第5話 薔薇の階級

「よし……大丈夫」

 目の下にコンシーラーを塗れば、ある程度隈を隠せた。赤くなった目の色まではごまかせないが、何もしないよりはいい。

 睡眠時間はいつもの半分以下。調子はすこぶる悪い。けれど授業は休みたくない。

 いつもの時間に部屋を出ると、ロビーにはすでにノアが待っていた。

「おはよう……体調悪い?」

「少し寝不足なだけだ。問題ないよ」

 ノアに心配をかけさせたくなかったが、その相手にいの一番に気づかれてしまった。これはもう、意地でも認めるわけにはいかない。太陽が西から昇ると嘘をつくレベルで、だ。

「そっか。獄舎から自分の部屋に戻ったからだよね。環境が変わるとそわそわする気持ちは俺も判るよ」

「ノアは獄舎生活の経験はないだろ」

「さすがに獄舎は入ったことないけど、新しい宿舎へ移動になると、部屋の匂いとか広さとか、いろいろ違うじゃない?」

「それもそうだな」

 学食はいつもより騒がしかった。ぴりついた雰囲気が肌に刺さり、クリスは辺りを見回す。

 がしゃん、と耳を塞ぎたくなるような音が食堂内に響いた。ノアが小さな悲鳴を上げる。

 人の視線を辿っていくと、問題児一がいた。ちなみに問題児二はダニエルである。なぜダニエルが二番目かというと、単純で扱いやすいからだ。怒る要素が判りやすい人間は、どうしたら動かせるのか先が見える。

 数人の生徒たちがひときわ背の高い生徒を囲い、床に倒れる生徒を見下ろしている。

「もう少しでアメデオ様に当たるところだったんだぞ!」

 一人の取り巻きがステージ上のアクターのように、少々わざとらしく叫んだ。

 倒れた生徒の回りにはトレーが落ち、皿は割れ、盛られた料理はもったいないことになっている。

 なんとなく状況は読めた。トレーを持ったまま取り巻きに当たったか、当たりそうになったところを倒されたかどちらかだろう。

 クリスは倒れた生徒にも料理にも、ある意味真ん中で微笑むアメデオにも同情した。

 クリスは震え脅える生徒に駆け寄ろうとした。だがノアに腕を掴まれた。

 ノアは頑なに離そうとしない。

「あーあ。なんだよこれ。もったいないなあ」

 暢気な声で高らかと告げた男──アーサーは、うずくまる生徒に駆け寄り、皿をトレーに乗せた。

 しんとする冷たい空気の中、クリスはノアの手を外してアーサーに駆け寄ろうと一歩、二歩と踏み出した。怒りを込めて。

「騒ぎを起こしているのは誰だ」

 駆け寄ろうとした矢先のこと、まるで誰かさんのような遠吠えが聞こえ、獄舎に入れられたときのことを思い出した。

 相手はバリトンボイスの持ち主であるリチャードでもぽっちゃりした学園長でもない。監督生のルイである。

 いわゆる生徒をまとめるリーダーのような役割で、立ち入り的には寮長の下につき、何かあったときに報告をする。

「アーサー、説明しろ」

「えーと、まったく見ていません」

「クリス、お前は?」

「さあ? 今来たばっかりなんで」

 わかるだろ。この状況で。倒れている生徒は目に入らないのか──そうクリスは目で訴える。お前もか、お前もなのか、と。

 生徒ではない、誰かの足音が近づいてくる。生徒はみな同じ靴を履いているため、違う音は判りやすい。

 見上げると、寮長のリチャードが無表情で見下ろしていた。

 他にも生徒がいるのに、ふたりだけの空間のようだった。

 リチャードはクリスから目を逸らすと、

「お前は監督生のルイだな。説明を求める」

 ルイは突然名前を呼ばれ、しどろもどろになりながら指で髪を弄り出した。

 クリスはそんなルイに違和感を感じた。ふたりだけの空間が奪われてしまい、わざと音を出しながら割れた皿を拾う。

「実は、私も見ておりません。来たときにこのような状況出して……」

「誰も見ていないのなら罰則はありませんよね、寮長?」

 すべての皿と料理を拾ってトレーに戻すと、クリスは立ち上がってリチャードへ強い視線を送る。

 リチャードの口角がうっすら上がっている。

「ちょっと待って下さい。僕たち、彼に皿を投げつけられたんです!」

 見えない空気を互いに読んだ結果、ぶち壊したのはアメデオの取り巻きだ。

 寮長といえどリチャードは来たばかりで、この学園に潜む厄介な階級を知らない。知らなければとばっちりや酷い目に合う。なんとしてでもそれは避けたい。

「そうか。ではお前と、……お前だ。それと、」

 リチャードは声を上げた取り巻きといまだに声を上げられずに床で小さくなっている男、それとクリスを見た。

「事情を聞かねばなるまい。三人は生徒指導室へ来るように」

 生徒指導室は名前の通り、様々な指導を行う部屋だ。鍵付きの部屋は生徒の憩いの場としても知られていて、見つかればお仕置きを免れない。

 とりあえず難は逃れた。一つ判ったのは、リチャードは空気が読める。それもわずか一瞬で。他人事を装うその他大勢、倒れている被害者、アメデオを囲む男たち、それにクリス自身が目で訴えたことも。

 リチャードが去っていくと、ぴりついた空気が少し緩んだ。

「クリス……」

「いつも心配かけてしまっているな。大丈夫だ。アーサー、頼みがある。ノアと一緒に朝食を取ってほしいんだ」

「ああ、わかった。お前は?」

「生徒指導室へ行くさ。遅れたら獄舎行きになるかもな」

 アメデオたちにも聞こえるように、獄舎を強調した。

 渋々ではあるが、取り巻きの男もアメデオに謝罪をして食堂を出る。

 クリスも距離をだいぶ離して後を追った。




 クリスは三番目に呼ばれた。入れ違いに出てきた被害にあった生徒は、今はそれほど脅えていない。話したことですっきりしたのかもしれない。

「入れ」

「はーい」

 暢気な声を出すと、リチャードの眉間に皺ができた。

「物怖じしないところはお前の長所だな」

「気分がすこぶる悪いところを見てしまって、あなたを困らせてやりたい気分だった。心に青空が広がったよ、ありがとう」

「それほど棒読みのありがとうはいまだかつて聞いたことがない。座れ」

 リチャードは上服のポケットから細長い何かを取り出し、クリスへ渡す。

「なに、これ?」

「プロテインバー。外の世界にある栄養が取れる簡易食のようなものだ。朝食を食べ損ねただろう? 食べながら話を聞け」

「外の世界って……いいのか持ってきて」

「駄目だろうな」

「さっきの二人にも渡したのか? もしばれたら……」

「お前にしか渡していない。いいから座れ」

 青空が赤だったり白だったりと、心がカオスな色に染まっていく。今は名前の知らない色だ。見たこともない。

「生徒のことはどのくらい知ってるんだ?」

 質問される前に口を開いた。

「デネブ・アルタイル・ベガと生徒が所属する三つのクラスがあるが、とりわけ問題児を中心に。たとえば、お前とか」

「優等生も調査済みか。これ、けっこういけるよ」

 プロテインバーといっていたが、味は悪くなかった。ただし、口の中が砂漠と化している。

「今度はこちらから質問だ。お前はあの場をどうやって収めるつもりだった?」

 最後のひと口を放り込むと、答えたくても答えられなくなってしまった。

 片手を差し出し、待てと伝える。

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