未来③
その言葉に一旦動きを止めたコータ先輩は、「そうか?」と笑って振り返り、
「より一層格好良くなったろ?」
おどけたような声を出す。
それに対して本心なのかは分からないけど、杏子は「はい」と答えて、「顔が優しくなりました」とにっこり笑った。
「俺に惚れんなよ」
「それはないです」
杏子は笑ってそう言って、助手席の私に「また明日ね」と手を振る。
だから私も運転席の方に身を乗り出し、「明日ね」と手を振った。
「学校どうだった?」
車が走り出してすぐコータ先輩にそう聞かれて、
「うん。居心地悪いよ。留年だし」
答えた私に、コータ先輩は「そうか」と笑った。
「変な噂もあった」
「どんな?」
「ヤクザの女になったとか」
「あながち間違っちゃいねぇ」
コウと同じように声を出して笑ったコータ先輩に、「あ、そうだ」と私は鞄から先生に預かった紙を取り出し、
「先生がこれコータ先輩に渡せって」
手にしたそれを差し出すと、コータ先輩はそれを受け取る。
「何だ、これ?」
「今住んでる家の人に渡しなさいって言われた」
その説明に、コータ先輩は「そうか。気分は保護者だな」と笑って紙をポケットに仕舞ったのに、マンションに着くと玄関で私を後ろから抱き締め、
「何? どうしたの?」
驚いてそう聞いた私の耳元で「もう我慢出来ねぇ」と囁き、制服のスカートの裾から手を入れた。
「保護者気分はどこ行ったの?」
クスクスと笑う私に、「もう無くなった」と言いながら、コータ先輩の手がシャツのボタンを外していく。
コータ先輩の唇が首筋からうなじへと動き、背筋がゾクゾクとした私は、下着をズラそうとしたコータ先輩に、「ベッドに連れてって」と吐息交じりに囁いた。
この日、コータ先輩は長い時間を掛けて私を抱いた。
でも何となくそうなる予感はしていたから、驚きも呆れもしなかった。
直人のいる学校に私を送りだしたコータ先輩の気持ちを考えると、仕方ないことだと思う。
「直人はいなかったよ」と言ってあげたかったけど、それをわざわざ報告する方がおかしいかと、私は何も言わないでいた。
学校に行くようになってから時間が経つのを早いと感じるようになった。
送り迎えは相変わらずコータ先輩がしてくれる。
「面倒だったらしなくていいよ」と一度だけ言ったけど「俺がするって言ってんだろ」と不機嫌になったから、それ以来何も言わないようにした。
毎日コータ先輩が迎えに来る所為で、ケンちゃんたちとは学校でしか会えなかったけど、少しでもケンちゃんたちに会えるのはとても嬉しかった。
杏子は料理が出来ない私のために毎日お弁当を作ってきてくれたり、たまにコータ先輩の家に遊びに来て料理を教えてくれて、コータ先輩は「杏子のお陰でまともな物が食えそうだ」と喜んでいた。
コータ先輩は、私が学校に行くようになってから前よりも強く体を求めるようになった。
学校から戻ると必ずベッドに直行して、夜寝る前にも私を抱く。
それだけコータ先輩を不安にさせているのかと思うと、少し申し訳ないような気持ちになるけど、私にはただ黙ってコータ先輩に抱かれることしか出来なかった。
直人とは一度も会わなかった。
直人はずっと学校に来てないらしく、「アイツ、色々あるから」とケンちゃんが言っていた。
だから、もし直人に会ったらどうすればいいのか、普通に接することが出来るんだろうかと悩んだ時もあったけど、いつしかそんなことを考えることもなくなった。
あっという間に時間は流れ、ふと気が付けば学校に行き始めて一ヵ月が経とうとしていた。
その日、学校から戻ってすぐに私をベッドに押し倒したコータ先輩は、「今日、お前の体熱いぞ」と自身を埋めてそう呟いた。
それまでも充分すぎるくらい快感の波に溺れさせられていた私の呼吸は乱れに乱れていて、「え? 何?」と聞き返した声が覚束ない息遣いに混じる。
それが変に刺激してしまったのか、コータ先輩は「熱でもあるんじゃないのか?」と聞く割に早々と腰を動かし始め、「風邪かも……」と答えながら押し寄せてくる快感の波に身を委ねる私の耳元で、「んじゃ、やめるか?」と意地悪く囁いた。
「やめないでッ」と首にしがみ付くと、コータ先輩は妖しげな色気を含んだ瞳で私を見つめ、湿っぽい吐息を吐き出しながらキスをする。
唇が重なり合ったのと同時に激しさを増した律動に、私はあっという間に昇りつめた。
結局コータ先輩が、再度体の心配をしたのは、それから一時間以上も後のことで、
「マジで大丈夫か?」
コータ先輩はそう言いながら、散々絶頂を迎えてぐったりとベッドに横たわる私の額に手で触れた。
「うん。夏風邪かな」
「裸で寝てっからだ」
「じゃあ、夜エッチしなきゃいいじゃん」
「それは別問題」
「エロ」
「何だと?」
「本当エロだよね」
「でもお前の体も最近エロくなった。ちょっと胸デカくなったんじゃねぇ?」
意地悪なことを言いながらも、エアコンの温度を上げてくれるコータ先輩は、
「あー、そうかも。最近ちょっと太ったんだよね」
「やっぱりか! 最近抱き心地変わったと思ったら太ってやがったか」
私の言葉に声を出して笑う。そして、「杏子のお弁当が美味しい」と笑った私に、
「お前、痩せすぎなんだから、もっと食ってもっと太れ」
そう囁いて優しくキスをすると、「温めてやる」と長く逞しい両腕で私をすっぽりと包み込んだ。
その翌朝、「風邪っぽいなら学校休め」とコータ先輩に言われたけど、休むほどじゃないからと、いつも通り学校に送ってもらった。
だけど休めばよかったと後悔したのはすぐのこと。
それは二時間目と三時間目の間の休み時間に、杏子とトイレに向かった時に起こった。
廊下を歩きながら何気に目を向けた先に、男子トイレの前に立つ金色のツンツン頭を見つけた。
周りに人がいて顔は見えないけど、それは私が決して見間違うことのない直人の頭で、途端に全身に電流のようなものが走り、緊張と不安が押し寄せた。
声を掛けていいのかも、声を掛けたとしてもどう接していいのかも分からない私は、俯いたまま男子トイレの前を通り過ぎることしか出来なくて、心拍数が上がる心臓近くを押さえながら、「樹里」と声を掛けて欲しいと心の中で願っていた。
直人から声を掛けてくれたなら、普通に接することが出来るんじゃないかと、願望のような思いを抱いていた。
だけどそんな願いは虚しく、直人が声を掛けてくることはなかった。
私に気付いていなかったのかもしれないけど、何故かそうは思えなかった。
私が気付いた直人が、私に気付かない訳がないと、何故か確信に近い思いがあった。
それからの授業中はずっと直人のことを考えていた。
もう友達としても接することは出来ないのかと。
もう二度と直人には関わらない方がいいのかと。
別れてから一年経った今、直人にとって私はただの過去の女で、もう友達にも思えないのかもしれないと、ずっとずっと考えていた。
そうやって物思いにふけていたから、
「樹里、弁当食べよ!」
杏子の声にハッと我に返った時にはもうお昼休みになっていて、前の席に座ってお弁当を差し出す杏子に、「いつもありがとう」と言ってお弁当を受け取り、蓋を開けた私は――…
「……樹里? どうしたの?」
胃のあたりが押さえつけられたような感覚に顔をしかめた。
「樹里?」と杏子が顔を覗き込んだ直後に込み上げてきた吐き気に席を立ち、
「樹里!?」
困惑する杏子をその場に置いてトイレに駆け出した私は、トイレの個室に入るとすぐに嘔吐した。
訳の分からない不快感が襲ってくる。
それと同時に元旦のことを思い出し、またこうして直人のことを考えて吐いてしまった自分に苛立ちさえする。
「樹里、大丈夫?」
心配して追い掛けてきてくれた杏子は、すぐに私の背中を摩ってくれて、
「……うん。ごめんね。夏風邪みたい。迎えに来てもらって早退するね」
私はそう言って携帯を取り出し、コータ先輩に電話を掛けた。
数回の呼び出し音の後に聞こえてきた、
『――…もしもし? 樹里か? どうした?』
コータ先輩の声は優しい。
その声に、また吐いてしまいくらいに直人のことを考えてしまったことを酷く後悔した。
「あのね、気分悪くなっちゃって……」
『大丈夫か?』
「やっぱり風邪みたい。……迎えに来て」
『十五分で行く。待ってろ』
そう言ってくれたコータ先輩に、「あんまり飛ばさないでね」と言って電話を切った後、職員室に行って担任の先生に「風邪っぽいので早退します」と告げた私は、校門へ向かい、校門の脇に座って迎えを待った。
校内に予鈴の鐘が響き、強い日差しが降り注ぐ。何だかそれが気持ちよくて、校門に頭をもたれさせウトウトとしていた私は、しばらくして聞こえてきたクラクションの音に瞼を開き立ち上がった。
目の前に車が止まり、すぐに開いた運転席の窓の向こうから心配そうなコータ先輩の顔が現れる。
「大丈夫か?」
「風邪っぽい」
問いにそう答えて助手席の方に回ると、コータ先輩が中から助手席の方へ手を伸ばして、ドアを開けてくれて――…車に乗り込む間際、何気に見上げた校舎。
私の目に飛び込んだのは、二階の教室の窓から腕を少し外に出し、こっちを見ている直人の姿。
……ねぇ、直人?
私はこの時、あなたに何が起こっているのか知りませんでした。
それと同時にあなたも私に何が起こっているのか知りませんでした。
もしも未来が見えていたなら、私は違う結果を選んでいたでしょうか?
あなたは今、現状に満足していますか?
あなたは私との未来を夢見たことがありましたか?
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