岳斗がそう言うと、
「そういえば、一回目の時、どうして泣いてたの?俺、お前を嫉妬させて気を引くつもりだったのに、あれでうっかりこっちから行動しちゃったからさ、作戦がぐちゃぐちゃになったんだぜ。」
と、海斗が言った。
「それは……海斗が前園さんと付き合ってるって思って、それで、悲しくなって。」
そうなのだ。岳斗は前園の策にすっかりハマってしまったわけなのだ。悔しいが。
「そうなの?じゃあ、俺がもうちょっと冷静になってれば、あのまま上手く行ってたのか?いや、でも二回目も突き飛ばされたんだもんな。」
「二回目は……。」
岳斗はあの時を思い出し、ボッと顔が熱くなった。持っていた枕をぎゅっと抱きしめる。
「二回目は?」
海斗が先を促す。言うのが恥ずかしい岳斗。
「体が、反応して……。」
言ってから、岳斗は思わず枕に顔を埋めた。
海斗が何も言わないので、岳斗は心配になって顔を上げた。海斗は天井を仰ぎ、深呼吸をしていた。そして、そのまま言った。
「俺さ、岳斗の兄貴、辞めていい?」
「え?」
海斗は改めて岳斗の方に向き直った。
「岳斗、俺の弟じゃなくて、恋人になってくれないか?」
岳斗にも分かっている。岳斗自身が何を望んでいるのかは。だが、そんな簡単な事ではない。今更だが、岳斗は両親の事を考えた。
「でも海斗、俺たちがそうなったら、父さんと母さんに申し訳ないよ。これまで、俺の事を我が子同然に育ててくれたのに、それが、自分の息子の恋人だなんて、きっと悲しむよ。」
岳斗は目を伏せてそう言った。
「父さんと母さんは、俺が必ず説得するから。きっと分かってくれるよ。だって、このまま俺たちが父さん母さんとずっと一緒に暮らしていくんだから、何も変わらないじゃないか。それに、母さんはもう知ってるし……。」
「え?母さんに何を言ったの?」
岳斗は驚いて聞いた。
「いや、何も言わないうちにバレてた。俺の事はお見通しなんだと。多分、お前の事もお見通しだと思うぞ。」
海斗が決まり悪そうに言った。確かに、母さんなら自分の変化に気づいているかもしれない、と岳斗は思った。だからいいというわけでもないが、もうどっちにしても後戻りはできない気がした。
「いいよ。」
岳斗が言うと、
「何が?」
と、海斗から返ってきた。
「弟じゃなくて、その……恋人になっても。」
最後は消え入りそうな声で岳斗がそう言うと、海斗は岳斗の枕をほっぽり投げて岳斗を抱きしめた。
「じゃあ、今度は突き飛ばすなよ。」
そう言って、海斗は岳斗にキスをした。
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