決意


 携帯の向こうからトゥルルと呼び出し音が聞こえ、私は震える手を押さえた。



『――…はい』


「……もしもし? 樹里」


『……うん』


「……コータ先輩、どこにいるの?」


『……クラブ』


「私……いっぱい考えた」


『うん』


「ここ出て行くね……」


『……直人のとこ行くのか?』


「ううん。違う」


『じゃあ、何で出て行くんだ?』


「……コータ先輩?」


『何だ?』


「私、コータ先輩がいなかったらきっと今頃は死んでた。コータ先輩がいてくれたから今私は生きてられる。コータ先輩のお陰だよ」


『……うん』


「私、本当にコータ先輩のことが好きだったよ」


『うん……』


「本当に本当に好きだった」


『……あぁ』


「だから出て行く。私ね? 直人が好きなの。多分それはこれからもずっと変わらない。コータ先輩のことも好きだけど……直人を想う気持ちはまたちょっと違う気がする」


『……直人のとこ行くんじゃねぇんだろ?』


「うん。私が勝手に直人を想ってるだけ。それでいい。ただそれだけでいいの」


『……俺の傍にいろよ』


「うん。それも考えた。この気持ち隠して……コータ先輩の傍にずっと居たいってそう思ったよ」


『そうしろよ……』


「でも、私コータ先輩のことも好きなの。だからもうコータ先輩を傷つけたくない。私はもうこれ以上好きな人に傷ついて欲しくない」


『……』


「すっごい自分勝手な言い訳みたいになっちゃった……」


『……これからどうすんだ? ……家、帰れねぇだろ?』


「うん。大丈夫。本当に大丈夫だから」


『……樹里』


「うん?」


『……行くなよ……』


「……」


『行くな……』


「……コータ先輩、今までありがとう。コータ先輩がいてくれて幸せだった。コータ先輩が生まれて来てくれて本当に良かった。私はコータ先輩に想われて幸せでした」


『……樹里……』


「コータ先輩、本当に大好きだったよ」


『樹――…』


 プツリ――と、そこで声が途切れたのは私が電話を切ったから。



 このまま話していたらまたコータ先輩に甘えてしまいそうだから電話を切るしかなかった。



 切れた携帯を握り締め、大声を出して泣く私は、ここでの生活がどれだけ恵まれ、温かなものだったのかを今更ながらに強く感じていた。





 携帯電話と指輪をテーブルの上に置くと、ずっとはめていた指輪の跡が残る左手の薬指が目につく。



【最後のわがままを聞いて下さい。他の物は全部置いていくから、思い出に通学鞄を下さい。今までありがとう。さようなら。樹里より】



 そう書いた紙をテーブルの上に載せてマンションを出た私を、八月の朝日が照らした。



――コータ先輩、大好きでした。本当に大好きでした。



 私はマンションに頭を下げ、通い慣れた繁華街にさよならを告げた。





「――…もしもし? 杏子?」


 公衆電話から杏子に電話したのは、まだ朝靄も晴れぬ時間。



『うーん……誰?』


 寝起きの掠れた声で電話に出た杏子に、



「樹里だけど、お願いがあるの……。夏休みが終わるまで……泊めてくれない?」


 泣きながらそう言うと、杏子は「うちにおいで」と、直人と別れたあの夜のように優しい言葉を掛けてくれた。



 杏子はあの時と変わらず、私を温かく迎え入れてくれる。



 私は人の寛大さと温かさに何度となく感謝する。



 それはきっと、これからもずっと。





 夏休み最終日、私は左の胸に小さなタトゥーを入れた。



 ピンクと赤のハートが交じり合うタトゥーは、私を愛し、守ってくれた人の象徴。



 直人とコータ先輩。二人への想いが詰まった小さなタトゥー。





 第二部 完

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