招かれざる客③


 呟いた次の瞬間には私は走り出していた。



 見間違いなんかじゃないと確信していた。



 突然走り出した私の背後から、「おい! どうした!?」とコータ先輩が叫ぶ。



 それでも私はそれを無視して必死に走った。



「杏子!」


 人混みの中、私の叫びは杏子には届かない。



「杏子!!」


 前に進みたいのに人が邪魔で上手く進めない。



「やだ! やめて! 杏子!!」


 叫びながら杏子と男の人たちから目を離さず走る私は、通り一つ分の距離がこれほどまでに遠いのかと思った。



 杏子を無理矢理車に乗せようとしていた男の人が暴れる杏子の頬とお腹を殴り、その瞬間、必死に抵抗していた杏子がぐったりとして動かなくなる。



「やめて! 杏子! 杏子!!」


 車に向かって泣き叫ぶ私の視線の先で杏子が車に乗せられる。



 そして、人にぶつかり、転びそうになりながら必死に走る私を尻目に、男の人たちが全員車に乗り込んだ。



「待って!! 行かないで!!」


 そう叫んで車に近付いた時、車は無情にも走り出し、



「待って!!」


 夢中で追い掛ける私の存在なんて気付きもしないで車はどんどんと加速していく。



「待って! 待ってぇぇ!!」


 小さくなっていく車のテールランプに泣き叫ぶ私の声は周りの騒音に掻き消され、数百メートルほど追い掛けた時、何かに躓き勢いよく転んだ私は、



「やだ! やだ!! やだぁ!!」


 その場で泣き崩れることしか出来なかった。だけどすぐに後ろから足音が聞こえ、



「おい! どうした!!」


 その声に顔を上げると、そこには私を追い掛けてきたコータ先輩がいて、私はコータ先輩にしがみ付き、泣き叫びながら小さくなる白いバンを指差した。



「コータ先輩! あの車止めてぇぇ!!」


 私の言葉にコータ先輩はすぐ携帯電話を取り出してどこかに電話を掛け始め、



「――もしもし、俺だ。白バン持ってる奴全員に連絡しろ。あと他の連中にこの界隈にいる白バン全部止めるように言え。今すぐだ」


 そう言って携帯から少し顔を離して泣き崩れる私の前にしゃがみ込むと、「何があった? あの車に何された?」と、取り乱す私を宥めるように優しく聞いてくる。



「杏子が……無理矢理連れてかれた……」


 泣きながらそう訴える私に、コータ先輩は「分かった」と携帯を耳に戻し、



「樹里のツレの女がさらわれた。女さらった白バン探せ。絶対ぇ見つけて連絡して来い」


 それだけ言って電話を切った。



 アスファルトに突っ伏して泣き喚く私の腕を掴んで起き上がらせたコータ先輩は、そのまま私を抱き寄せ、



「大丈夫。絶対ぇ見つけてやるから」


「もう何かされてるかもしれない!」


 私は、その腕の中で泣き叫んだ。



 コータ先輩はそれからずっと泣き続ける私の頭を「大丈夫だ」と撫でていてくれて、私はその言葉の通りであってほしいと願うしか出来なかった。



 コータ先輩の携帯が鳴ったのは、それから十分ほど経った頃だと思う。



 私の体感では一時間にも二時間にも思える時間だった。



 携帯の音にハッと顔を上げた私の頭を撫でながらコータ先輩は電話に出ると、



「――もしもし。あぁ。……そうか。分かった。相手は? あぁ。そのままにしとけ」


 そう言って電話を切る。



 そして、「……見つかった……?」と切実な思いでコータ先輩の顔を見上げた私に、「見つかった。大丈夫、まだヤられてねぇ」と優しく笑い、



「今、杏子をクラブに連れて来てるって。気ぃ失ってるらしい。とりあえず行こう」


 そう言って私を立たせ、路地裏のクラブに連れていった。



 クラブに着くとコータ先輩は奥のドアから階段を上がり、前にコータ先輩が寝泊りしていた部屋に入った。



 部屋のソファには杏子が寝かされていて、近付いた私はその顔を見て息を呑んだ。



 顔中がアザだらけになって唇の端も切れている。



 ぐったりとしている体に着ている服は乱れ、所々に血もついている。



 そんな杏子に駆け寄った私の目から、ポロポロと涙が零れ落ちた。



「杏子……」


 泣きながら杏子の顔にそっと触れてみても杏子はピクリとも動かず、



「……何で起きないの?」


 杏子の頬を撫でながら疑問を口にすると、コータ先輩は深い溜息を吐いた。



「薬、使われたらしい」


「……薬って何?」


「クロロフォルム。気ぃ失わせる薬」


「酷い! 最低!!」


 聞かされた事実に、コータ先輩は関係がないって分かっていても罵声を浴びせてしまった。



 八つ当たりだと分かっていても言わずにはいられなかった。



 何度も「最低!」と罵り、杏子の頭を抱きかかえたまま大声で泣く私に、



「とりあえず、家に……」


 コータ先輩はそう言って、杏子に手を伸ばす。



 だけど私はすぐにその手を払い除け、



「触らないで!!」


 泣き叫んだ。



 そんな私にコータ先輩は「あぁ、分かった」と言って少し離れた場所に移動する。



 そして私が泣き止むまでずっとそこで静かに立っていた。



「多分、明日まで目ぇ覚めないぞ。誰かに送らせよう」


 ようやく私が少し落ち着きを取り戻すと、コータ先輩はそう声を掛け、



「……ちん」


 私のその小さな呟きに、「何?」と聞き返した。



「ヨウちん呼んで……」


「……誰?」


 少しの間を置いて惚けたことを言うコータ先輩に振り返った私は、私がたまに会いに行っている相手がヨウちんだということをコータ先輩は分かっていると確信していて、



「ヨウちんを今すぐここに呼んで!」


 そのヨウちんがどこにいるのかをも知っていると確信していた。



 案の定、何もかもを分かっているらしいコータ先輩は、私の叫びに「……分かった」と言うと、携帯を手にして部屋を出ていく。



 そしてほんの二十分ほどでヨウちんを連れて戻ってきた。



 部屋に入ってきたヨウちんは、突然コータ先輩に呼び出された所為か緊張した顔をしていけど、私と杏子を見るとすぐに駆け寄り、



「……杏子どうした?」


 杏子の顔を見て声を強張らせた。



「繁華街で……無理矢理男の人に……」


「マジかよ……」


「でも何もされてない……。薬で眠らされてるだけだって……」


「そうか……」


「杏子、何でこんなトコに来たの……っ」


「多分……樹里ちゃんに会いに……」


 また泣き出した私に、ヨウちんは言いづらそうにそう呟き、「……え?」と私が驚きに顔を上げると苦笑いを見せる。



「この間、うっかり杏子の前で樹里ちゃんの話したってケンが言ってた」


 更に言いづらそうにそう答えたヨウちんから杏子に視線を戻した私は、



「……私の所為……?」


 どこまでも人に迷惑を掛ける『私』という存在を恨んだ。



「いや、樹里ちゃんの所為じゃないよ」


 遠慮がちに私の肩をポンポンと叩くヨウちんの言葉は気休めにもならず、



「ごめんなさい……杏子……ごめんなさい……」


 止まらない涙を流し続け、謝ることしか出来ない私は、



「……ヨウちん、杏子を……連れて帰ってほしいの……」


 決めていたことを早く実行した方がいいと思い、そう口にした。



「俺が?」


「うん。そのために来てもらった……」


「いや、俺が連れて帰るのはいいんだけど。……樹里ちゃんは?」


「私は行かない」


「でも……」


「車出してもらえるように頼むから。ケンちゃんたち呼ぶならそれでもいい。連れて帰ってあげて」


 そう言って立ち上がってコータ先輩に近付くと、コータ先輩は目の前で足を止めた私の肩に腕を回す。



 私はコータ先輩に抱き寄せられながら、ヨウちんと杏子の方に振り返り、



「今日のこと……私のことは杏子に言わないで。ヨウちんが見つけたってことにしておいて。また私の所為で杏子がこんな目に合ったら困るから」


「……分かった」


 そう言って携帯電話を取り出すヨウちんを残し、クラブを後にした。





 ……ねぇ、直人?



 私の所為で傷ついたのはあなただけだと思っていました。



 私を心配して、危ない目に遭ってでも会いに来てくれる人がいるとは思いもしませんでした。



 この時の私は、何度人を傷つければ気が済むのかと、私がいることで誰かを傷つけているとしたら生まれてこなかった方が良かったんじゃないだろうかと、そんなことも考えていました。



 ……でも決してそうじゃない。



 そうだよね? 直人。



――あなたはいつか私が生まれて来て良かったと言ってくれるでしょうか?

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