49.困惑

 

 マリアベルは急ぎ足で廊下を進む。向かう先は教会に併設された医務所である。


 そこで、王都の教会で輔祭ほさいをしていたロック卿の弟子が治療を受けている。駿馬しゅんばに乗り、矢を背に受けながらも、ピピン公爵領まで駆けつけた。海聖死すと同時に、王都では厳しい検閲が始まり、これは只事ではないとして無理矢理に脱出してきた。


 ロック卿は額に汗を滲ませながら、こう説明する。


「海聖は凶弾に倒れ、梟首きょうしゅとなったよし!」


 リアンは緊迫した面持ちで問うた。


「梟首だって……⁉︎ その罪状は……!」


「民人をそそのかし、国のあるべき姿を損ねた罪と相成る」


 マリアベルは猟奇的な笑みを浮かべて叫ぶ。


「間違いないッ! リトル・キャロルらマール伯爵領軍が禁軍に奇襲をかけたことで、新王は焦ったッ! 焦って行動に移したッ! ──新王の狙いは輝聖だけではないッ! 元は聖女5人全てが狙いなんだッ! この世から聖女たる者を抹殺するつもりだッ!」


 医務所に到着する。そこに集っていたみなが、リアンの血塗れの顔に驚いたが、言及する空気では無かった。そしてロック卿の弟子、イワンという男から、話を聞き出す。


 イワンが言うに、海聖の首──正確にはその影武者の首は、王城前の広場に晒された。あまりに突然の事であった為、民は混乱した。


 それと同時に、王都にある正教軍大本営、つまり建物としての『魚肚白社ぎょとはくしゃ』ならびに、正教軍が保持する幾つかの拠点は禁軍によって占拠された。これは奇襲に近い形で行われた為、正教軍は反撃する事あたわず。ほとんど無抵抗で奪われた。聖女たちが住まう『神門』と呼ばれる塔も同様に奪われる。


「他の聖女達はどうなった?」


 ロック卿の問いに、イワンは首を横に振った。はっきりとした事はわからないが、海聖がああなった以上は同様に襲われた可能性は高い。とにかく、今日より罪人として扱われる。


「海聖誅戮ちゅうりくを指揮したのは誰ぞ」


 これについては情報があった。イワンが言うに、指令を出したのは禁軍に違いはないが、実行部隊は別にいる。それは、王都に駐軍していたリューデン公爵領軍の将らと、一部の貴族である。そして、聖女の首を掲げたのはモラン子爵とかいう男だった。


 それを聞き、リアンは目を見開く。あまりの衝撃に耳鳴りがした。


「──モラン子爵」


 その名は、デミ家を下民かみんにまで追いやった張本人である。エドワード・デミに幾度となく窮地を救われながらも、恩を仇で返した。そしてマリアベルは不遇な時代を過ごした。父エドワードは今も不遇である。


(まずい……)


 リアンはぎりと歯を噛み締める。どうしよう。隣にいるマリアベルの顔を見ることができない。怖い。今、どんな表情をしている。何を思うのだろう。──このまま狂いはしないか。


「その、モラン子爵とやらは何かを言っていたか?」


 ロック卿の問いに、イワンはこう答える。


 この女は、下品にもモラン子爵の高貴なる血を目的に色気を使い近寄ってきた雌豚である。危うく婚姻を結ばれそうになった。父は豚で子も豚。それが真実。従って世界を救う聖女など嘘偽りであり、正教会が世界を手中に収めるための口実に過ぎない。人民はいい加減に目を覚ますべし。この国を真に治めるべくは王家であり、聖女などは存在しない。そのような事を叫んでいた。


 ロック卿は頬に一筋の汗を垂らして、唖然として呟いた。


「なっ、なんたる物言い。神の怒りを買うぞ……」


 リアンも顔も青くする。神の怒りを買うから、とかではない。──これでは本当に、マリアベルが王都に攻め入る。そして、狂気の沼から這い上がれなくなる。


「クッ……、ククッ……」


 マリアベルは喉を鳴らして笑いを押し殺そうとしたが、せきを切るようにして笑った。


「あははははははははッ! ははははははッ‼︎」


 腹を抱え、顔を赤くし、体を震わせて笑う。


「見なさいッ! 私を中心に全てが動き出しているッ! 地を中心に天が回るのと同じように、私を中心にして森羅万象が形を定めるッ! 神は私に思う通りにせよと仰るッ‼︎」


 みながその狂う破顔を見て、沈黙した。その叫びの意味を理解出来る者はリアンしかいなかったが、誰も問い返す者はいなかった。


「ただちに、他聖女の情報を集めなさいッ! そして、リューデン公爵の目論見を暴けッ!」


 リアンは思う。──これは果たして偶然か、それとも必然か。胸のロザリオを握り、神に強く、ひときわ強く問いかけたが、何の声も降りてはこなかった。


 □□


 領軍はただちに陸聖、焔聖、空聖の情報を集めるべく動き始めた。同時に諸侯の内、誰が禁軍と手を組んで聖女を排斥しようと企んでいるのかも探った。これにはロック卿の弟子たちは勿論のこと、聖フォーク城に出入りする付き合いの長い商人達、また信頼のおける冒険者も用いる。事は秘密裏に行われた。


 デュダの街は王都から近い位置にあるから、海聖の死の情報はすぐに届いた。民は大いに困惑する。何か理外の力が働いて、生活が急速に崩壊していっているに違いないと不安がった。ハイドラの復活があったばかりだから、余計にそう感じた。ついに瘴気が世界を覆ってしまうのではないかと心配する者も多かった。救世主の登場に沸いていた街からは、一気に笑顔が失せた。


 また、謁見の間でのマリアベルの物言いを聞いた迂闊な騎士が、禁軍が公爵領に攻め入るという話を酒場でした事もあって、それも2日3日のうちに民の多くが知る事となった。


 ──海聖の死から5日が経ち、禾稼かか暁月ぎょうげつ


 聖フォーク城の薔薇庭園。小鳥の囀りを聞きながら、パトリシアはクララと庭師と一緒に、薔薇の手入れをしていた。不要な枝を切り、そこに兎膠うさぎにかわを丁寧に塗る。


「あのね、クララ。今ね、街はとても沈んでいるらしいの。嫌な噂がたくさん流れて、人々は不安がっているわ」


 それについては、クララも聞いていた。海聖の死──、と言っても替玉ではあるが、聞いた時は本当に驚いた。


 正教軍大本営も、聖女が住まう神門も、聖都アルジャンナも占拠されてしまった。噂では略奪まで行われているとか聞く。未だ姿を明らかにしない新王は、とても罰当たりと言うべきか、何と言うべきか。何も思わないのだろうか。心を痛めないのだろうか。そう思い、クララは落ち込む。


「もう国の中はぐちゃぐちゃよね。世界は瘴気に飲まれようとしているのに、人同士で争っている……」


 パトリシアは赤い薔薇を摘んで、一つ一つ、棘を取っていく。


「クララ。私に出来る事を考えてみたの」


「出来ること?」


「街に出て、民の話を聞いてみようと思う。私ね、クララとお話が出来るようになってから、色んな胸のもやもやが消えていったわ。誰かに話す事で、こんなにも救われるんだってびっくりした」


 孤独なパトリシアは、様々な事を包み隠さずクララに話した。亡き父親のこと、幽閉されている母親のこと。領のこと、これからのこと。下らない悩みや、夢のような妄想話まで。


「だから私も、クララみたいに皆の話を聞くの。そして、この薔薇を配るわ」


 パトリシアにとって薔薇は心の癒しだった。母が気鬱で周囲に暴力を振るった時も、父が死んだ時も、薔薇を部屋に飾り、窓から漏れる光に輝くそれを見れば、気が紛れた。


「クララ、付き合ってくれる?」


 パトリシアは笑んで言う。


「もちろん。お供します」


 本当にいい子だと思って、クララも笑む。


 その日の午後から、パトリシアとクララはデュダの街へと出向いた。護衛は少しだけだった。街の民達はまだ領主が死んだ事には気がついていない。パトリシアの面相や風貌も知っている者は少ない。護衛が少なくても危険はなかった。


 ロック卿の愛馬ソロモンに沢山の籠をつけて、そこに薔薇をいっぱいに入れていた。パトリシアとクララも、棘を取った薔薇を片腕に抱えていた。


 広場に向かう途中、2人は手を繋いだ。パトリシアの手は少しばかり震えていた。不安なのだと思った。


 同時、思い出す。祭りの日。デュダの街を赤い髪の少女と2人、手を繋いで歩いた。あの明るく、楽しかった雰囲気は、デュダから失せている。寒々しく、色を失っている。


 ──あの子は今、どうしているのだろう。


 クララは、鉄のような色をした静かなる曇天を見上げた。秋にしては温い風が吹いていた。黄金の髪が、風を形取ってなびく。風、遠くの丘の陽の香り。緩やかな風の訴えは、僅かに波乱を感じさせる。街には沢山の人がいて、隣にパトリシアがいるのに、それでもなお、人恋しくなるような天気だった。


 もう一度風が吹いて、腕いっぱいの薔薇から花びらが少し舞った。空には鴉の群れ。


 心優しい馬ソロモンはクララの気落ちを感じて、その背に顔を擦り付けた。少しでも元気を出せ、と励ました。


 クララは少し笑んで、思う。──今、私たちには荒波が迫っている。心の騒めきが予感させる。不思議なほどに静かなこの街が、それに説得力を持たせている。


 私の気が付かないところで、波は渦を生んで、全てを崩壊させる怪物となり始めているのだろうか。


 □□


 結果から言えば、クララの不安は的中していた。見えない怪物は国を内から貪り、徐々に肥大化していった。


 聖女が殺されたという報を受け、神の教えに熱心な傭兵団や、冒険者、味方を作らずにいさんで早まった貴族などが禁軍と戦闘。それらは半日も経たぬ内に制圧され、首謀者は家族諸共、即日死罪となり、特に王国南部の川は血に染まった。


 他領では聖女の尊さを説く神官が襲われるなどし、聖女信仰は一部地域で破綻。リューデン公爵領を筆頭に、幾つかの領は聖女征伐を宣布した。原典と正教会を利用し、国家を破滅に追いやる悪女なのだとした。それといった根拠は無かったが、それなりに信じる者も多かった。


 国の至る所で小競り合いが起きていた。今回の騒動に絡めて、略奪を行う者も現れた。王の弑逆から一節も経たぬ内に、神聖カレドニア王国は荒国に堕ちようとしていた。


 だがマリアベルはこれを、禁軍征伐の機会と捉えた。国が混乱の最中にあるように、禁軍という組織も混乱していると見込んだ。何故なら、捕らえたフィン・ダーフを奪還する動きを見せない。国の急速な変化にとても追いつけず、足並みが揃わなくなってきたらしい。輝聖の敵を排除するなら、今が好機である。


 マリアベルは机に向かい、領軍が集めた情報を頼りに禁軍の布陣を地図に記し、戦略を練る。


「……けほっ」


 マリアベルは咳をして、口を押さえた。息も荒くなる。


(まただ……)


 海聖の影武者が死んで以降、時折、酷い吐き気がした。視界がゆっくりと右へ回転する。果てしなく酔う。目眩と言えばそうなのだが、それと一言で表すのは正しくない気がしている。


 マリアベルは青い顔をしたまま立ち、フラフラと薔薇の庭園へと足を運んだ。少しでも良い空気を吸いたかった。だが、美しい庭を見ても気分は全く晴れず、ついに泉の近くで胃液を吐き散らかした。


「おえっ……、えっ……」


 碌に食べてもないので、大したものは出ない。ただ、目の前がチカチカとした。


「ハァハァ……」


 この嘔気おうきの原因は良く理解しているつもりだ。輝聖という存在が、負担である。


 彼女と過ごす事で芽生えた様々な感情、つまり、嫉妬も、憎しみも、羨望も、何もかもが、狂おしいほどに未だ鮮明だった。血の滴るほどの生々しさを残して、腹の中で暴れ回っている。


 それに輝聖の役割や、聖女である己の役割が絡んで、鉛のように重くなっている。この嘔気はそうした所から来ているのだと思う。有り体に言えば、緊張プレッシャーに近い。


 焦りもある。ピピン公爵領に挙兵の兆しは見えないから。兵を徴収する様子もなくば、将が集まって話し合う様子もない。そそのかしたところで、挙兵はしないのだろうか。こうしている間にも輝聖が危険な目に遭うかもしれないのに。


 いや、それだけではない。敵にはリューデン公爵とモラン卿がいる。奴らを逃せば、永遠に後悔する。こんな機会は2度と訪れない。──理由をつけて殺せる内に殺したい。生きたまま手足をもぎ、尻の穴から槍を刺し、じっくりと火で炙ってやるのだ。


 朧げに考えている内にまた嘔気が襲い、吐く。反応して涙もはなも垂れ出た。輝聖に対する想いと、聖女としての使命感、マリアベル・デミの怨恨、その全てが吐瀉物になって出るようであった。まるで消化しきれていないのだ。


「羊になりたい。羊のように反芻はんすうしたい」


 今この瞬間にも、思い出す。月のもので吐き気がした時、リトル・キャロルは落ち着くまで背中をさすってくれていた。あの掌の温もりが、背中に蘇る。それを消し去りたくて、舌打ちをかます。


 ──そういえば、海聖が死んだと聞いて、リトル・キャロルは取り乱したろうか。


「……ここにいたか、マリアンヌ・ネヴィル」


 声をかけられ、振り返る。そこに立っているのはロック卿であった。


「酷い顔だな。寝ているのか?」


 マリアベルが沈黙するので、続ける。


「少し話がある。諸々情報が集まったのでな」


「行きましょう。謁見室ですか? もう騎士は集まって──」


「いいや、儂とお前だけじゃ」


 マリアベルは立ち上がり、口の中の胃液を唾で洗って飛ばした。挙兵を決意したのではないのか、と苛立ったのだ。


 □□


 2人は城内にある教会へと入った。そして礼拝堂の隅、衣装部屋ワードローブのような大箱の前に立つ。これは改悛かいしゅんの為の小部屋で、告解部屋と呼ばれた。入り口は2つ存在し、それぞれ別に入った。中で向かい合って座る。2人を分つのは格子こうしである。


「こんな場所ですまんな。あまり聞かれたくない話もある」


 狭い告解部屋、ロック卿は窮屈そうにしながら羊皮紙を取り出す。


「聖女達について調べがついた」


 目を細め、指で文字を追いながら話す。老眼であるし、この部屋は暗い。


 調べた所、大地の聖女はマール伯爵領にて待機中。輝聖と同じ領にいるが共には行動していない。とりあえず健在ではあるらしい。


 風の聖女は巡礼の最中、北方の領、ヘス侯爵領にて拘束されかけるも、第三聖女隊はそれを退ける事に成功した。その後、領から脱出。現在はパドランド伯爵領に匿われている。パドランド卿は空聖の血筋、ヴァン=ローゼス家と婚で結ばれている。


 火の聖女は第一聖女隊を再編。隊を率いている正教軍中佐ジャン・セルピコに動きがあった事から、これは確実である。彼の道程から探るに、現在は大白亜のある聖都アルジャンナの近くに潜んでいるのではないかと予測された。


「さて、次に輝聖についてだが──」


 マリアベルは伏せていた目をゆっくりと上げる。


「禁軍への奇襲は成功したと思って良かろう」


 マール伯爵領軍はジョッシュを将として禁軍へ奇襲攻撃。王師・西夜騎士軍を撤退させた。その後、大白亜に乗り込むつもりであったが、突如現れたリューデン公爵領軍に脇腹を突かれる形で攻撃を受け、撤退したとされる。


「そうですか。輝聖はリューデンの軍隊に被害が出るのを恐れたのでしょう。相変わらずお優しい事だ。反吐が出る」


「ほう。ずいぶんと知った口だな」


 マリアベルは、ふいと目を逸らした。


「まあ良い。一つ、重大な報がある」


 ロック卿はもう一つの書簡を取り出した。封蝋が金に光るのを見て、マリアベルはいぶかしむ。酢を吸ったような表情だった。


「……随分と大袈裟な書簡ですね」


「亡きアルベルト2世からの文なり」


「──何ですって?」


 マリアベルは思わず声を大にした。


「我が主人、ピピン公爵がみまかったその日に届いた。勝手の分からぬ若い女中が受け取ったものの、どうしたら良いのかと開けられずにいたらしい」


「なんと無能な」


「城内の人間全てがせわしくしていた。助けを求めるのもはばかられたのだろう。気持ちはわかるし、本人も自刃を申し出るほど追い詰められている。だから、これ以上は言うな」


 ロック卿は書簡の内容を掻い摘んで話す。一つは、兵を貸し与えて欲しいこと。もう一つは、その兵を大白亜へと送って欲しい事。なお、貸し与えた兵は、国王とロブとで使用する旨が書き記してあった。


「ロブ……」


 ロブは王の実弟である。進軍の最中に襲われ、命を落としたと聞く。


「つまり、大白亜に乗り込む最中に襲われた、という事……? 王が殺されたのは王城ではなく、大白亜……」


「左様」


 大白亜は教皇領である。禁軍が占拠したことが異常なように、そこに王がいる事も異常である。王とは言え、気ままに入ることは出来ないが……。


「何のために王が大白亜へ……」


 言って、直感する。肌が粟立つ。そうだ。王が大白亜にいた理由などは、些細なことだ。それよりも重要なのは──。


「──簒奪者さんだつしゃは、そのまま大白亜に腰を据えている!」


「儂もそう思って伝令の動きを調べさせた。禁軍への命令は殆ど大白亜より飛ばされている」


 それ即ち、敵は大白亜にあることを意味する。マリアベルは呆然とした。


「ぷっ……。ふふっ……」


 そして、くつくつと肩を縦に揺らして、楽しげに笑い始める。いや、笑いは堪えようとはしているが、完全に漏れ出てしまっていると言うべきか、とにかくその様子を見て、ロック卿は不審そうに眉を顰めた。得体の知れない恐ろしさがある。


 マリアベルは日を追うごとにおかしくなっていた。それは誰の目から見ても明らかであった。ハイドラの騒ぎの際にロック卿が感じた、涼やかな逞しさのようなものは、失せた。今あるのは不安定な気である。


「ぷっ。良い。とても良いです。くくっ……。少なくとも、王都よりは攻め込みやすい……。阿呆め……っ。本当に……。ぶぷっ」


 大白亜のある聖都アルジャンナは城塞都市ではない。従って、防御機能はそこまで備わっていない。王都に攻め入るより何十倍も容易である。さらに言えば、王都の守りと大白亜の守りで、禁軍の兵力は分散されているはず。


「マリアンヌ・ネヴィル。貴殿は新王の目的はなんと見る」


「そんなのは決まっているではないですか……。くくっ……」


 マリアベルは目尻に溜まった涙を、小指で拭った。


「──王室の威信を守る為に他なりません。聖女5人を狙った事と、大白亜に腰を据えた事で、それがよく分かる」


 格子の下、張り出した板を指でトントンと楽しげにリズムを刻みながら、続ける。


「新王は恐れているのです。このままでは、自らの血の価値が落ちてしまう。ああ、どうしよう! 何とかしなくては! どうしたら良い⁉︎ そうだ、ならば己の価値を落とす聖女達を殺すしかない。そして信仰の象徴である大白亜を踏み躙り、王がこの国の覇者である事を諸侯に示すのだ。信仰から国を取り返すのだ。そう思っているに違いないッ!」


 頭痛がして、親指で顳顬こめかみを強く押さえて続ける。


「ああ、私にはその気持ちが痛いほどわかる。あははは……。本当に、よく分かる」


 マリアベルは『輝聖は騒擾の元』と謁見の間で言ってのけた。あの時は騎士達に挙兵を唆す為に発言をしたわけだが、結果としてそう遠くない答えを言っていた事も可笑しくて、また笑う。


「まるで昔の私が敵みたい……。鏡写しだ……」


 そして小さな声で呟き、額の汗を拭う。


 ロック卿はマリアベルが落ち着くのを待った。その表情は冷たかった。軽蔑の色に近い。


「さて。状況を更新したところで、いざ本題に入らん」


「ええ。失礼。どうぞ進めてください」


「腹蔵なく申し上げなん。──貴殿は我が領の騎士達から好まれておらぬ」


 マリアベルはピクリと反応した。


「……それで?」


癇癪かんしゃく持ちだの、気ぶり女だの、陰口を叩かれておる。信用されていない。くいう儂も同様に、貴殿の行動に用心している」


 マリアベルは何も言わず、じっと座ったまま、卿の言葉を待つ。


「貴殿はどうやら、このピピン公爵領に挙兵を唆しているようだな?」


「そうだとしたら……?」


 ロック卿は黙った。はぐらかしてくるかと思ったが、目の前の乙女にそのつもりはないらしい。告解部屋であるからだろうか。


「……それと分かってもなお、儂は迷っておる。お主の考えにるかるか。貴殿に何かしらの魂胆があるとは思えど、申すことは必ずしも出鱈目にあらず。領の危機は領の危機であると見る」


「ならば、何に納得がいかない?」


「そうではない。お主が怖い。得体が知れぬ」


 マリアベルはふっと息を漏らして、小さく笑った。


「どうすれば私が怖くなくなりますか? 共に遠足ピクニックにでも行きましょうか? 苺と乳脂クリームをたっぷり挟んだサンドイッチを用意しましょう」


「その儀に及ばず。利口なる乙女、マリアンヌよ。偽りなく質問に答えるべし」


「答えたら私が怖くなくなりますか?」


「さて、な。ただ、信の一歩目は対話なり」


 マリアベルは嫌な笑みを湛えたままに、目を閉じる。深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


「良いでしょう。今は気分がいい」


 そして目を開ける。硝子玉の瞳。あお、薄暗闇に輝く。光の中に強烈な圧。重く、力強い。それはまるで、大きな牙を持つ海獣。先程までとは、随分様子が変わった。


 ロック卿は思う。この乙女は瞳に魂を宿した。己を信頼させるために、魂で会話をしようとしている。若い風貌だが、分かっているのだろう。真に人を納得させるには表面的な嘘偽りなどではなく、魂が必要だということを。つまり、ここから先は嘘は無しらしい。まるで老将の心構えである。正直、驚いた。


「……挙兵して、禁軍に勝てるのか」


「はい」


「我らが兵を見たか。木偶でくの坊であろう」


「はい」


「それでも、勝てると申すか」


「はい」


「何故、そう言える」


「私が指揮を取るからです」


「ほほう。大した自信である」


 ロック卿は苦笑する。自信を馬鹿にした笑いではない。気押されたのだ。


「勝てるだけの理由があります」


「それは?」


「まず、私は天才です。次に、私は神に愛されている。最後に、一つ。これが1番大きい」


「言うてみよ」


「弑逆で地位を手にした王は良き国を作れない。それは『薄明記』や『女王抄』がそうであるように、歴史が証明している。ですが、この国は良き国になる運命にある。従って、新王はたおれる」


「何故、良き国になる。やがて瘴気に飲み込まれるぞ。理屈を述べるべし」


「──この世界には輝聖がいる。悪は滅び、正義は必ず勝つ」


 ロック卿は目を見開く。頬に汗が垂れた。──青い瞳が海を携えて、心に巣食う疑念を食らい尽くそうとしている。


「それが、理由か」


「はい」


「天晴れな物言い。随分と、教えに熱心なのだな」


 マリアベルは質問に答えた。だが、青い乙女に対する得体の知れなさは、ロック卿の中に残ったままだった。ただ、その理由は恐怖心から来るものではない事を察する。卿の考えと勘が正しければ、この乙女は只の人間とは別格の存在。即ち、それは──。


「ここは懺悔室。神の他に誰にも聞かれていない訳であるから、儂は今から独り言を言う」


 マリアベルは煙草に火をつける。


「蝕の日。熟れて腐った真っ赤な太陽が欠けてゆくその時。儂は王都の学園、あの大聖堂にいた」


 ロック卿が独り言だと言うので、マリアベルは何も言うことなく、話に耳を傾けていた。


「その場にいた者に問うと、みな言う。女神の像を腐らせた少女のことを。まさに奇妙奇天烈。忘れたくても忘れられぬ、とな。中には『己はあの場で輝聖と思ったなり』とうそぶく馬鹿者もいる。だが、儂がよくよく覚えているのは、女神像の前で、目に涙を溜め、硬く拳を握った、青い髪の乙女だった」


 狭い空間、煙がもうもうと漂う。


「不思議であった。あれだけ悔しげな顔をしておきながら、最後に呼ばれた紺色の髪の少女を見る、表情。晴れやかであり、憎しみであり、力強さであった。様々な感情の入り混じる、不思議な面持ち。──丁度、其方のように青い瞳であった」


 灰が落ちて、マリアベルの腿を汚した。


「思えば、お主は海のようである」


「海……?」


「左様。その瞳には、あまねく青の原が広がる。時に感情が渦となり波となり、狂った色も見せる。朝は紫に染まり、昼は青を湛え、夕方は赤く燃えて、夜には黒に沈む。太陽が照れば白に輝き、陰れば褪赭セピアに濁る」


 そしてロック卿は、神は海の乙女をそう作るであろう、と言った。それを聞いてマリアベルは、居心地が悪そうに脚を組み直した。


「いつ、気がついたのですか?」


 ふと思ったのは、と前置きしてロック卿は話を続ける。


「梟首の海聖、体を6つに裂かれて各領に回され、見せしめと相成る。隣領ホルスト伯爵領には首が晒されたり。昨日、儂はそれを見に行った。蝕に見た複雑な少女を忘れられぬでな」


 ロック卿は瞼を指差した。


「両の目、切った傷があった。つらつらおもんみるに、二重瞼にしていたのではなかろうか。それで、死して顔がたるみ、目立ったのだろう。目元の黒子も、よく見れば、あれは墨を入れてあった」


 マリアベルは少しばかり笑い、煙草の火を消す。やはりこのロック卿という男、目ざといし、勘も冴える。優秀である。


「さて、海聖として問うて良かろうか」


「はい」


「お主は信ずるに足る存在か?」


「ええ。私が輝聖を守りたいと思っている間は」


「心得た。貴殿には公爵領軍の軍服を支給する。但し、ろくは出せぬぞ」


 そう言ってロック卿は立ち上がった。狭い小部屋、天井に脳天がつきそうである。


「分かりました。しかし、相手は強力です。多少の犠牲は覚悟してください」


「犠牲? そんなものは出させん。命をかけて儂が守ろう。お主は勝つ事に専念するべし」


 マリアベルは黙る。道具にしてやろうと思っていたから、この様に寄り添った態度を取られると、やや困惑した。


「良いか。儂は坊主の身から騎士となった。神は人を愛する。だが、神だけに忠節を誓っていても、神の愛する人々を守ること能わず。人の輪の中で、ただ健気な者となり、弱き者を庇い、命を削る事こそが神のしんであると悟った。くたばったとて、悔いはなし。まあ、欲を言えばお嬢様の花嫁姿は見たい所だがな」


 居心地悪そうに肩をすくめ、扉を開け、続ける。


「よし。聖女なくして世界の太平ならず。話は決まりだ。すぐに挙兵し、諸侯と同盟を結び、速やかに大白亜を奪還せん。陣触れじゃ!」


 散々気を付けていたが、告解部屋から出る際にロック卿は頭をぶつけた。ぶつけた箇所をさすりながら、ばつが悪そうに続けた。


「……ああ。これは坊主として忠告するが、あの娘とは仲直りしておくべし。あれは心から其方のことを怒っていたようだ」


 マリアベルは告解部屋を出た所で、動きを止めた。複雑な表情だった。その様子を見てロック卿は問う。


「いや。其方がウィンフィールドから王都に戻っていないとなると、もしやではなく……」


 噂では、女子のように美しい男子が隊にいたと聞く。身分も特別らしい。だが、告解部屋から出た今、名を言うのは憚られた。


「善き友、で良いのかな?」


 マリアベルは少しばかり頬を赤らめて、目を背けて、言う。


「……わかりません。、まだ私は困惑している」


 ロック卿には『あんな事』がどんな事かは分からなかったが、とにかく、その赤らんだ顔を見て『聖女とはいえ、年相応の表情も持ち合わせるようだ』と、妙に納得して頷いた。同じ人間とは思えぬような様子を見せるが、時にこうして人間としての顔を見せてくれると、それだけで安心する。


「それから、嘔気に悩まされているようだが……」


 そう言って懐から煙管きせるを取り出し、渡した。真鍮と瑠璃で作られた、冴えた青い色の煙管であった。まるで芸術品である。


「気分が優れねば、持ち物を変えてみよ。人は物に囚われ、気を蝕まれるものだ。回復の魔法とかではない。老人の、ちょっとした知恵である」


 マリアベルは無言で煙管を見つめる。


「貴殿にやろう。遥か東に存在した国の道具だ。騎士となった時に先々代の公爵よりたまわった。だが儂は煙草をやらん」


 □□


 煙管に葉を詰め、火をつける。真っ白な煙が暗い部屋に漂った。体に流れ込む煙は穏やかで、絹のように滑らかである。葉の香りも存分に楽しめる。舌への刺激も少ない。気分も幾分健やかである。


 マリアベルは真っ白な軍服に身を包んでいる。椅子に座り、ただ窓から見える星空を見ている。浮かぬ顔つきで想うのは、第三王子リアンの事。怒号が蘇る。


『──その綺麗な姿を見るのが嬉しくて、噛み締めるごとに、あなたの姿が僕の胸の中で大きくなっていく事に、心地よさを感じていた! 感じていたんだッ!』


 心の中で何度も蘇らせた。そうする度に、その言葉の意味が徐々に理解できた。同時、己にとってもそうであった事に気がつく。ひどく寂しい気がしているのは、リアンに会えていないからなのだろうか。あの喧嘩の後、一度も姿を見かけない。城にいるとは思うのだが。


 こんな気分になるのは、ロック卿に善き友かと聞かれたからだ。告解部屋での会話は戦のつもりで挑んだが、最後の最後にしてやられた気分である。


 かつてはリアンと婚を結ぶ事を狙った。それは、自らをモラン卿から離したかったからであり、確固たる地位が欲しかったからだ。だが、今はそうした理由はない。


 なのに、胸に靄がかかる。変に意識する。輝聖を想う気持ちに似ているのかも知れない。でも、そうでもないかも知れない。正直、分からない。静かに、密やかに、困惑している。


 きっと、リアンという存在が利用する為だけの道具ではなくなって、もっと別の何かに変わったのだ。言葉にはし難い、何かに。


 無性に泣きたくなる。

 こうしてリアンの事を考えている時は、人らしい自分に出会えている気もした。それが幸せにも感じる。

 彼のことを考えていると、魑魅魍魎は現れない。妙な気づきだった。


「無様だ、私は。こんな事に脳を使っている場合ではないのに」


 机に向かえない。天の五曜の星カシオペアを眺む。そして、机上の戦略図は静かに佇む。

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