招かれざる客①


 あの日以来、コータ先輩は避妊をしなくなった。



 いつもという訳じゃないけど、中で出す時もある。



 でも私はいつの間にかその状況に慣れてしまい、確かに最初は不安があったけど、気が付けばそれは当たり前のことになり、不安にすら思わなくなっていた。



 慣れていくことがいいことなのか悪いことなのか私には分からなかった。



 もしかするとただ単純にセックスという行為に溺れ、毎日のように与えられる快感に狂っていただけなのかもしれない。



「お前は本当感じやすいな」とコータ先輩に何度か言われたことがある。



 それなら私は元々そういう気質を持っていたのかもしれない。





 コータ先輩の独占欲は、指輪と私を避妊せずに抱くことで制御されているようだった。



 元々コータ先輩に過保護にされていた私は、特に何かが重いと感じることはなかった。



 これも慣れの一種なのかもしれない。



 ただヨウちんに会いに行けなくなったのが少し寂しかった。





 いつの間にか五月も終わろうとしていた。





「焼肉食いてぇ」


 久しぶりに手料理を食わせろと言われて渋々作った晩ご飯の片付けをしていた私がその言葉に振り返ると、コータ先輩は床に寝転びグルメ番組を見ていて、



「今、晩ご飯食べたじゃん」


「食えた量少なかったじゃねぇか」


 私の反論にクスクスと笑って言い返し、「もう二度と作らない」と不貞腐れると、「料理を練習しようと思え」と笑った。



 コータ先輩は相当焼肉を食べたかったのか、それからしばらくしてベッドに入ってから「明日、焼肉食い行こうぜ」と呟き、「いいよ」と半分ウトウトとしながら答えた私に腕枕をして、



「お前と一緒にいるようになってから、食生活ちょっと変わったな」


 不意にそんなことを口走った。



「そうなの?」


「お前、あんまりコテコテしたの食わねぇだろ?」


「あー、うん。そうかも」


「昔は三日に一回くらい焼肉食ってた」


「おぇっ。それって食べすぎ」


「マジであの時は焼肉屋しようかと思ってたくらいだった」


 そう笑って私の髪を撫でるコータ先輩の指先の動きを感じながら、ふと、あることが頭を過ぎる。



 ずっと気にしてるって訳じゃないけど、時々考えては漠然とした不安に苛まれること。



 見えないから不安になるのか、不安だから見ようとしないのか分からないけど、心の奥底に燻ぶってる不安材料。



――将来という名の未来。



「……あのさ?」


「ん?」


「コータ先輩は将来のこと何か考えてる?」


「将来?」


「うん。これからどうするかとか考えてる?」


「来年から働くかな」


「そうなの?」


「元々二十歳まで遊んでそれから仕事するって決めてたし、成人して親父の金使ってるのもどうかと思うだろ」


「仕事って、ヤクザになるの?」


「前に顔通しの時クラブで会った三人覚えてるか?」


「うん。怖い人でしょ?」


「あの人たちにはこの辺一帯やるから組に来いって言われてる」


「そうなんだ……」


「でも別にそんなのいらねぇし。俺はお前がいればいい」


 そう言って、にっこり笑ったコータ先輩はギュッと私を抱き締めて、



「来年就職するか、それまでにガキ出来て就職するか、どっちが先になるかは分からねぇけどな」


 笑いながら、それでも当たり前って感じでそう口にする。



 それを羨ましく思った。



 どんな未来だろうと、その展望を描いてることを羨ましいと思った。私にはないそれが羨ましい。



――だから。



「コータ先輩、将来のこと考えてたんだね……」


 何となく、何も考えてないということに後ろめたさを感じ、



「お前は? 何か考えてるのか?」


 その所為でコータ先輩のその問いに、俯いた私の「……ううん。何にも考えてない」と、答えた声は小さかった。



 だけどコータ先輩は、そんなこと気にするなって感じで「そっか」と相槌を打つと、「まぁ、俺が嫁にもらってやるよ」と小さく笑う。



 そして私の服の裾から手を入れ、



「ちょっと! ダメだってば! 生理って言ったのに!」


「何だよ。生理って神から俺への挑戦状か?」


 手をすぐに服の中から引っ張り出されて不貞腐れた。



「挑戦状ってか、試練じゃない?」


 不貞腐れたコータ先輩を見てクスクスと笑う私は――…やっぱりいくら考えても、将来というものが見えなかった。





 次の日の夕方「焼肉屋行くから用意しろ」とコータ先輩に言われて、お風呂に入って廊下に出ると、リビングからコータ先輩の声が聞こえてきた。



「マジか? あぁ……。何で? うん。……関係ねぇよ」


 その話し声はいつもと違って低く威圧的で、知り合いか後輩と電話をしてるのかと黙ってリビングに入ると案の定コータ先輩は電話をしていた。



 コータ先輩は冷蔵庫からお茶を取り出す私にチラリと目を向けると、



「樹里が風呂から出てきた。……うん。もしそんなことしやがったらぶっ殺す。あぁ。じゃあな」


 吐き捨てるようにそう言って電話を切る。



 そして何事もなかったかのようにペットボトルのお茶をラッパ飲みする私に向かって、「俺も風呂入ってくる」といつもの優しい声を出し、リビングを出ていった。



 それから十分もしない内にお風呂から出てきたコータ先輩とすぐに向かった繁華街で、「美味い焼肉屋があるんだよ」とコータ先輩はやけに嬉しそうだった。



 だけど私の肩を抱いた直後に携帯が鳴り、



「――はい。あぁ、俺。何だ?」


 取った途端に私が苦手な低い声を出した。



「はぁ? ……クソッ。あぁ、分かった。言っとく。捕まえてどうにかしとけ」


 そう言って電話を切ったコータ先輩はイライラしているようで、



「何かあった? 行ってくる?」


 そう声を掛けると、上の空だったのか「え? 何?」と我に返ったようにハッとして聞き返してくる。



 明らかに何かあったと分かる態度に、「何かあったんじゃないの? 焼肉は明日でもいいから行ってきていいよ?」と言うと、コータ先輩は更に肩を抱き寄せ「いや、そういうんじゃねぇから」と、焼肉屋さんに向かって歩き出した。



 結局、何があったのかコータ先輩が話してくれたのは、焼肉屋さんに入ってからのこと。



「ちょっと性質の悪い女がいてさ」


 頼んだ品がテーブルに置かれた時、コータ先輩は真剣な声でそう切り出した。



「そいつ鑑別入ってたんだけど、最近出て来てここに戻って来たらしい」


「うん」


「その女、俺のこと探してるらしい」


「へぇ」


「昔付き合ってた女なんだよ」


「そう」


 ビールを喉に流し込んだコータ先輩に、そう返事をした私は、正直その話にあまり現実味を感じていなかった。



 他人の話を聞いている感覚というか、御伽噺を聞いている感覚というか、自分には全く関係のない話のように思えて、何の為にそんな話をしてるんだろうってくらいに思っていた。でもコータ先輩には大事なことのようで、



「もしそいつに会うことがあって、何か言われても気にすんじゃねぇぞ?」


 妙に声を強張らせる。



 だけど私が全く気にせず「うん」と返事をしてお肉を口に放り込むと、その態度に安心したのか「美味いか?」と、ようやく笑顔を見せた。



 どうしても他人事のように思えるコータ先輩のその話が、実害として私の目の前に現れたのは、この二日後のこと。



――もしかしたら私とコータ先輩は、このあたりから少しずつすれ違ってきていたのかもしれない。





 焼肉屋さんに行った二日後の夜、コータ先輩の知り合いたちと繁華街のシャッターが閉じた店の前で座って話していると、私とテレビの話をしていた女の人が、不意に人混みに視線を移し、その表情を強張らせた。



「……コータさん」


 女の人は人混みに視線を向けたままそう呼び掛け、「何だ?」とコータ先輩が目を向けると、「ヤバいよ」と人混みから目を逸らさずに小さく呟く。



 その視線を追うようにしてそっちに目を向けたコータ先輩は、目を細めて人混みを見渡すと、一点の場所で視線を止め、表情を変えた。



 その、怒っているような焦っているような何ともいえない表情に、一体何があったのかと、私が人混みに目を向けようとした時、



「帰るぞ」


 突然コータ先輩が低い声を出して立ち上がり、私を無理矢理立ち上がらせる。



 そして「え?」と困惑する私の腕を掴み、すぐにその場から立ち去ろうとして――…



「コータ!」


 背後から聞こえてきた女の人の声に、腕を掴んでいる手に力を入れた。



 コータ先輩がゆっくりと振り返り、それに倣って私も振り返ると、すぐそこに金髪の、ちょっと厚めの化粧に真っ赤な口紅が印象的な女の人が立っていて、



「……ショーコ」


 コータ先輩がその人に向かって、小さな声で呟いた。



『ショーコ』と呼ばれたその人は、真っ赤な唇に笑みを作ると、ニコニコとしながらコータ先輩に近付く。



 途端に周りの空気が張り詰めたように感じ、



「やっと見つけた。探してたんだよ」


 嬉しそうにそう言ったショーコさんがコータ先輩の腕に触れると、誰かがハッと息を飲んだ音が聞こえた気がした。



「何か用かよ?」


「冷たいなぁ。久しぶりに会ったのに」


 触れられた手を振り払い、低い声を出したコータ先輩に、ショーコさんは楽しそうに笑う。



 そして、



「用がねぇなら俺帰るから」


「用あるよ? 久しぶりに抱いてもらおうと思って」


 コータ先輩がいくら低い声を出しても、気にもしない様子でその笑みを継続させた。



――でも。



「そんな気ねぇよ」


 コータ先輩のその言葉に、ショーコさんの視線がゆっくりと私に向けられる。



 その目つきの悪さに思わずビクリと体を震わせた直後、



「この小せぇ女誰?」


 ショーコさんは突然口調と声色を変え、私を睨み付けた。



「てめぇに関係ねぇだろ」


 コータ先輩はそう言って、まるで蛇に睨まれた蛙のように体が固まってしまった私の肩に腕を回し抱き寄せる。



 だけどコータ先輩の言葉を聞くつもりはないのか、ショーコさんは更に鋭く私を睨み、「コータ、趣味悪くなったねぇ」と洟で笑った。



「まぁ、いいや。どうせ適当に遊んでる女でしょ? こんな女ほっといてどっか連れてってよ」


 気を取り直したようにコータ先輩に視線を戻し、また楽しげに笑ったショーコさんは、コータ先輩の胸元に軽く手を当てる。



 でも、「そんな気ねぇって言ってんだろ」とコータ先輩がその手を払うと、その目がまた私に戻ってきた。



「あんただって遊ばれてるって分かってるよねぇ? コータが遊び人って知ってるんでしょ? ヤるだけヤって捨てる男って分かってるんでしょ?」


 ニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべるショーコさんは、



「でもねぇ、アタシは別なの。あんたとは違うの。分かる? アタシ、コータの最初の女なの。コータにセックス教えたのアタシなの。あんたがヤられてることは全部アタシが教えたことなんだよ!!」


 語尾を荒げて私の腕を掴むと、グイッと力一杯引っ張って、私をコータ先輩から引き離す。



 そして、



「てめぇ、いい加減にしろよ!!」


 直後に怒鳴ったコータ先輩の声にも全く動揺しないで、私とコータ先輩の間に立ち、コータ先輩を睨みながら、私の腕を強く握り長い爪を食い込ませた。



「もう分かったでしょ? あんたもう帰るよねぇ?」


 腕に食い込んだ爪の痛みから顔をしかめた私にショーコさんは振り返り、威圧的な目を向ける。



 それと同時に更にギリギリと私の腕に爪が食い込み、私はキュッと唇を噛んだ。

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