重荷②


 いつしか私はコータ先輩と普通に話すようになっていた。



 敬語を使わず、まるで友達と話すかのように話し掛ける、友達とも恋人ともいえない奇妙な関係。



 その関係が心地好いと思い始めた頃、



「樹里、日に日に汚くなってねぇ?」


 不意にコータ先輩にそう言われ、買ってもらったジュースを自動販売機の横で飲んでいた私は、ふと指先に目を向けて、爪の中が真っ黒になっている事に気が付いた。



「あぁ……そう言えば一週間くらいお風呂入ってないや」


「汚ねぇなぁ、おい!」


「あ、でも毎日公園のトイレで体は拭いてるよ?」


「は? 何で公園?」


 私の言葉にゲラゲラと笑っていたコータ先輩は、途端に目を真ん丸くして、



「住んでるから」


「住んでるって、公園に?」


「うん」


「嘘だろ?」


「本当」


 驚きすぎて絶句してしまったらしく、私を見つめたまま動かなくなる。



 そんなコータ先輩を尻目に、グイッとジュースを飲み干した私は、空を見上げ、夜が明け始めた事を知り、そろそろ帰ろうと立ち上がって、お尻に着いた砂をはらった。



「そろそろ帰るね。またね、コータ先輩」


 そう言って振った私の手を、突然掴んだコータ先輩は、



「俺ん家来るか?」


 きょとんとする私をジッと見つめ、言葉を吐く。



 だけど私はその申し出に、有り難いとは思いながらも、首を横に振って断る気持ちを示した。



「あれだ……俺一人暮らしだし、気ぃ遣わなくていいぞ?」


「ううん。いい」


「何もしねぇよ」


 そういう意味で断った訳じゃないのに、コータ先輩の目は真剣で、



「行くぞ」


 私の返事を無視して、手を引っ張って歩き出す。



 本気で抵抗する気になれなかったのは、疲れていた所為かもしれない。



 もしくはこのまま連れて行かれるのもいいかもと、心のどこかで思っていたからかもしれない。



 自分の考えすら分からないくらいに私は疲れ果て、この生活に限界を感じいた。



 繁華街をいつもとは違う方向に歩いて行くコータ先輩は、十分ほど歩いた所にある八階建ての綺麗なマンションの前で足を止めた。



 マンションのエレベーターに乗り込み五階を押したコータ先輩は、ずっと私の手を握っていて、階に着き五〇二号室の前で止まると、ポケットから鍵を取り出しドアを開ける。



 1LDKのコータ先輩の部屋は、何もなくガランとしていた。



 キッチンとリビングが続いた広めの部屋には、冷蔵庫とテレビと小さなテーブル。



 リビングの奥にある部屋にはダブルのベッドが置かれ、ベッド近くの開けっ放しのクローゼットの中に、服が数着入っているだけだった。



 コータ先輩は、クローゼットの中からバスタオルとTシャツと短パンを出すと「汚ねぇから風呂入れ」と言って、それを差し出してくる。



 その言葉に従い、バスタオルと服を受け取ってお風呂場に行くと、



「俺、ちょいコンビニ行ってくるから」


 ドアの向こうからコータ先輩が声を掛けてきた。



「うん」と返事した直後、バタンと玄関のドアが閉まる音と、鍵の閉まる音がする。



 それを確認した私は服を脱いで裸になり――…洗面台の鏡を見てギョッとした。



 髪はベトつき、煤黒い顔の頬は扱け、目の下にはクマが出来ている。



 目はくぼみ、生気がなく、体は痩せ細って、アバラが浮き上がっていた。



――気持ち悪い。



 自分でもそう思ってしまう鏡に映る姿から、逃げるように浴室へと入り、すぐにシャワーのお湯を出した。



 久々のお風呂は気持ちよくて、熱いシャワーが疲れを少し取ってくれる気がした。



 髪を三回ほどシャンプーして、体もしっかりと洗い、さっぱりして浴室から出たのとほぼ同時に、ガチャガチャと鍵を開ける音と「ただいま」というコータ先輩の声が聞こえた。



「樹里いるか?」と、ドアの向こうから声を掛けられ、「うん」と返事をすると、ガサガサとビニール袋の音が聞こえてくる。



 そして、



「コンビニで下着買って来たから使えよ。ドアの前置いとくぞ」


「ありがとう」


 そう返事をするとコータ先輩の足音がリビングの方へと歩いて行き、ソッと脱衣所のドアを開けると、廊下に新しい下着が置いてあった。



 袋から出してみると、それはクマさんのバックプリントがある子供用のパンツで、思わずプッと吹き出してしまった私は、それが久々に笑った瞬間だと気付き、何だか胸がほっこりとした。



 お風呂に入ったってだけで笑う余裕が出てきたんだと、コータ先輩に感謝しながら子供用のパンツを穿き、借りた服を着てリビングへ行くと、コータ先輩は小さなテーブルの上に何種類ものコンビニ弁当を並べていた。



「樹里、どの弁当がいい?」


「お腹すいてない」


 お弁当を指差しながらされた質問に答えると、



「食えよ。お前痩せすぎ」


 コータ先輩は一番小さなお弁当を差し出し、私をテーブルの前に座らせる。



 食欲はないけど、折角買ってきてくれたんだから無碍に断る訳にもいかず、言われるままにお弁当を開けた私は、それでもお風呂に入ってリラックスした所為か、数分もしない内にウトウトし始めた。



「樹里、眠い?」


 コータ先輩のその声を、意識の遠くの方で聞いた気がする。



「うん……」と夢うつつに返事した私を、コータ先輩が抱えてベッドまで連れて行ってくれたのは、夢ではないと思う。



 ベッドに寝かせて布団を掛け、「おやすみ」と言ったコータ先輩に何て答えたかは覚えていない。



 私はすぐに意識を失い、夢の世界へと入っていった。



 久々に布団で眠ることの気持ちよさに、今までの疲れが癒されていくようで、私は夢も見ずただただ深い眠りに就き――…目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。



 一瞬、自分のいる場所がどこなのか分からず、重い頭をブンッと振って、ようやくコータ先輩の部屋に来ていることを思い出し、



「……コータ先輩?」


 暗闇の中で呼び掛けてみたけど、返事はなかった。



 とりあえず電気を点けようと、ベッドから出て立ち上がろうとした矢先、足元にあった何かを思いっきり踏ん付けた私は、安定感を無くして勢いよく床に転んだ。



 それと同時に部屋の中に大きく響いたのは、



「いってぇぇぇ!!」


 コータ先輩の声。



 私が踏ん付けたのはコータ先輩の足だったらしく、「ごめんなさい」と慌てて頭を下げると、コータ先輩は「あぁ、大丈夫。びっくりしただけだ」と言いながら、暗い部屋の中を動き、電気を点けた。



 途端に部屋がパッと明るくなり、そのまぶしさに目を細めると、コータ先輩はフッと笑ってタオルケットを体に巻き付け床に座る。



 その顔は、まだ半分寝ぼけてるって感じで、



「床で寝てたの?」


「あぁ」


 問いに返ってきた声も、半分寝ぼけたようなものだった。



「ごめんなさい。ベッド取っちゃって」


「いや、いいよ。寝たの今さっきだし」


 コータ先輩はそう言って立ち上がるとリビング行き、お茶のペットボトルを持って戻ってきて、「喉渇いたろ」とそれを私に差し出しながら、もう一度床に座り直す。



 そして、差し出されたペットボトルのお茶を渇いた喉に流し込む私に、「気分どうだ?」と何故か苦笑交じりに問い掛けてきた。



「うん、すごくすっきりしてる」


「そうだろうな」


「うん?」


「樹里。お前、一日半寝てたんだぞ?」


「嘘!?」


「いや、マジで。俺、死んでんじゃねぇかと思って、何回も息してるか確かめたよ」


 楽しそうに笑うコータ先輩から、部屋に置かれている時計に目をやると、夜の十時を回っていて、私は一日半どころか、それ以上眠っていたらしく、自分にただただ呆れた。



「じゃあ、私そろそろ行くね。ご迷惑お掛けしました」


 いつまでもお邪魔してるのも悪いと思い、そそくさと立ち上がると、



「行くって繁華街?」


 コータ先輩は座ったまま私を見上げ問い掛けてくる。



 その問いに「うん」と答えると、「俺も行くわ」とコータ先輩は立ち上がり、クローゼットから服を出して着替え始め――…その足元近くには、一昨日まで着ていた私の服が、洗濯されて置かれていた。



 着替え終わったコータ先輩と繁華街に行くと、すぐに「コータさん!」と人混みの中から声が聞こえ、足を止めた私たちの方に男の人が走ってくるのが見えた。



 男の人が駆け寄ってくると、コータ先輩は少し鬱陶しそうな目を向け、「何だ?」と低い声を出し、



「ちょっとヤバい事なっちゃって……来てもらえませんか?」


 息を切らすその人の言葉に、「あー」と小さく声を漏らすと、隣にいた私にチラリと目を向ける。



 そして、



「樹里、ちょっと待っててくれるか?」


「うん。いいよ」


 そう返事した私を、近くにあったショップの階段に座らせた。



「ここで待ってろ。絶対ぇ動くなよ?」


「うん」


「もし変な奴らに声掛けられたら、でっけぇ声で叫ぶんだぞ?」


「うん」


 諭すように言葉を口にしたコータ先輩は、私の頭をポンッと軽く叩き、男の人と人混みに消え、一人になった私は、人で溢れ返る通りをぼんやりと見つめながら、どこからこんなに沢山の人が集ってくるのかと不思議に思っていた。



 そんな私に、



「……樹里ちゃん?」


 突然人混みの中から声が掛けられたのは、コータ先輩がいなくなってしばらく経ってからのこと。



 声の主が誰だろうとキョロキョロと辺りを見渡すと、人混みを掻き分けこっちに向かって走ってくる、懐かしいケンちゃんの姿が見えた。



 その姿を見て、逃げ出そうかと思ったのは、ほんの一瞬だった。



 今更逃げ出したところで意味はないとすぐに悟り、近付いてくるケンちゃんをジッと見ていた。



「樹里ちゃん! こんなとこで何やってんだよ!」


 ケンちゃんは、私に近付くと困惑した声を出し、



「直人の家に戻ってないんだろ? 今、どこにいる? みんな心配してるよ?」


 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。



 だけど私は何も言わず――何をどう言えばいいのか分からず――ただ黙ってケンちゃんを見つめていた。



 答えない私に、ケンちゃんはふぅと息を吐いて、目の前にしゃがみ込み、



「あのさ、樹里ちゃん。直人と別れたの聞いたけど……。あの時、直人色々あったからさ」


「……色々?」


 ようやく口を開いた私に、「うん」と相槌を入れ、私の知らない話を教えてくれた。



「あの時アイツ、樹里ちゃんを家に置いとくためにバイトしててさ。ちょうどそん時、地元がゴタついて、ややこしい事なってて……。その所為で直人バイト終わりに朝まで他の奴らと色々しなきゃいけない事あってさ……」


「……私のため?」


「うん?」


「直人は、私のためにバイトしてたの……?」


「そうだよ。樹里ちゃん食わせなきゃって。直人の親、樹里ちゃんの分くらい大丈夫だって言ったのに、俺が樹里食わせるんだって言って……」


「本当に……?」


「うん」


 ケンちゃんの返事に、目から溢れ出したのは後悔の涙。



 初めて知らされた事実に、嗚咽と後悔が湧き上がってくる。



 私は直人に何て言った?



 構ってくれなくて寂しいって言った?



 私のこと分かってないって言った?



 直人はその言葉を、どんな気持ちで聞いてたの?



 頭の中に巡るのは、今更押し寄せてくる罪悪感。



 どうしようもない後悔の波に飲み込まれて、痛感するのは直人を傷つけ、酷いことを言った私が、直人の重荷でしかなかったこと。



「俺、今ちょっと急用で行かなきゃいけないんだけど、電話して? 絶対だよ?」


 膝を抱えて泣き崩れる私を気遣うケンちゃんの声にも顔を上げず、ケンちゃんがいなくなった後も、私はずっとその場で泣き続けてた。



 悔やんでも悔やみきれない自分の言動に、時間を経つのも忘れてただただ泣き続けていた。



 結局、どれくらいそこで泣いていたのか分からない。



 時間の感覚さえなくなり、頭上から「樹里?」とコータ先輩の声が聞こえても、それを無視して泣き続けた。



 コータ先輩は何があったのかは聞かず、「とりあえず帰ろう」と腕を掴み、私をマンションに連れていくと、ベッドに座らせ、泣き止むまで何時間も黙って傍に座っていた。



 そして涙が収まり始めた頃、



「樹里さ? また公園に行くなら、ここに住むか?」


 静かにそう呟き、頭を横に振る私に「行くとこあるのか?」と優しい声を聞かせた。



「……ないけど……」


「じゃあ、ここにいればいい」


「……いい。公園行く……」


「何もしねぇよ。つーか、俺あんまここ使ってねぇし」


「もう……誰にも……迷惑掛けたくな……」


「公園に寝られる方が迷惑なんだけど?」


 コータ先輩は、小さく笑って私の頬に触れ、



「ここにいたら、俺も安心だし。ここにいろよ」


 流れる涙を静かにぬぐった。





 その手の温かさにまた直人を思い出し、私は再び――泣いた。

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