第17話 その頃のジュリアン




俺の可愛い奥様は、いつも巧みに話題をすり替え、誘惑することを知っている。




結婚して間もない頃、エディスが飲んでいる不妊の薬が体に負担をかけていないか心配で、彼女に尋ねたことがあった。

俺はただ、彼女の健康が気になっていた。

だが、彼女は不意に「もう私では無理なんですか?」と悲しげな表情で返してきた。


俺は慌てて「そんなことはない」と慰めたが、彼女の目には失望と不安が滲んでいた。

自分の問いが彼女を傷つけたのだと気づき、それ以来、その話題を避けるようになった。



しかし、日が経つにつれ、彼女の体調が本当に大丈夫なのかという疑念が消えなかった。

再び、慎重に問いかけると、彼女は少し悲しげな目をして、そして…ゆっくりと微笑んだ。「無理なら、正直に言ってください」


胸が締めつけられるような罪悪感を覚えた俺は、必死に「そんなことはない。君は十分魅力的だ」と否定した。

すると、彼女はふと微笑み、「じゃあ、今すぐ証明して」と言ったのだ。


俺は彼女の言葉に逆らえなかった。

あの時の衝撃と戸惑いは今でも鮮明に覚えている。

彼女があんなにも積極的に求めてきたのも、敬語をやめたのも初めてだった。

俺は驚きながらも、彼女の求めに応じた。

しかしその後、深い自己嫌悪が俺を襲った。

俺は彼女を心配していたはずなのに、結局、彼女を慰めることができず、彼女の誘惑に乗ってしまったのだ。



それ以来、何度か彼女の体調について聞いてみたが、彼女は「問題ない」としか答えなかった。

それでも、何かがおかしいという感覚は拭いきれなかった。

健康な体に薬を投与し続ければ、何も影響がないはずがない。

彼女が気づかないだけで、何か問題が起きているのではないかという不安が日に日に募っていった。


そんなある日、確実に誘惑されないはずの日だった。

副作用とかがないか聞くと、エディスはいつもと違って、俺を安心させるように優しく触れてきた。

「こういう日でもちゃんとできるから…」と、彼女は囁いた。

俺は彼女の言葉に逆らえなかった。

その時の彼女の言葉に、俺は圧倒されてしまった。

俺は彼女の言葉に逆らえなかった。


確かにその夜は至福だった。

それでも――俺には分かっていた。彼女が本心を隠していることを。

彼女なりに自分の本心を隠しているのだろうと分かっていたが、それを問い詰めることはできなかった。

彼女を愛していたし、彼女の優しさに抗えなかった。




俺はエディスの健康を守るために、ますます彼女の体調に気を配るようになった。

少しでも不調があればすぐに診察を受けさせ、定期的な健康診断を欠かさなかった。

それが、俺ができる最善のことだと思っていた。





結婚して10年が経ち、エディスが俺に何か言えないことがあったとしても、少なくとも俺に対して嫌悪感はないと信じていた。

だが、彼女に振り払われ、家を出てしまったことで、その自信は揺らぎ、底知れぬ不安が胸を締めつけた。


寝室で振り払われたあの日、本当は追いかけて問い詰めたかったが、エディスに強引な行動は取れなかった。

彼女は冷静で落ち着いた女性だ。

きっと、いつかちゃんと説明してくれるだろう。

俺はその時、どんな説明でも受け入れられるように準備をしておけばいい。


そうして、冷静さを装い、エディスの前では強く構えることを心がけた。

俺は彼女の支えであり、守るべき存在だ。

彼女が見せる冷静さに、俺も応えたいと自分に言い聞かせた。


しかし、職場で「しばらくカタリナの館に泊まる」という連絡が来た時、血の気が引いた。

エディスが家を出るなんて、これまでにはなかったことだ。





この異常事態の原因がカタリナにあるように思えた。


10年ぶりにカタリナが帰国する報せを見て、エディスは「私のことは気にしないで、再婚したら」と言ってきた。


そんな話があり得るだろうか?


俺にとってはカタリナは過去のことだ。

しかし、エディスがカタリナの話をするたびに、俺は何かを試されているような気がして、彼女の言葉に付き合っていた。




だが、それは勘違いだったのかもしれない。


彼女は本気で離婚のタイミングを計っていたのか?


もしくは、エディスは病気の疑いが現実味を帯び、誰にも言えない恐怖から、カタリナを頼ることを選んだのではないか?

カタリナは遺伝子の第一人者だ。

通常の検診では分からない検査も可能だ。

エディスにとっては頼れる唯一の存在なのかもしれない。

カタリナに頼ることで自分の抱える不安を解消しようとしている可能性があると考えると、ますます胸が締め付けられた。

エディスは俺に本当のことを話してくれないのか?



そんな不安が胸に押し寄せ、カタリナの館にいるエディスを追いかけることしかできなくなった。



俺は、エディスの真意を知るためにも、カタリナの館や職場を訪れ続けた。

だが、エディスは俺に会ってくれなかった。





職場に顔を出していたとき、弟のカミーユがふらりと現れ、俺のデスクに目をやりながら興味深げに尋ねてきた。「兄上、最近やたらと仕事が滞っているようだが、何かあったのか?」


俺は、さりげなく聞いている風を装う弟の姿勢に軽い苛立ちを覚えつつも、「今は夫婦の問題が最優先なんだ、見逃してくれ」と、短く返した。


すると、カミーユは少し驚いたように眉を上げ、面白そうに笑みを浮かべた。「ふうん、兄上が仕事よりエディス様を優先するとは、意外だな。あの完璧主義のジュリアン殿下が…」


弟の揶揄に少し苛立ちながらも無視していると、カミーユはさらに追及するように声を潜めて言った。

「それに、最近の噂は聞いたか?どうやら報道陣がエディス様が家を出たことを嗅ぎつけているらしいが、放っておいても大丈夫か?」


カミーユの言葉に少し動揺を覚えながらも、俺は努めて冷静に応じた。「もし記事になるとしても、今は構わない。それよりも、もしエディスに何かあれば――俺が彼女を守る」


カミーユは半ば呆れたような表情を見せた。「はあ、それほどまでに彼女が大事か…兄上らしくないね。まあ、せいぜい報道が悪化する前に手を打っておくことだな。エディス様の名誉を守るなら、表向きの君のイメージも大事だろう?」


カミーユは皮肉を交えた忠告を残しつつ、ふと手を振って去っていった。

弟がどこか面白がっているようにも見えたが、彼の冷ややかな視線は、俺が自らの立場と彼女のために選んだ行動への懐疑や失望を隠しきれていないようだった。

それでも今、俺にとって最も重要なのはエディスのことだった。



記事については、報道される前に伝えれば、エディスも何かしら対策を取れるはずだ。それが自分にとって良い結果になるかは分からない。

しかし、報道されれば、エディスはきっと報道が更に過熱する前に、俺のもとに戻るしかないだろう。



俺は弟の忠告を無視し、カタリナの職場へと向かった。

エディスの様子を知るためなら、カタリナと話すことがどれだけ嫌でも、今はそれしか方法がなかった。


今回のすべての原因は、カタリナに違いないのだから。



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