母という人間②


 溜まり場にいるみんなは、見た目が派手で素行が悪そうだけど、優しい人が多い。



「ヨウちん、雰囲気変わったね」


 最近やけに大人っぽくなった――ように思える――ヨウちんは、私の言葉に「ん? そう?」と少し驚いたような声を出す。



「うん。大人っぽくなった」


「マジ? 俺に惚れちゃった?」


 言いながら笑うヨウちんの横顔は、おどけているのに寂しそう。



 どうしてそんな表情をするんだろう――と、不思議に思う。



「俺に惚れないでね? 直人に殺されたくないから」


「うん。私は大丈夫」


「そのラブラブ感がうぜぇ。どうせ俺はモテねぇよ」


「ヨウちんの事好きな人いるよ」


 思わず言ってしまった言葉に、ヨウちんは一瞬黙り込み、



「俺になんか惚れない方がいい」


 スッ――と、顔から笑みを消し、雰囲気を変える。



 だけどその直後に、「なんてな」と笑ったヨウちんは、またいつものような雰囲気で、



――ヨウちん、どうかしたの?



 そう思っていても、何故か私はその言葉を口には出せなかった。



 人には言いたくない事がある。何となくそれを感じ取れる。



 そして何よりそれを聞いてはいけない気がした。



 虫の知らせと言うべきか、聞けば何かが変わってしまうような――…そんな気がした。



 だからそれから何となくヨウちんとの会話に詰まり、特に何も話さないまま溜まり場に向かった。



 着いた溜まり場で杏子が作って来てくれたお弁当を食べ、みんなと遊びながら直人が来るのを待っていた。



 だけど夕方になっても直人からの連絡はなく、来る気配もない。



 結局直人が姿を現したのは、すっかり陽も落ちた頃。



「悪い。遅くなった」


 息を弾ませ部屋に入ってきた直人は、すぐに私に近付いた。



「何かあったの?」


「あぁ、ちょっとな。とりあえず帰ろう」


 問いを軽く流して、直人は私の鞄を持つと、みんなに「明日、学校でな」とだけ言ってさっさと部屋を出ていく。



 だから私も慌てて杏子に「また明日ね」と手を振って、直人の後を追った。



 部屋を出ると、直人は既に原付にエンジンを掛けて待っていて、私が階段を降りて近付くと、直人は手を引き原付の後ろに乗せる。



 そして私の手を自分の腰に回させると、ゆっくりと走り出した。



 直人の家に向かいながら、私は気持ちの整理をしていた。決して言いたい訳じゃないけど――むしろ言いたくないけど――言わなきゃいけない言葉がある。



 それは、後回しにすればするほど言い辛くなると分かっているから、



「怪我治ったから、明日から家に戻るね。長い間ありがとう」


 家に着いて駐車場に原付を止める直人背中に、すぐに伝えた。



 私の言葉に、直人は原付を止め鍵をポケットに入れながら、「家、戻りたい?」と、聞き返してくる。



 それに対して私が言える事は何もなく、ただ黙って足元を見つめていた。



 戻りたい訳じゃない。でもだからって直人の所にずっと居られる訳がない。



 私は――戻らなきゃいけない。



「戻りたいのかよ?」


 二度目の問いにも、黙ったままの私に、



「……まぁ、いいや。とりあえず中入ろ」


 直人はそう言って私の手を取り、家の中へ入っていく。



 そしてそのまま直人の部屋に行き、私は制服を着替えると自分の服を紙袋に片付け始めた。



 その間、直人はベッドに腰を下ろしただ黙って私を見ていて、私はその視線に気付きながらも気付かない振りをした。



 一通り服を片付け終わった時、「飯食いに降りようぜ」と直人がベッドから立ち上がり、促されるまま直人と一緒に一階に降りた。



 リビングのドアを開けると、直人のお父さんは既に食卓に着き、ビールを飲んでいて、



「はいはい、座って」


 直人のお母さんが唐揚げの入った大皿を手に、台所から出てくる。



 私がいつの間にか定位置になった、直人のお父さんの前の席に座ると、直人は私の隣に座った。



 四人で食卓に着き、私にとって温かい家の最後の夕食が始まる。



 夕食を食べながら、明日からの事を思い一人憂鬱な気持ちになった。



 一度知ってしまった温かい家族の在り方を私は忘れる事が出来るんだろうか。



 何も知らなかった時のように、今までと変わらない生活が出来るんだろうか。



 そんな不安に苛まれ、明日からの恐怖を思い、重い気持ちで唐揚げを口に入れようとした時、



「樹里、家戻りたい?」


 突然言われた直人の言葉に、私は分かりやすく動揺して、挟んでいた唐揚げを落とした。



「バカか、お前は。話し方も知らんのか」


 それを見た直人のお父さんの叱咤に、直人は「ちっ」と舌打ちをする。



 私はとにかく落とした唐揚げを拾おうと、箸ではなく手で抓み――…



「あのね? 樹里ちゃん」


 箸を置いて私を見つめた直人のお母さんの言葉に顔を上げた。



「今日、あなたのお母さんが、うちにいらしたの」


「……え?」


 言われた途端に背筋が酷くゾッとした。



 まるで全身が凍り付いたかのように寒気がして、思考が追い付かない。



――母がここに……?



 意味も意図も分からず、戸惑う事しか出来ない私に、



「話せば長くなるんだけど……」


 直人のお母さんは言葉を選んでるという感じで口を開く。



 だけど結局その事を話してくれたのは、言葉を探す直人のお母さんではなく、



「直人が君をうちに置いておきたいと言ったんだ」


 直人のお父さんだった。



「君の家庭環境については、それとなく聞いてる。だけど、いくらそうしたいと思っても、こちらの一存で全てを決める訳にはいかないんだよ。分かるね?」


 真剣な直人のお父さんの声に黙って頷くと、胸に熱いものが込み上げてくる。



「それを直人に言ったところ、直人が君のお母さんと話をすると言ったんだ。それで君のお母さんにこちらに来て頂いた」


「……はい」


 絞るように出したその声は震えていて、



「どうする事が君にとって一番いい事なのかを、今日一日君のお母さんと話し合った。」


「……はい」


 握る両手も震えていた。



「正直、直人と君は若い。今二人は付き合ってはいてもいつ何があって別れる事になるかも分からない。そんな状況で君をうちに置いておく事が、本当に正しい事なのか分からない」


「はい……」


「それでもね。今君があの家に戻るという事は、君がまた傷つくという事なんだよ」

「……」


「今の時点では、君がここにいる事が、君にとって一番いい事なんだと結論を出したんだ。もちろん、一番の選択権は君にある。君がもし、家に戻りたくないと思うのなら、ここにいればいい」


「――…っ」


 目から零れ落ちる涙の理由は、家に帰らなくてもいいという安心感と、直人の家族の温かさから。



 今まで感じた事のない幸福感に涙が止まらない。



 樹里ちゃん?――と、泣いている私の手を握る直人のお母さんは――



「お母さんの事を恨んではダメよ? 今のあなたにとって、この方法が一番いいと、あなたのお母さんも思ったのよ? お母さん『申し訳ない』って泣いてらしたわよ? あなたを捨てた訳じゃないのよ?」



――更に泣けてくるほど温かかった。





 父親に暴力を振るわれる日々の中、いつしか母を親だと思わなくなっていた。



 むしろ、思わないようにしたのかもしれない。



 母を親だと思うと期待してしまう。



 助けてくれるんじゃないだろうか――と。



 守ってくれるんじゃないだろうか――と。



 親ならそうするものだろうから期待してしまう。



 でも母はそうしてはくれなかった。



 ただ泣くばかりで助けてはくれなかった。



 だから私はいつの間にか自分の中で割り切っていた。



――母を親ではなく、一人の人間として見るように。



 そういう人間なんだと思えば腹が立つ事も、期待する事もない。



「親だったら助けてよ」なんて事すら思わない。



 母を親だと思わず、そういう人間だと思えばいい。



――それでも。



 そう割り切っていても、時折思ってしまう。



 娘が殴られてるのを見て、何も思わないの?



 私は大事じゃないの?



 私がどうなってもいいの?



 そう――聞きたくなる。



 親じゃなくても、人間として私を助けようとも思わないのだろうか。



 目の前で殴られる私を見て、何も思わないのだろうか。



 そういう思いは日々募り、私はいつしか母の事を人間としても見下し始めていた。



 だけど直人の家に来て、直人の家族と話し合いをしてくれた事に、少しだけ母に人間らしさを見た気がした。



 全く私の事を考えていない訳ではないようで。



 それは他人に迷惑を掛ける事だけど。



 母の選んだ選択は、私を幸せにするものだった。



――母という名の人間は、少しは私の事を考えていてくれた。



 泣きじゃくっていた私の肩に直人が腕を回し抱き寄せる。



 そして私の頭の上に顎を載せ、



「樹里、どうしたい? 家に戻りたい?」


 優しく問い掛ける。その問いに、



「……戻りたくない……」


 そう呟くと直人は小さく「うん」と答えた。



 その後も中々泣き止む事が出来ず、止め処なく溢れてくる涙は――…それでも今までに流したどんな涙よりも清々しいものだった。



 嬉しくて、嬉しくて、こんなに幸せな気持ちは初めてで、こんなに幸せでいいのかと思ってしまう。



 だけどそれと同時に、この幸せがずっとずっと続きますように――と、心から願った。





 夕食を食べ終わってから、直人のお父さんとお母さんに何度もお礼を言って、部屋に戻るとすぐに私は、煙草を吸い始めた直人に抱き付き、



「直人、ありがとう」


 いくら言っても言い足りない感謝の気持ちを口にした。そんな私に、



「守ってやるって言ったろ」


 照れくさそうに笑った直人は、私の頭をクシャクシャと撫でると、煙草を灰皿に押し当て、私の体を抱き寄せる。



 そしてその腕にギュッと力が入れ、



「痛い?」


 耳元で囁いた。



「……ううん」


「樹里?」


「うん?」


「今日から一緒にベッドで寝ていい?」


「……うん」


 甘く囁かれる直人の声に頷くと、直人は私の体を自分の胸から離し、優しくキスをする。



 重なった唇から、直人の舌が口の中に入ってきて、ゆっくりとそこをかき回す。



 気持ち良くて頭の中がフワフワする。



 もっと、もっと――と思ってしまう。



 なのに直人はスッと唇を離し、私の両肩を掴むと自分の体から完全に私を引き離して座らせた。



 ベッドに寄り掛かって座っている直人に向かい合って座った私の左頬に、直人の右手が優しく触れる。そして今まで聞いた事のない、



「樹里からキスして?」


 極上に甘い声で囁く。



 全身が痺れるような囁きに、誘われるようにゆっくり近付ける唇が直人の唇に触れる。




 両腕を直人の頭を抱き締めるように回すと、直人は右手で私の後頭部を撫でてくれる。



 いつも直人がするように、少し口を開けて自分の舌を直人の口の中へ入れると、直人の舌の動きも私の舌に応え――…荒くなり始めた二人の息遣いがやけに耳についた。



 重ねていた唇を離すと、直人は私をベッドに持ち上げ、



「樹里……俺、もう我慢出来ない……」


 さっきまで重なっていた唇を、首筋に押し当てる。



 そして右手を服の裾から中に入れ、肌に直接触れる。



「どっか痛かったら言って……」


 そう言った直人の吐息は、湿っぽく――色気があった。





 ……ねぇ、直人?



 私があなたに抱かれたのは、ほんの数回だったけれど、私が思い出すのはあなたの肌の温もりだけです。



 あなたと抱き合えた時間を私は今でも大切にしています。

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