新しい生活②
「あれ? 直人来てんじゃん?」
着いた溜まり場の階段の下に置いてある直人の原付をすぐに見つけた杏子は、それを指差し私に目を向けた。
来るって話は聞いてなかったと思いながら、「みたいだね」と答えて階段を上り溜まり場のドアを開けると、途端に部屋の中にいたみんなの会話がピタリと止まる。
明らかに違和感のある雰囲気に、どうしたのかときょとんとすると、「よぉ」と何事もなかったかのようにケンちゃんが声を掛けてきた。
――聞かれたくない話でもしてた?
雰囲気から察する状況に腑に落ちないながらも、敢えて何も言わずに入り口で靴を脱いでいると直人が近付いてくる。
そして直人は目の前まで来て足を止め、
「今日、バイト休みなの?」
「あぁ、ちょっと……休みにしてもらった……」
私の問いに歯切れ悪く答える。
その歯切れの悪さが気に入らない私は、「そう」とだけ言って窓際に向かい、ピンクの座布団に座ってコンビニの袋からジュースを取り出そうとした――途端に、直人にコンビニの袋を引っ手繰られた。
「お前、あそこのコンビニ行ったのか?」
コンビニの袋を見つめる直人の声は低くて、
「うん」
「行くなって言ったろ!」
「一人じゃない。杏子と一緒だった」
「女二人で行くとこじゃねぇだろ!!」
「直人、ごめん! アタシが誘った」
尋常じゃない直人の怒りに、杏子が口を挟む。
その言葉に、直人は私から杏子に視線を移し、「何もなかったろうな?」と、あからさまに睨み付けた。
「うん。大丈夫。……コータ先輩に会ったけど……」
「マジかよ……」
少し言い辛そうに口にした杏子の言葉に、その場にへたり込むように座った直人は、事態が把握出来ず、どうして直人がそんなに怒っているのかも理解出来ない私に、視線を戻す。
そして、
「……コータ先輩に何かされた?」
「ううん」
「樹里、いいか? あそこのコンビニは二度と行くな」
「……分かった」
私がそう返事をすると黙ってコンビニの袋を返し、ケンちゃん達の方へ戻っていった。
それから直人はずっとケンちゃん達と話をしていて、こっちに来るどころか私の方を見る事もなく、ようやく直人が腰を上げ近付いてきたのは陽が暮れた頃。
「樹里。俺、今日ちょっと用事あるから先に家送ってく」
直人はそう言うと、返事も聞かずに私の鞄を拾い上げ、
「杏子も今日は帰れ。送ってく」
きょとんとしている杏子にはケンちゃんが近付き、私達は訳が分からないまま部屋の外に連れ出された。
それから直人は無言のまま私を家の前まで送り、「遅くなると思うから、先寝てて」と、すぐにどこかへ行ってしまった。
結局その日、直人が帰って来たのは朝方の事。
白々と夜が明け始めた頃に戻ってきた直人は、何も言わずすぐに眠りに就いた。
その日を境に直人は毎日深夜まで帰って来なくなり、何をしてるのか聞いても、「バイトが忙しい」としか言わず、私は一人きりの夜を過ごし続け、すれ違った生活のまま三学期が終わった。
春休みに入ると直人は更に忙しそうで、朝「バイトに行く」と家を出て、帰ってくるのは次の日の朝方。
それから数時間寝て、またバイトに行き、たまにバイトが休みの日にも、昼過ぎに起きて一人でどこかへ出掛ける。
直人の顔は日に日に疲れからやつれていき、春休みが終わる頃にはすっかり痩せこけていた。
新学期が始まると二年生になった私達とは違い、三学期中ずっと学校に来なかったヨウちんが留年した。
それでもヨウちんは学校に来なくて、何をしているのか誰も教えてくれなかった。
クラス替えでは直人と一緒のクラスになりたいと思っていたけど、結局別々になってしまい、その代わり――というのも変だけど、ハルと同じクラスになった。
だけど何より嬉しかったのは杏子とまた同じクラスになれた事で、新学年初日の席替えで、私と杏子は前後に並んで席を取れた。
「紺野さんってさ? 一年の時ちょくちょく休んでたよね?」
休み時間に杏子と話していた私に、そう声を掛けてきたのは隣の席の男の子。
まだ名前も知らないその男の子は、スポーツマンといった感じで、筋肉質な体に、短い髪のその毛色は少しだけ、褪せたように茶色かった。
男の子の突然の問い掛けに、「だから?」と凄んだのは杏子で、
「あ、いや。だから何って訳じゃなくて、体弱いのかなって思って……」
その迫力に押されたのか、男の子はしどろもどろに答えて目を逸らす。
その言動が可笑しくて、「うん。でももう平気だから」と笑って答えた私に、「そっか」と照れ臭そうに頭を掻いた男の子は、坂井という名前だった。
私も杏子も気付かなかったけど、坂井君は一年生の時も私達と同じクラスだったらしく、隣の席って事もあって、それからちょくちょく話し掛けてきてくれるようになった。
最初は話し掛けてくる坂井君をウザがってた杏子も、いつの間にか坂井君と普通に話をするようになって、直人達以外の男の子と話すのが初めての私には、坂井君との会話がとても新鮮だった。
その頃の私は、あの日からずっと直人に構ってもらえない寂しさから、学校に行く事だけが楽しみになっていた。
学校に行けば杏子に会える。
一人寂しい思いをしなくて済む。
その上新しい友達も出来たお陰で、家にいた頃とは違う意味で学校に依存し始めていた。
そんなある日。休み時間にトイレから教室に戻ってくると、私の教室の前に直人がいて、ハルと教室の入り口から中に目を向けながら何かを話していた。
直人に声を掛けようとして近付くと、
「どいつ?」
「あそこの、後ろの席に座ってる茶色い短髪の奴」
聞こえてくる二人の会話。
そして声を掛ける間もなく直人は教室に入っていき、嫌な予感がして慌てて後を追い掛け教室へ入ると、直人は既に座っている坂井君の目の前に立っていた。
「何?」と、目の前にいる直人を見上げる坂井君を、
「人の女にちょっかい掛けてんじゃねぇよ」
直人は低い声を出し、睨み付ける。険悪なその雰囲気に私は急いで直人に駆け寄り、
「話すくらい別にいいじゃん」
「よくねぇよ」
「直人、やめて!」
坂井君の胸倉を掴んで殴り掛かろうとした直人の手を間一髪で止めた。
そんな私を直人は睨み付け、坂井君に視線を戻して顔を近付ける。
そして威圧的な低い声で「今度、樹里にちょっかい出したらぶっ殺すぞ」と言葉を発すると、坂井君を掴んでいた手を離し、呆然とする私を教室から連れ出した。
「お前、何してんの?」
廊下に出た途端に直人が発する声は低く、「え?」と聞き返す私の目の前で壁に寄り掛かって気だるそうに立ち、目を細めて睨んでくる。
「何、他の男とイチャついてんだよ」
「そんな事してない」
「してんだろ? ハルからちゃんと聞いてんだよ」
「してない」
そんなつもりが一切なかった私は、そう否定する事しか出来ず、
「お前さ? 俺がどんな気持ちでいるか分かってる?」
冷たく言い放たれた直人の言葉に、血の気が引いた。
分からない。直人の気持ちは分からない。
毎日何をしているのかも分からないし、どうして私を放っておくのかも分からない。
ずっとずっと一人にされて、一緒にいる時間なんて殆どなくて、それでも何を聞いても答えてくれない直人の気持ちなんて分かる訳がない。
「……直人だって、」
「は?」
「直人だって、私の気持ち分かってないでしょ?」
「何だ、それ?」
言葉と同時に直人に眉間にシワが寄る。
その表情にムカついた私は、
「毎日ほったらかしにされて、私が寂しいって分かってないじゃん!」
思わず大きな声を出してしまった。
「お前、何言ってんの? それ、マジで言ってる?」
「だってそうじゃん! バイトばっかりで全然構ってくれないし、休みの日だって私置いて出掛けちゃうじゃん!」
言うつもりはなかったのに言ってしまった私の言葉に、直人は大きく溜息を吐き、
「マジうぜぇ」
面倒臭そうに呟いて、自分の教室の方へ歩いていく。
その背中を追い掛ける事も出来ず、ただ見つめるしかない私の視界の中、直人はバコッとゴミ箱を蹴り飛ばし、その音が廊下に響いた。
その日から直人は家に帰って来なくなり、学校で会っても避けるようにどこかへ行ってしまい、声を掛ける事さえ出来なくなった。
直人は溜まり場にも来ない。
話したい。
直人を怒らせた事を謝りたい。と思っても、その願いは叶わず私は直人に無視され続けた。
――そして、それは起きた。
それは直人に避けられ二週間ほどが過ぎた時。
夜の九時を回った頃、溜まり場に直人が姿を現した。
直人は誰にも目をくれず、窓際に座る私の方へと歩いてくる。
久しぶりにまともに見た直人は凄く疲れた顔をして、
「ちょっと外で話出来る?」
そう声を掛けてきた。
問いに、「……うん」と返事をすると、直人はさっさと部屋を出ていき、私はその後を追って部屋を出た。
直人は黙ったまま階段を降り、自分の原付に腰掛けて私に目を向ける。
夜の風に直人の髪が揺れ、ザワザワと胸騒ぎがする。
嫌に静かな夜だった。
言葉を発しない所為で生まれる静寂に、お互いの息遣いだけが僅かに混じる。
永遠にこのままなのかと――沈黙の時間が続くのかと――思ったそれは、直人の一言で破られた。
「……俺ら、別れよう」
途端に目の前が真っ暗になり、直人の言葉が頭の中をグルグルと駆け巡る。
「な……んで……?」
搾り出した声は微かに震え、
「ごめん……俺、無理だ……」
俯き告げられた言葉に、眩暈がする。
突然の出来事について来ない思考。だけど体は反応して、
「――やだッ」
両手が直人の腕を掴んだ。
「やだ、直人! 別れたくない! ごめんなさい! 謝るから! お願い! 別れるとか言わないでッ」
溢れる涙を拭う事さえしないで、直人の腕にすがりつく私は必死だった。
格好が悪いほどに必死だと分かっていても、直人を手放したくないと思ってた。
――だけど。
「ごめん……俺……疲れた……」
返ってくる直人の声は低く小さい。その声が静まり返った工場地帯に響き――…でもそれは決して工場地帯に響いたのではなく、私の頭の中に響いただけだった。
「……樹里、離して」
腕を掴む私の手を、直人が離させようと握ってくる。
「樹里……」
だけど私は離すまいと更に手に力を入れた。
「樹里、離せ……」
泣きながら必死に直人の腕を掴む私は、
「樹里!!」
四度目の直人の声にゆっくりと手を離した。
手の平から直人の温もりが零れ落ちていく。今の今まで感じていた温もりが消えていく。
――嫌だよ、直人……。私を捨てないで……。
「家には居ていいから……。俺が出ていく……」
そう言った直人の声は、遥か遠くから聞こえているようで、どうすれば直人を繋ぎ止められるのか分からない私は、その場に泣き崩れる事しか出来なかった。
そんな私の頭に、直人は躊躇いがち触れ、「樹里……ごめんな……」と寂しく悲しい声で呟く。
最後に聞く直人の声がこれなのかと思うと、どうしようもない程辛くなり、更に涙が溢れ出た。
地面に突っ伏すようにして泣く私の耳に聞こえる、直人が階段を上がっていく足音。
これが現実なのだと痛感し、直人が去ってしまう悲しさから身動き出来ず、そのままその場で泣き続けた。
少しして聞こえてきた足音は、戻ってきてくれた直人のものではなく、
「樹里!!」
杏子のものだった。
どのくらいそこで泣いていたのか覚えてない。
杏子にしがみ付き泣き続けた。
まだ出るのかと思う程の沢山の涙を流した。
――高校二年の初夏。私は直人を失った。
……ねぇ、直人。
あの頃私がもっとしっかりしていれば、私達は今もまだ幸せでしたか?
あなたの隣で笑っているのは、今でも私でしたか?
第一部 完
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