彼女②


 直人に杏子の話を聞いた翌朝、教室に入った私は、「おはよう!」と手を振る杏子を見て、すぐに直人から聞いた話を思い出した。



 入学して一ヶ月、陰で色々言われて一人で寂しい思いをしていた杏子を思うと、とても可哀想に思う。



 どんな気持ちだったんだろうと考えただけで辛くなる。



 でも今は私がいる。もう杏子が寂しくならないようにと心から思う。



――屈託のない、この愛おしい笑顔を曇らせたくないと思う。



 同情からじゃなく、心からそう思う私は、「おはよう」といつもより大きな声を出して席に着く。そんな私に駆け寄ってきた杏子は、



「今日さ、今日さ? アタシもケンとこ行ける!」


 嬉しそうな声を出した。



「もう家の方は大丈夫?」


「うーん。まぁ、なるようになるんじゃない?」


 あははは――と笑いながら家の事を話す杏子が、私に気を遣わせない為にそうしてるんだと何となく理解出来る。だからもう家の事は聞かない方がいいと、



「そっか。今日、久々に一緒に溜まり場行けて嬉しいね」


「うんうん、嬉しいね」


「ヨウちん、来るといいね」


「うんう――…えぇええ!? な、何でそ――…ケン!? ケンが言った!?」


 話を逸らすつもりで口にした言葉に、杏子は明らかに動揺した。



 その動揺っぷりが可笑しくてクスクス笑う私の目の前で、杏子は顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりと凄く忙しそうだった。



 久しぶりに杏子と向かう放課後の溜まり場。



 一人じゃないって事が妙に嬉しくて、密かに浮かれながら校門を出ると、杏子が数メートル前を歩くヨウちんの後ろ姿を見つけた。



「ヨウちん!」


 モジモジして声を掛けない杏子の代わりに呼び掛けると、ヨウちんはすぐに足を止めて「よぉ」と振り返る。



 途端に隣にいる杏子の体が、微かに緊張から強張ったのを感じた。



「杏子も樹里ちゃんも、ケンとこ行くんだべ?」


「うんうん。ヨウちんも行くんでそ?」


 近付いてくるヨウちんに、杏子は嬉しそうな声を出して満面の笑みを浮かべる。



「おぅ。なら、一緒に行こうぜ」


 その誘いに更に杏子の顔には笑みが増し――



「あ!」


 私は、ある事に気付いた。



 突然大きな声を出した私を、ヨウちんと杏子は驚いた顔で見つめる。



 その二人の視線の先にいる私は、体をくの字に折って、



「樹里どうしたの!?」


 何事かと近寄ってきた杏子に、「お腹痛い……」と、呻き声を出した。



「え!? お腹!?」


「うん……。……トイレ行くから、先行ってて……」


「えぇ!?」


「お腹痛いから……」


「えぇぇ!?」


「お腹……」


 二人の邪魔をしちゃ悪いと――自分がお邪魔虫だと――気付いた私が咄嗟に吐いたその嘘に、杏子はすぐに気付いたらしい。



 でもヨウちんはそれに気付く事もなく、



「クソかよ、汚ねぇなぁ」


 ゲラゲラと声を出して笑う。



「私の事は……気になさらず……後から必ず行くから……」


「気になさらずって、何時代だよ。んじゃ、先行ってるぞ。杏子行こうぜ」


 意外に下品だな、樹理ちゃんは――と、爆笑しながら歩き出すヨウちんの後ろを、杏子は「感謝!」と小さく呟き追い掛ける。



 その二人の後姿が見えなくなるまで見送って、私は一旦学校に戻る事にした。



 十分くらいして出れば二人に追いつく事はないだろうと、適当に時間を潰してから再び学校を出た。



 見上げた空は薄らと青く、随分陽が長くなったのを感じる。



 五時なのに、まだ明るい。夏の生温い風が頬に当たる。



――もうすぐ夏休みか……。



 長期休みの憂鬱さに溜息を吐いた私は、すっかり通い慣れた溜まり場への道をゆっくりと歩いた。



 ヨウちんと杏子には追いつかないまま、工場地帯に入り、穴の開いた金網フェンスを潜る。プレハブの下で、汗でベタついた腕に風で舞ってくっ付いた砂を軽く払っていると『プップーッ』と、軽いクラクションが聞こえ――…振り返ると、こっちに向かってくる原付に乗った直人の姿が見えた。



 目の前まで来た原付のエンジンが止められる。



 階段の下に原付を止める直人の「チース!」という軽い挨拶に、「こんにちは」と挨拶を返すと、直人は原付の鍵をポケットに入れて階段を上がっていく。



 その数歩後ろについて階段を上がり始めた私は、「樹理さ?」と突然直人が呼び掛けて立ち止まった事で、一緒に足を止めるざるを得なくなった。



「何?」と聞き返した私に、直人が振り返る。



 身長差がある直人に二段上から見下ろされるのは、物凄い圧迫感だった。



「携帯持ってねぇの?」


「ある」


「番号交換しねぇ?」


「別にいいけど……」


 こんな場所で言う事もないのに――と、思いながら鞄の中をゴソゴソと掻き回し携帯を探した私は、携帯を取り出し、画面を見て番号交換が無理だと悟った。



「ごめん。無理だった」


「え? 何で?」


 階段を一段降りてきた直人は、私の携帯を覗き込む。



 その距離の近さに、また何とも言えない息苦しさを感じた。



「うん、充電が切れてる。三日くらい前から切れてたの忘れてた」


「はぁぁああ!?」


「何?」


「三日くらい前からって、何で充電しねぇんだよ!?」


「別に誰からも掛かってこないし。誰にも番号聞かれた事ないし、教えた事ないし……」


 答えた私を唖然って感じで見つめた直人は、次の瞬間私の右手を掴んで勢いよく階段を上っていく。



 何が何だか分からないまま、半分引きずられるように階段を上り切った私は、そのまま直人に連れられて溜まり場の中に入った。



 靴を脱ぎ捨て、ヨウちんと話している杏子の方へと歩いていく直人に、私は靴を脱ぐ間もないまま、部屋の中に引っ張り込まれる。



 そして何が何だか分からない私を気に掛ける事もなく、



「杏子!!」


 直人は大きな声を出した。



 その声に、ヨウちんと杏子がビクリと体を震わせこっちを向く。そんな二人の目の前で、直人はようやく足を止めると、何故か――



「お前、なんで樹里の番号聞かねぇんだよ!」


――怒った。



「え? 何?」


「樹里の携帯番号だよ!」


 直人はそう言うとグイッと私を引っ張り、直人と杏子の間に立たせる。



 一瞬目が合った杏子は、バツが悪そうにスッと床に視線を落とした。



「聞き辛くて……」


「聞き辛い?」


「だって樹里って学校で携帯全然出さないし、持ってないのかなぁとか思ったり、聞くタイミング無かったり……」


「バカ野郎! お前が聞かないから、樹里の携帯三日も充電切れてるじゃねぇか!!」


 バカ野郎――と、言った割に直人の声は全然怒ってなくて、言いきった途端に声を出して笑い始める。



 その声に、また部屋中の視線が私に集まり――



「え? 携帯持ってたの?」


「え? 三日?」


「マジで!?」


「三日って!! 携帯の意味ねぇじゃん!!」


 部屋中にみんなの笑い声が響いた。



 恥ずかしいやら情けないやら、何やら分からない感情で、顔がまた熱を帯びる。



 自分でも真っ赤になっていくと分かるくらいの耳たぶが熱い。



 だから思わず、



「……二日だもん……」


 俯き小さな声で見栄を張ると、「変な見栄張ってんじゃねぇよ! 三日だろ」と、直人は大笑いしながら私の頭をクシャクシャと撫でた。



 それからすぐにみんなが充電器を探してくれて、誰かが持っていた充電器で私の携帯が三日ぶりに生き返った。



 久々に液晶に灯りが点る携帯。



 それを見て、慣れない所為か、何とも言えない不思議な気持ちになった。



 充電が終わった後、杏子やその場にいた数人と番号を交換した。



 もちろん、その数人の中には直人もいた。



 番号を交換してから、杏子から毎晩メールが来るようになった。



 他愛も無い内容だけど、一日一回は送られてくる。



 それと同時に、直人からもメールが来るようになった。



 授業中や深夜。



 直人から来るメールは大した内容ではなく、



【勉強してっか?】


【風呂入ったか?】


【飯食ったか?】


【涎垂らして寝るなよ】


 そんな――どうでもいいような――内容だった。



 結局私はどう返していいのか分からず、毎回【うん】や【ううん】と単語の返信だけしていた。



 それでも、今までずっと無反応だった携帯が動き出した事を、少なからず嬉しく思っていた。



 その事をきっかけに、私は充電器を持ち歩くようにもなった。



 少しずつ、自分が変わっていってる気がした。





 テスト期間に突入してから、みんな溜まり場で一応勉強してた。



 だけど教えてくれる人が誰もいないから、勉強をしてるというよりは、みんなで「分からない」と泣き言を言ってるって感じだった。



 そうやって、みんなで勉強をして分かった事は、私の頭が相当悪いって事。



「よく高校に受かったよね」と杏子に笑われもした。



 今まで成績を比べる友達がいなかった所為か、私自身まさか自分がここまで頭が悪いとは思ってなくて、よく高校に受かったな――と、自分の事ながらに感心した。



――そして。それは、突然――期末テストの最終日――にやってきた。



 休み時間に杏子とトイレに向かう廊下。



「後、一教科で終りだ!」と伸びをした杏子に、「だね」と返事をした直後、



「夏休み、海行きたいねぇ。――あ! ヨウちん発見!」


 目ざとくヨウちんを見つけた杏子が、「おーい」と手を振った時の事だった。



 杏子が手を振る方に視線をやると、ヨウちんとケンちゃんと直人が見えた。



 ヨウちんとケンちゃんは、杏子の声に気付き、こっちに小さく手を振る。



 だけど直人は気付いてない様子で、横を向いたままだった。



 すぐに三人の所に走り出そうとした杏子は、またすぐにふと、足を止める。



 突然立ち止まった杏子に、「どうしたの?」と問い掛けると、杏子の顔が渋くなった。――そして、



「今はマズい。直人の彼女いる」


「……え?」


 杏子の言葉に視線を戻してよく見てみると、さっきは柱に隠れて見えなかった女の子が見える。



 直人はその子と話をしているから、私達に気付かないみたいだった。



「無視しよう」


 杏子はそう言うと、声も掛けずに四人の前を通り過ぎる。



 ヨウちんとケンちゃんも分かっているらしく、私達に声を掛けてくる事はなかった。



 私は四人の前を通り過ぎる時、何気に直人の彼女を見た。



 黒髪の大人しそうな女の子。



 目が大きくて、可愛い同級生。その子は直人に向かって満面の笑みを浮かべていた。



――直人、彼女いたんだ……。



 何故だか私の胸がザワザワと――ザワついた。

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