告白②


 始まりは、終業式に行っていた直人が帰ってくるなり口にした言葉。



「樹理、杏子限界だわ」


 言い辛そうに呟いた直人に、「え?」と聞き返した私は、その意味が分かっていた。



 この三日間、熱の所為で眠ってる事が多くて、杏子にメールの返事をしてない。



 直人には、「怪我が治ったら自分から杏子に説明したいから何も言わないで欲しい」とお願いしてるから、直人は杏子やケンちゃん達に黙っていてくれてる。



 それが逆に杏子を心配させてしまってるんだと、胸が痛んだ。



「杏子、樹里に連絡取れないって半狂乱になってる。アイツ、樹里が病気だと思ってるから」


「病気?」


「樹里しょっちゅう学校休んだり入院したりしてただろ? それが何かの病気の所為だと思ってて、『樹里、死んじゃうかもしれない』って毎日泣いてるってケンが言ってた」


 きっとこういう事を本末転倒と言うんだと思う。心



 配させないでおこうと思っての行動が、望んではいない余計な心配を生んだ。



――杏子に会わなくちゃ。今すぐ会って話さなきゃ!



「直人、溜まり場に連れてって」


 そう言って、ベッドから起き上がろうとした私の体を直人は手を伸ばし支えてくれる。



 そしてベッドに座った私から離れると、何も言わずに紙袋から私の服を取り出して部屋を出ていった。



 着替え終わると直人はすぐに私を外に連れ出してくれた。



 家の前には既にタクシーが停まっていて、それに乗り込み運転手さんに行き先を告げると、直人は携帯を取り出して電話を掛けた。



「もしもし、ケン? 俺。うん。いや、今そっち向かってる。うん。杏子来てる? あぁ。うん、分かった。じゃあな」


 そんな会話の後、電話を切った直人は、チラリと私に目を向ける。



 そして「杏子、来てるって」と一言言うとそのまま黙り込んでしまった。



 車内の静かなタクシーが工業地帯へ入っていく。



 溜まり場のある工場のフェンス前でタクシーを降り、直人に手を引かれてゆっくりと溜まり場に向かって歩く。



 プレハブの階段を直人に支えてもらいながら上がり、部屋の前に立つと急に――怖くなった。



 杏子は許してくれるだろうかと不安に思う。



 私の話を聞いてひいたりしないだろうかとも不安に思う。



 そして何より、今の私の姿を見たらみんなが気持ち悪く思うんじゃないかと怖くなる。



「大丈夫か?」


 押し寄せる不安から吐き気すら感じる私の手を強く握った直人に、



「――うん」


 覚悟を決めてそう返事をすると、私は直人の手を離した。



 まるで気合いを入れるかのように直人は私の肩をポンポンと軽く叩いてから部屋のドアを開ける。



 途端に中からみんなの話し声が聞こえてくる。



「おぅ、直人。久しぶりじゃん」


 直人に気付いた誰かの声に、「おぅ」と入口に立ったまま返事をした直人は、大きく開いたドアに背を付け、私に道を作ってくれた。



 深呼吸をして直人の前を通り中へ入る。



 入り口で動く人影に気付いたケンちゃんの目が向けられる。



 直後に合った私とケンちゃんの目。



 その目は直人のお母さんと同じように見開かれ、ケンちゃんは動かなくなった。



 そんなケンちゃんに気付いたみんなの視線が、次々とケンちゃんの視線を追い私に向けられる。



 そのみんなの反応もケンちゃんと同じで、私の顔を見つめたまま動かなくなる。



 重い沈黙に、溜まり場の空気が張り詰め始め、私は部屋にいるはずの杏子の姿を探し――見つけた。



 テレビの前。こっちに背を向け座ってる杏子は、まだ私に気付いていない。



 どう声を掛ければいいのか考えていた私に、助け船を出してくれたのは、ケンちゃんだった。



「……杏子」


 沈黙を破り、それでも私から目を離さずにケンちゃんが杏子を呼ぶ。



 呼ばれた杏子は「何?」と振り返り、ようやくみんなの視線に気付く。



 そしてみんなの視線の先へと杏子の視線が移動して――



「樹里!!」


――私の名を呼び立ち上がった次の瞬間、杏子は「ひっ!」と短い悲鳴を漏らした。



 私の顔を見た杏子が、口元を両手で押さえてその場に立ち尽くす。



 当然といえば当然の反応に、私は驚きもしなければ、ショックを受ける事もなかった。



――ただ。



「杏子以外、みんな出て」


 静まり返った部屋の中に響く直人の声に従い、何も言わずゾロゾロと部屋を出ていくみんなに、すれ違い様にジロジロと好奇の目で顔を見られるのが辛かった。



 みんなが出ていってから、ケンちゃんやヨウちん達も立ち上がって部屋を出ていこうとする。



 だけど、杏子だけじゃなくケンちゃん達にも話しておこうと思った私の、「ケンちゃん達は居て」という言葉に、ケンちゃん達は静かに座り直した。



 部屋の中は、私と直人と杏子とケンちゃん達だけ。



 靴を脱いで、杏子に近付き、「……杏子」と小さく呼び掛けると、杏子はハッと我に返ったかのように小さく体を震わせる。



 だけどその顔は青ざめたまま。



 目の前で足を止めた私の右頬に、杏子はゆっくりと手を伸ばし、



「……樹里……どうしたの……?」


 青紫色に変色した私の頬に触れ、声を震わせる。



「うん。話すから座って」


 座るように促した私の言葉に、杏子はまるで腰が抜けたかのようにペタンと座り込む。



 その前に私も腰を下ろし、大きく息を吸い込んだ。



「ずっと……黙っててごめん」


 神妙な面持ちの杏子。杏子の右斜め後ろに座るケンちゃん。



 その周りに座るハルやコウやヨウちん。みんながみんな私の声に耳を傾ける。



 だけど直人だけは少し離れた入り口近くの壁に背を付けて座り、俯いたまま顔を上げようとはしなかった。



「父親が……アルコール中毒で……」


 そう言った途端に、喉の奥から熱いものが込み上げてきて、鼻の奥がツーンとする。



 目頭が熱くなり、無意識に声が震える。



 自分ではどうにも出来ない現象に、それも仕方ない事なのかもとすぐに諦めた。



 初めて――だった。この日まで父親の話を誰にもした事がなかった。



 病院でも学校でも、お医者さんや先生に事情を説明するのはいつも母で、私はその事実を一度も口にした事はない。



 口に出したくなかった。



 口に出してしまうと全てを認めてしまう事になる。



 自分が父親に何をされているのか。



 自分がどんな目に遭っているのか。



 口に出すという事はそれを認めてしまう事のように思えた。



 認めてない訳じゃない。分かってる。



――これが現実だという事を。



 それでも心のどこかで認めたくないという思いがあった。



 恥ずかしくて知られたくない。



 悔しくて知られたくない。



 怖くて知られたくない。



 知らせた所で誰も私の気持ちなんて分からない。



 中途半端な同情も、中途半端なアドバイスもいらない。



 例えば私が父親に暴力を振るわれていると警察が知って父親を逮捕したら、私はそれから父親が死ぬまでずっと父親の報復を恐れなければいけない。



 父親はそういう人だ。そう考えただけで気が狂いそうになる。



 私が友達も作らず、頑なに事実を隠していたのは、強さではなく弱さだった。



 でも今は違う。



 怖くない訳じゃないけど、それよりももっと大切な――父親への恐怖に打ち勝つ思いがある。



 だから私は溢れ出した涙を拭い、もう一度深呼吸をして真実を話し始めた。



「私の父親、お酒を飲むと暴れちゃって。小学五年くらいから父親に殴られるようになっ……。中学の時とかも、何回も入院して……顔とか平気で殴る人だから、アザとか出来ると学校行けないし……。高校に入ってから、学校休んだり入院してたのもその所為なんだけど……」


 止め処なく流れ出す涙に、言葉切れ切れになる。



 部屋の中は重苦しい空気で、みんな何を言っていいのか分からないという感じだった。



「変な時間に帰ると、父親起きてるからいつもここで夜中まで時間潰してたんだけど、三日前、家に帰ったら父親が起きてて、また殴られて。その時ちょっと酷くて……たまに凄く酷い時があるんだ。それで、大袈裟かもしれないけど、私……死ぬと思っちゃって。逃げたの。でも大怪我しちゃって、熱出たりしてたから、杏子に連絡出来なかったの……」


 そこまで話して噛み締めるのは、父親に暴力を受けているという悲しみ。



 置かれている境遇に情けなさすら感じ、更に涙が溢れてくる。



「……黙っててごめんね、杏子」


 声を絞り出しそう告げた――刹那、柔らかい温かさが私の体を包み込んだ。



 直後に耳元で聞こえる、「うわーん」という杏子の泣き声。



 私を抱き締める杏子の全身が震えてる。



「ごめんね……」


 杏子の肩に顔を埋め、呟くように言った私に、



「すっごい心配したんだからぁ……」


 杏子は嗚咽と共に言葉を吐き出した。



「うん……ごめんね……」


「ア、アタシ、樹里が、病気なのかと、思って、いっぱい、学校、休むし、樹里、死んじゃうんじゃ、ないかって、し、心配、で、――…ッでも生きてて良かった!」


 耳元からの嗚咽にまみれる杏子の声と温もりに、初めて友達の温かさを知り、杏子がいてくれて良かったと心から思えた。



 それから二人でしこたま泣きじゃくり、すっかり涙が枯れた頃、


「……そういえば、何で直人と来たの?」


 杏子が不思議そうに口を開き、首を傾げた。



 その言葉に、ケンちゃん達の視線が直人に向けられる。



 その目は興味津々といった感じで、



「あぁ、付き合ってっから」


 当たり前のように答えた直人の言葉に、「えぇ!?」というみんなの驚いた声が部屋に響き渡った。



「いついつ!?」


「マジかよ!?」


「何がどうなった!?」


「いつの間に!?」


 一斉に浴びせられる質問に、直人は笑っているだけで何も答えない。



 その所為で質問の対象が直人から私へと移り、



「いつ、何が、どうなったの!?」


 杏子はさっきまで泣いていた事すら忘れたように、目をキラキラさせて詰め寄ってきた。



「父親に殴られて逃げた時に、直人が助けに来てくれて――」



――あれ……?



 説明の途中で頭に浮かんだ疑問は、あの時助けてくれた直人の行動。



 どうしてあの時、帰ったはずの直人があそこにいたのかを不思議に思った。



 だから。



「直人、何であの時あそこにいたの?」


 直人の方に振り向いて疑問を投げかけると、煙草を吸っていた直人は焦ったようにブッと煙を噴き出し、見る見る内に顔を真っ赤にした。そして、



「何となく……帰れなかったんだよ……」


 耳まで真っ赤にした直人が、唇を尖らせそう口にすると、「ストーカーかよっ」とケンちゃんが突っ込み、みんなが大笑いした。



 みんなに笑われて恥ずかしそうに立ち上り、私に近付いてきた直人は、「そろそろ帰るぞ」と、腕を掴んで私を立ち上がらせる。



「また熱出されちゃ困る」


 そう言った直人に支えられ、「連絡するね」と杏子に言って部屋の入り口へ歩き出した私の背中に、



「ちょちょちょっ、ちょっと待って! 何で一緒に帰るの!?」


 杏子の驚いた声が追い掛けてきた。



 その問いに、



「俺の家にいるから」


 直人はサラリと答えて部屋を出る。



 直後に聞こえた「えぇぇ!?」というみんなの驚きの声は、ドアを閉めても尚、はっきりと漏れてきていた。



 階段を降りてフェンスを潜ると、直人は携帯でタクシーを呼んでくれて、タクシーを待つ間、直人はまた黙り込んだ。



「……直人、何か怒ってる?」


「え? 何で?」


 コンクリートの低い塀に座らされた私の問いに、隣で塀に寄り掛かって直人は驚いた顔で私を見つめた。



「行きもだったけど……ずっと黙ってるから」


「あぁ……」


 小さく呟いた直人は、俯き塀から体を離すと私の目の前に立つ。



 丁度私の顔の辺りに、俯く直人の顔があり、直人は両腕で私の体を挟むようにして、両手を両側についた。



――顔の近さにドキドキする。



「俺さ、病院行った日に樹里のお母さんと野村さんに、樹里が親父さんに暴力振るわれてるって話、聞いたんだ」


「……うん」


「だから知ってたんだけどさ。やっぱ・……樹里の口から聞くと辛いわ」


 そう言って、顔を上げた直人の優しい瞳が私を見つめ、その肩にソッと頭を乗せると、直人の香りがした。



「これからは、俺が守ってやるから」


 そう囁いた直人の声が、耳元で優しく響いた。





 ……ねぇ、直人?



 私を守ると言ってくれたあの日の言葉を、私は今でも忘れていません。



 今でも思い出すのは、あなたの温もりと優しい言葉達です。

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