41.再会

 

 デュダ市街地の南通りに古い酒場がある。酒と煙草の匂いの染みついた室内、客は海聖マリアベル、ただ1人。


 マリアベルは桂皮けいひで染められた男物の外套ローブを羽織っていて、傍目から見れば女である事は解らない。頭に鍔の広い帽子ベレーを被っていて、特徴的な青い髪は陰になっている。これはいわゆる流民ないしは旅商人の格好だった。無用な混乱を避けるために姿を隠している。


 窓際の席に座り、落ち着きなく指でとんとんと机を叩き、時折窓の外に目をやる。通りを人が慌ただしく行き交っていて、とても顕現日けんげんびの翌日とは思えない。普通、祭りの次の日と言うものは、みな二日酔いにやられて、情けなくぼんやりとした空気が街中に漂うものだ。


 人波の中に碧眼へきがんを認め、手を挙げて合図を送る。それから程なくして、入り口の扉が開いた。入って来たのは金色の髪を持つ美しい少女。……いや、少年。第三王子リアンだった。リアンは酒場に足を踏み入れるなり、その美しい瞳をころころと動かして、軽く辺りを見渡す。


「誰もいませんよ。たった今、酒場の主人もどこかに行ってしまった」


 リアンはふうと息を吐いて、マリアベルの向かいに座った。


「どうでした?」


「制札が立てられていました。──王が死んだ、と」


 マリアベルは"やはり"と呟いて、親指の爪を噛む。


 午前7時。2人は水晶の神殿に向かう為にデュダの街に入った。だが、どうも街の様子がおかしい。人々は蜂の巣を突いたように騒いでいて、狼狽えて、混乱していた。そして、みなが口にしているのは、


 果たしてこれは本当か偽りか。リアンは居ても立ってもいられなくなって、マリアベルをその場に残し、真偽を確かめに広場へと向かった。そこに制札が立っていると、人の波の中で、そう聞こえた気がしたから。


「この酒場の主人も、バタバタと外へ飛び出してしまった。余程、騒ぎに加わりたいのでしょう。客がいるのに店を空けるなんて、全く、不用心な」


「外では噂好きのおじさんおばさんが騒ぎ立てています。街のどこを切り取っても大騒ぎです」


 わあわあとした喧騒は板の壁を抜いて、暗く静まり返った酒場の中まで押し寄せている。


「……リアン、王が死んだことの信憑性は?」


 今、リアンの頭の中で蘇るのは、昨晩の夢。ふいに王が現れた、あの一室。そして、一夜明けても未だ耳にこびりついたままなのは、恐ろしい遺言。


 ──次なる王は必ず殺せ。


「確かかと」


「そうですか。心中お察しします」


「いえ」


 リアンは軽く首を横に張った。


 王は父だ。だが、父を失った事に不思議と喪失感はない。それは、王を父だと思ったことがないからだろう。城に入ってからも接点は特になかった。田舎で共に暮らしていた継親ままおやのほうが、父だという実感がある。正直な所、王は赤の他人に等しい。


 しかし、あの夜の、あの言葉は悍ましく身体に残り、背筋を撫で続ける。これはまるで呪いだった。


「そして、現場にロザリオが残されていたそうです。柄は蔓苔桃クランベリー


 マリアベルは頬杖をつき、指でとんとんと机を叩く。


 蔓苔桃は、リンカーンシャー公爵家の象徴として名が知れている。そして、この家の出身として真っ先に思いつくのは、火の聖女ニスモ・フランベルジュ。


 リンカーンシャー公爵家は先祖を辿ると王族であり、今なおも王家を支える大貴族の一つ。聖女を排出した事でさらに力は増し、諸侯の中で1番の影響力を持つと言っても良いだろう。軍事力も高く、民も豊かで、人口も多い。


 マリアベルは正面のリアンに目を移す。悪く言えば幸の薄いような透明感のあるその顔立ちが、暗く、濁っているように感じだ。何か、大きな不安を抱えているような、気負っているような。──恐らくだが、何か、隠し事をしているのではあるまいか。


「……まあ、一旦そのことは置いておきます。情報が出揃わない限り、考えても仕方がないから」


 そう言って、机を指で打ち続ける。この仕草はここ暫くの癖であり、自ら旅する事を選んでから現れた。今まで誰かを利用したり頼る事に甘えてきたから、自分だけで1から100までを考えるのが落ち着かず、思考をまとめるのに多少の刺激が欲しくなるのだった。


「そんな事よりも今やらなくてはならないのは、あなたの姿を隠すこと」


「やはり狙われます……、よね」


「王が殺された理由わけを知らないからハッキリとは言えませんが、可能性がないわけではありません。予防はしておいた方が良いでしょう」


 マリアベルは背負袋の中から女物のチュニックを取り出した。


「変装です。ここからは男を捨てて女として生きてください」


 リアンはギョッと目を丸くする。


「今だって王族と悟られないように男物は身につけないようにしていますが……、それは本当の本当に、正真正銘、女装ではありませんか……」


「可愛らしい頭巾ボンネットとリボンもあるのでつけましょう」


 取り出されたそれは、流行りの品だった。


「い、いつの間にそんなものを買っていたのですか……」


「ウィンフィールドを出てから、割とすぐに。いずれ必要になるかと思って」


 リアンは腕を組み、呆れるようにして目を細め、マリアベルをじっと見る。女装は、まあ分かる。受け入れても良い。だが、頭巾とリボンは少し待ってほしい。悪ふざけが過ぎるのではないか、と。


「何ですか、その目は」


 マリアベルはそう言って、わざとらしく嫌な溜息をついて、冷たい視線をくれた。


「いいですか? 此処から先は少しの油断が命取りになるものと思いなさい。つまらない自尊心で命を落として何になりますか。さあ、早く着替えなさい。今すぐに。ここで」


 リアンは、マリアベルと一緒に旅をしてみて分かった事がある。海聖はやっぱり何処か冷たい。人の心がないとまでは言わないが、非情であることは確かで、良く言えば現実主義者的な面がある。


 ある街で、子供の乞食に会った。あまりに痩せこけていた可哀想だったので、リアンは何かを恵んでやろうとしたが、その隣でマリアベルは『その必要はない』と冷たく言った。続けて言うには、この乞食はまだ自分の足で歩けるのだから酒場のゴミ溜めを漁って立派な残飯を得れば良いらしい。だから放っておくべきなのだそうだ。


 またある日、街道で浮民に囲まれて『お恵みを』と迫られた事があった。その際にも『そんなものはない』と冷たく言ってのけた。そして、焦った浮民が荷物を奪おうとした所、魔法で懲らしめた上に、血の滴るままに街道の中央に並ばせて説教までした。


 マリアベルが言うには、こうである。こうして街道で旅人を待ち構え、たかり、暴力を振るおうという覚悟があるなら、なぜ商隊に泣きついて荷物持ちの一つを買って出て、駄賃を得ようとしない。その性根が己を乞食の身に落としているのであり、全ては甘えが生んだ結果である。己の軟弱を知らぬまま無様に潰えろ。だそうだ。


 確かにそれを否定することは出来ないのだが、全くもって情がない。それに、言い方というものがある、とリアンは思う。


「……でも、頭巾やリボンはちょっと」


 リアンが頭巾の線帯レースを指でなぞりながら苦笑すると、マリアベルは素っ気なく言う。


「さすが王族。危機感というものが無いご様子」


 リアンは見逃さなかった。その冷たい表情に、若干の笑みが宿った事を。


(あっ……! こ、この人、笑った……!)


 澄ました顔をしているが、笑みが隠しきれていない。漏れてしまっている。なんと言うか、が透けて見えている気がする。


 本当のところ、女装が見たいだけではないか? ああ、これはそうだ。絶対そうだ。そうに違いない。田舎で暮らしていた時に、近隣に住んでいた年上の女子たちに女装をさせられたのを思い出した。


 リアンはマリアベルの事がよく分かっている。この女は確かに非情かも知れない。が、冷たさの裏に、茶目っ気にも似たがある。


 山道でマリアベルが足を挫いた事があった。大した怪我では無かったので、魔法なりポーションなりで治癒すれば良いと思ったが、なんやかんやと妙な理屈をつけて『リアンがおぶるべき』と決めつけ、結局背負った。


 また、野営の最中、もう寝ようという時に『今の内に甘いものを手に入れたほうが良い』と言い出して蜂の巣を取りに付き合わされた事もある。確かポーションを作るのに必要だからとか言っていた気がするが、あれはただ、自分が蜂蜜を食べたい気分だっただけだ。だって、あの後別にポーションを作っていないから。


 酷い時などは夜中に突然『背中を掻いてほしい』と言って起こす。あれは理由がなかった。ただ掻いて欲しかったんだと思う。


 今回の女装の件も、恐らくはこれまでの事例と近しいのではないか。即ち、己が女の格好をするのを見てみたいから、そういう機会を探っていた。その程度のものだろう。一目見たら飽きて『もういいです』と言って、服を戻すに違いない。


 第二聖女隊が存在した頃もそうだったが、マリアベルという女子はひどく人を振り回す。その手腕は天才的と言ってもいい。その癖他人には厳しい。ただ、幼稚さの延長として厳しいのかと思えば、決してそうではなく、如何にも達観している風であった。


「……分かりましたよ。着替えれば良いんでしょう」


 まあ良いか。女装云々のせいで、すこし拍子抜けした。王の死と遺言が重たくのしかかっていたのが、不思議と和らいだ気がする。


 諦めて頭巾を手にすると、マリアベルは満足そうに、にんまりと笑った。そのな笑顔を見ると、まさか己が気負っていたのを察して、和らげてやろうとこんな問答をしてきたのではあるまいか、という疑念すら生まれる。だとしたら、まんまとやられたと言うか、なんと言うか。それも情けない。簡単な男みたいで。


「聖地に行くのは一旦控えましょう。無闇に行動するのは危険かも知れない」


「僕たちの動きは、どれだけ知られているのでしょうか」


「相手が誰なのかが分からないのでなんとも言えませんが、それなりに知られていると思って行動したほうが良い。王都には私の影武者がいて、一般的には海聖は健在だと思われていますが、が第三王子と行方を晦ませたのは、知る人なら知る話」


 マリアベルはリボンを指に巻き、押さえ、流行りの綺麗なカールを作ろうとしている。


「私は髪を切って、あなたも姿を隠しているとは言え、背格好はそう変えられない」


「背格好だけで僕たちに辿り着けるのでしょうか」


「甘い。。考えうる全ての可能性を頭に入れて、行動をしないといけない」


 リアンが頭巾を頭につけようとした時、帳場カウンターの後ろにある勝手口が開いた。主人の老人が帰ってきたのだ。


 老人は訝しむような目つきで、じっと2人を見た。マリアベルは気にする風もなく『注文を』と手を上げる。すると老人はぎゅうと眉間に皺を寄せた。


「……1人客だと思っていたが、2人だったのか」


 さらに値踏みをするようにじっと見続け、また勝手口から出てしまった。


「怪しまれたかも知れませんね」


 そう呟き、マリアベルは窓の外に目を向け、老人の動きを追う。行き交う人々の中、甲冑の兵士に声をかけたようだ。果たしてこれはピピン公爵領軍か、自警団かなんなのか、この場所からでは何とも言えないが、どうやら己らがいることを告げ口をしているらしい。


「リアンがさっさと着替えないから」


「やはり、何者かが僕の事を探しているのか……」


 勝手口から入ってきたのは、二人組の兵士だった。マリアベルとリアンは、彼らの檳榔子びんろうじの黒で染められた陣羽織サーコートと、草の根のような紫紺の甲冑よろいを見て、机越しに目を合わせて事態の重さを共有した。──黒い甲冑は禁軍の証。


 禁軍は王の兵。その彼らが王の殺された翌日に、仰々しく装備を施した上でリアンを探しているとなれば、それは意味深だ。


 リアンは生唾を飲み込み、兵を見る。その兵の目は疑念の眼差しで、己の背格好を隅々まで観察しているように見えた。


「王師、北海騎士軍である。貴様ら、どこから来た」


 マリアベルは2人の兵の内、話していない方が剣の柄に手をやっている事に気がついた。少しでも不審な動きをすれば、斬るつもりか。こうもあからさまに用心されてしまうとは、これはかなり穏やかでない。適当な会話をして少しでも情報を引き出したかったが、さっさと逃げた方が良さそうだ。


 さて、どうする。酒場の外は人で行き交っている。派手な魔法を使って目立つのは賢い選択とは思えない。


「我々はある2を探して──」


 突如、マリアベルは机を蹴り上げた。兵は突然迫った机に躊躇し、後退りをする。もう1人の兵が剣で机を両断した。が、すでにリアンとマリアベルの姿はない。


「……消えた!」


 兵は中途半端に開いた表口の扉を見て、ようやく逃した事を理解した。


「この素早い身のこなし、間違いない……! ──だ! を追え!」


□□


 クララは喧騒の中を早足で行く。顔からは血の気が引いていて、激しく打つ心臓の鼓動で瞳が揺れ、息も荒い。狼狽ろうばいしていた。


 ──どうしよう。大変なことをしてしまったのかも知れない。


 制札に貼られていたロザリオの絵は確かに、赤髪の少女が持っていたものだ。となると王様が死んでしまったのは、あの子のせい? まさか、あの子が殺してしまった? あの子を助けたのは己だ。つまり、己のせいで王様が死んでしまったということになる。


 意味深な事を言っていたのを思い出す。確か、もう一度、働けるとか、なんとか。じゃあ仕事と言うのは王の暗殺?


 もしも。本当に、そうだとしたら。不安が的中してしまったら。そしたら、己はどうしたらいい? 責任を取らなくてはならないのではないか。だってこんなの、共犯だと思われても仕方がない。


 どうしてこんな事になってしまったのだろう。誰かに話した方がいいのだろうか。でも、どうやって話せば良い。誰に話したら良いかも、わからない。もう、何もかもがわからない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。目眩もして来たし、手足も冷えてきた。


「誰か助けて……。もう分からない……」


 正義感の強いクララは、何かをしなくてはならないと考えた。でも何をしたらいいかがわからない。自分が出来ることなんて何もない気がしている。だからと言って逃げてしまうわけにもいかない。どうしよう。


 ……いや、ちょっと待って。あんなに優しい子が、そんな事をするだろうか。そうだ。するわけがない。きっとそうだ。何かの間違いなんだ。ロザリオだって、似ているだけで本当は別物。自分だって細かな所は覚えていないのだから、そんなに焦ることもない。思い過ごしの可能性も十分にある。


 冷静になろう。冷静になって、あの赤髪の少女を探す事から始めよう。そして、話を聞こう。


 あの子は昨夜に消えた。ということは、まだ遠くには行っていないはず。そう、遠くには行っていないのだから王を殺す事なんか出来るわけがない。それに、昨晩は祭りの後だったから人も多かったのだし、彼女を見かけた人だっているに違いない。聞き込んで行けば、やがて見つける事が出来そうだ。


「あっ、あっ、あのっ、すみませんっ!」


 クララは偶々近くにいた背の高い男に、縋るようにして話しかけた。冷静になれ、冷静になれと自分を落ち着けようとはしていたが、その実、とても焦っていたから、男が黒い軍服を着ていた事はさして気にならなかった。


「人を探していて……! あの、その……っ!」


「人を……?」


 優しそうな男だった。笑みで焦るクララを落ち着けて、話を聞こうとしている。


「赤い髪の女の子で、雀斑そばかすがあって、体に不思議な刺青があって、それで、私の友達で……!」


 言って、気がつく。柔和な表情で話を聞いていた男の目の色が変わった。


「あっ……!」


 そして、無言で腕を強く掴まれた。


 ──逃げなきゃ。


 何で腕を掴まれたのかは分からない。だが腕から伝わる痛みが、敵意の証となってクララを追い立てた。渾身の力を込めて、その手を振り払い、走って逃げる。後ろから声がしている。逃げた、逃げた、と。


 クララは走りながら振り返った。黒い甲冑の兵士も、こちらに向かってきているようだ。


 どうして武装した兵士が、追いかけてくる? 

 捕まってしまう?

 もしかして、赤髪の少女を助けたから?

 これは、罪だったのだろうか。

 でも、罪だなんて言われたって。

 じゃあ、あのまま死んでしまうのを放っておけと言うのか。

 怖い。

 こんな事になるなら、きっと、人なんか助けなきゃ良かったんだ。


 クララは人混みを避けて、閑散とした地区に入り、路地裏に入り込んだ。必死に走りながら、心の中でアンナ・テレジンに助けを求めた。そして、ウィンフィールドに帰して欲しいと願う。自分が悪かった。我儘をしてごめんなさい。だから、もう、これ以上酷い目に遭わさないで、と繰り返した。


 逃げて逃げて、逃げた先は袋小路だった。振り返ると、黒い甲冑の兵士が3人、そして軍服を着込んだ男がいる。


「なぜ、逃げる?」


 軍服の男の質問には答えず、必死に首を横に振った。何かを言いたいのだけれど、恐怖ですぐに言葉が出てこなくて、こうすることしか出来ない。


「この女、何か知っているぞ」


「一緒に来い。話を詳しく聞かせろ」


 男達が近寄ってくるが、それでも首を振る。ついには兵の1人が剣を抜いた。武器を見せて、従わせるつもりだった。


 クララは太陽の光に輝く刃を見て、へたり込む。そしてロザリオを握りしめ、目をぎゅっと瞑って、神に助けを乞う。


 祈っていると、辛かった思い出ばかりが蘇る。瘴気が迫って領から逃げ出した時の、丘から見下ろした街の炎。空を舞う灰の輝き。鼻を刺激する、両親が狂って死んだ時の、あの部屋の酸っぱい臭い。耳鳴りに混じって聞こえるのは埋葬時のバグパイプ、悲しげな旋律。


 良い事も楽しい事もたくさんあったはずなのに、蘇るのはどうしたって辛い思い出ばかりだった。それで初めて、己はつまらない人生を歩んできたのだと理解する。


 がしゃり、と金属の音がした。きっと、剣を振り上げた時の、鎧の音だ。大人しく従わなかったから、斬られてしまうんだと思う。それも、仕方ないのかもしれない。最期に、アンナの顔を見たかった。


「……」


 待っても、剣が振り下ろされない。


 クララは祈りの手を緩めて、恐る恐る、ゆっくりと、目を開けた。鎧の男3人と軍服の男1人が、倒れている。


「え……?」


 クララは立ち上がり、そっと軍服の男に近寄った。呼吸はあるようだが、弱い。いや、それだけじゃない。顔が濡れている。汗、だろうか。いや、汗だとしても倒れている理由にはならない。訳がわからなかった。一体、何がどうなっているのか。


「……クララ? 確か名前を、クララ・ドーソン」


 突如、名前を呼ばれて、顔を上げる。


 逆光の中に立つ影。1人は旅人風の格好をしていて、もう1人は、頭巾をした女の子だった。見つめていると徐々に目が慣れてきて、影になった者の顔もハッキリとしてきた。


「聖女、さま……?」


 見間違えるわけがない。可愛らしさの中に少しの妖艶さの混じる整った顔立ち、泣きぼくろ、そして海を思わせる青い瞳。


 海聖は王都にいるはずなのに何故デュダにいるのか、という疑問は浮かばなかった。ただ、会いたかった人が、そこにいる。旅の理由が、そこにある。それを認めた時、なんだか自然に涙が溢れてきて、拭っても拭っても止める事も出来なくて、クララは大声をあげて泣いてしまった。


□□


 3人は一先ず人目のつかない所へと移動する事にした。人に紛れて教会を目指し、熱心な礼拝者のふりをして侵入。神官の目を盗んで鐘塔へと登る。マリアベルは巨大な鐘の横で、柵にもたれながら喧騒の街を見下ろす。


 デュダの街は美しい。教会前の広場を中心に、美しい煉瓦作りの街並みが放射状に広がってゆくのが特徴だった。広場から伸びる大通りを辿っていくと、急に道が切れてしまう。そこから先が、かの有名な『デュダの水路』である。


 この水路のある区域は旧市街と呼ばれており、デュダのハイドラが起こした地殻変動によってハックル湖の水が流れ込み、冠水しているのだった。街は凡そ13フィートほど水に浸っており、残っている建物の2階部分には人が住んでいて、人々は船で移動する必要があった。太陽の光に照らされる水の街があまりに美しいので、ここを目指して旅をする商人や芸人も珍しくはなかった。


 旧市街で特徴的なのは、水上に建つ水晶の神殿。その名の通り建築の殆どが水晶で作られており、狭い間隔で柱が並んで屋根を支えている。その幻想的で荘重な神殿には、旧市街を水の街にしてしまったデュダのハイドラが眠る。街が水に沈んで数百年と経つが、それでも建物の傷みが少ないのは、この神殿から発する魔力によるものだと言われている。


「禁軍が何かを追っていたのが見えたので、彼らの目的を知るために後をつけたのですが……。まさか、追われているのが、あなただったとは……」


 マリアベルはそう言って帽子を取り、軽く空を見上げた。旧市街から水の匂いを運んできた秋風が、汗ばんだ額を撫でて気持ちがいい。


 クララはその短い青い髪を見て少し驚いたが、あえてそれを声にはしなかった。それから、この街に辿り着くまで、そして辿り着いたから何があったのかを、ぽつぽつと話した。ウィンフィールドから出てきた事、歩いて旅を続けた事、──そして、不思議な赤髪の女子を助けた事。


 ただ、マリアベルを探して旅を始めた事は頭から抜けてしまって、話せなかった。この数日が、あまりに激動だったから。


「……あの子は王様を殺してしまったのかも知れません」


 マリアベルは黙ってクララの話を聞いている。リアンも同様だった。


「そして、私は、あの子を助けてしまった。私も、同罪なんです」


 クララは泣きそうになるのを堪えながら、続けた。


「ごめんなさい……っ。助けなきゃ良かったんだと思います……っ。人助けなんてっ、自分が苦しくなるだけなのに、それを分かっていたはずなのに……っ。わっ、私が……っ、甘いから……っ」


「それは違う」


 マリアベルは微笑んで言う。


「あなたは良いことをした。そんな事は言わないで。あなたには、優しいあなたのままでいて欲しいから」


 クララは黙り、頷く。聖女の優しい声色と言葉が、胸に沁みた。慈愛の笑みも、体を軽くしてくれる。


 今朝から今まで、暗くて冷たくて狭い箱の中をぐるぐる走り回っていたような、そんな気がしていた。どうしたいのかも、どうしたらいいのかも、何もかもが分からなかった。それを今、この人が箱の中の己を優しく手で包んで、救い出してくれた。そう、思えた。


 やっぱりマリアベル・デミは救いの聖女だ。こんなに素敵な人が、悪女な訳がない。良かった。旅をして、本当に良かった。


「クララが狙われたのは、赤髪の少女を助けたからじゃない」


「え……?」


 マリアベルは笑みを浮かべたまま続ける。


「それだと、リアンが狙われた理由と繋がらない」


「リアン……?」


 クララはマリアベルが見る方を見た。そこにいるのは、三角座りをする女の子。この子がリアンという名前、なのだろうか。男の名前だが。


「第三王子です」


 マリアベルがそう言うと、リアンは少しの間を置き、頬を赤らめてから頷いた。若干、目も潤んでいる。


「はい……っ⁉︎」


 クララは驚愕のあまりに飛び上がった。


「なっ、何でこんな場所に王子さまが……!」


 ──いや、待てよ。たしかウィンフィールドに来た第二聖女隊には王族がいると、まことしやかに囁かれていた気がする。まさか、それが、第三王子リアンなのか。


 いや、王族がこんな場所にいる事は一先ず置いておいて、何ゆえこんな格好をしているのか。ええい、今日はわからない事ばかりだ。己もこんな格好で、無礼ではないだろうか。


 慌てるクララも、言い訳をしようと言葉を探しているリアンも気にする風もなく、マリアベルは話を進める。


「これは恐らく、ですが。──王室内で反乱があったのではないかと私は睨んでいます」


「は、反乱……?」


 クララは目を丸くして呟く。努力こそはしているが、もう話の行方について行けていない。


「……そうか。反乱、か。あるかも知れません」


 一方でリアンは冷静に頷き、思い返した。


 酒場で禁軍に怪しまれた時、兵は己の姿をじっと見てから、武器に手を添えた。となると、武力を行使しても捕らえたかったか、もしくはこの場で殺すのも良いとしていたか。とにかく慎重さを欠いている。


 反乱があったのであれば、その行動に説明がつくし、禁軍が出張ってくる事にも納得がいく。何者かが禁軍を手中に収めていて、その上で王を抹殺した。


「反乱なら、歴史がそうであるように、それに与しない王族は全員殺されます。少なくとも、私が反乱者側の立場ならそうする」


 マリアベルはそう言いながら、自らの首を親指で掻き切る動作を取る。


「リアンは学園に在籍していたし、私と旅をしていたから、王室の事情には疎い。また、妾の子という複雑な立場にあるから、何者かに担ぎ出されて政治的に利用される前に、殺してしまおうという考えはよくわかります」


 続ける。


「ちなみに、クララの言う赤髪の女子は、火の聖女です。焔聖えんせいニスモ・フランベルジュ」


 クララはまた驚愕してしまって、目を見開いたまま口をぱくぱくとさせた。


「王を殺したのは彼女じゃないから安心して良いですよ。道理もないし、制札が出るのも早すぎる。まるで、初めから計画していたみたい」


 普通、こうした事件が起きた場合、真偽を確かめるのに数日を費やす。また、ありのままに情報を出せば混乱に繋がるものだから、手早く情報を仕入れていても開示には慎重になる領主も多い。この街は王都に近いから、みな、制札が立てられた事にあまり疑問を持っていないようだけど、あまりに早すぎる。


「初めから犯人は火の聖女であると言い切らずに、蔓苔桃で仄めかすのも回りくどくて怪しい。嵌められたんですよ、焔聖は」


「ちょっ、ちょっと待ってください……っ!」


 クララは夜学の授業でついて行けなくなった時のように、ぴんと挙手をした。


「どっ、どうして、せ、聖女が、たった1人で街道に……? だっ、だって、普通、マリアベル様みたいに、聖女隊を率いて行動するのでは……」


「何故1人で行動するのか? ですって、リアン」


 マリアベルは冷たく笑ってリアンを見た。リアンも苦笑している。妙な反応だった。


「いや、何というか、、としか言いようがないです……。彼女が1人で行動することに関しては、あまり違和感がありません」


「だ、そうです。──ニスモ・フランベルジュは誰も信用していない。自分の隊も、他の聖女も。は見るもの全てに噛み付く狂犬と思ってください」


 マリアベルは冷たく言い放つ。どうやら、焔聖の事をあまりよく思っていないようだった。


 クララは赤髪の少女を思い出していた。寂しそうな目と、無邪気で可愛い笑み。優しくて、頭が良くて、薄らと花の香りがして……。なんだか、この2人の反応と、自分の知っているあの子が、繋がらない。別人の事を話しているみたいだ。


「……で、でも、聖女に罪をなすりつけようとするなんて。一体、どんな目的で」


 マリアベルは、これには黙った。なすりつけようとした相手も、その理由も、まだ見えてこない。聖女は世界を救う希望。それに罪をなすりつけて、何になる。


「……聞きそびれていた事が一点。彼女、怪我をしていたと言いましたね」


 これも大いに気になった。聖女の体は普通、怪我をしたその場で修復されていくものだった。だが、クララの話を聞くに、どうもそうではない。暫く看病が必要なほどに傷ついたのだ。何故だろう。


「は、はい。その……、関係あるかは分からないのだけれど、あの子の傷口から、こんなものが出てきたんです」


 クララが背負袋の中から取り出したのは、小さな宝石だった。マリアベルはそれを手に取って観察する。宝石は楕円形で、小さな文字で呪文が書かれている。見る限り、銃弾に似ているような気もする。


 そして、見ていると力が抜けていくような感覚を覚える。魔道具の類だと思うが、見たことがないから、よく分からない。


「……チッ」


 マリアベルは小さく舌打ちをした。今の瞬間、考えてしまったのだ。リトル・キャロルの事を。


 あの娘なら、この術を知っているだろうか? 意見を聞いてみたい、触ってみて欲しい、と思ってしまった。ええい、いつまで経ってもリトル・キャロルの幻影が頭から離れない。髪まで切って変わるための覚悟を決めたのに、馬鹿みたいだ。


 苛立って、さらに蘇るのは昨晩の卜占。


 ──輝聖の業を背負え。


 この事件と関係があるのだろうか。ああ、あの娘の顔を思い出してしまって、なんだか胸が重くて苦しい。全身がざわざわとしてくる。この不思議な宝石のせいだろうか。


「……一旦、これは預けます。全容を知るのに役立つと思うから」


 クララに宝石を返すと、リアンが問うた。


「これから、どうするんですか? デュダから離れますか?」


 言われて、マリアベルは再び街を見下ろす。先ほどクララを追い詰めていた袋小路には、既に禁軍の姿はない。誰かが回収したのだろう。


 そして黒い甲冑の兵は街中を練り歩き、人々に何かを聞き回っているようだった。ここから確認できるだけでも、その数は凡そ15人ほど。


「……禁軍が私たちの行方を探している」


 兵達は焦っているのか、やり方が随分雑なようだ。協力的でない街人の胸ぐらを掴んだり、剣を見せて脅す兵もいる。傍若無人とも取れるその振る舞いを、マリアベルは冷たく見下ろしていた。


「なんだかだんだん、腹が立ってきましたね。……群れる事にしか価値がない蛆虫共が調子に乗っている」


 クララはその低い声を聞いて、目をぱちくりと瞬かせた。先ほどの優しい聖女と同一人物とは思えない、キツい発言。


「考えてもみてください。彼らは陸で溺れさせた兵達を回収してなお、私たちを探しているんです。その意味がわかりますか? 顔に膜を張るように水を纏わせて肺を水で満たす、あの繊細な魔法を見て、なおも私たちを捕まえようとしているんですよ。そんな事、この世界の誰が出来ますか? 輝聖か海聖わたしくらいのものです。その私を倒せると思っているんですよ、彼らは。酷い舐められようです」


 マリアベルが淡々と言うのに、リアンはそろりと割って入った。


「倒れた兵を見ても魔法の内容がわからなかったのでは……?」


「ならば低脳であることの証左に他なりません」


 海聖はぴしゃりと言う。


「たとえ低脳であろうと。第3王子が海聖マリアベルと共に行動をしているという事くらいは、禁軍も調べがついているはず。その上でリアンを狙うと言うことは、つまりそういうことですよね? そうですよね? 私に勝てると思っているんですよね?」


 この問いは自分への問いかけに近いものだったが、クララは気を回して答えようと言葉を探した。が、マリアベルは淡々と、至極淡々と続ける。


「思い返せば、酒場でのあの態度。剣を見せれば大人しく従うだろうと思ったのでしょうか。この私が。一体何様のつもりなんでしょうか。脳が膿んでいるのでしょうか。梅毒でしょうか。譫妄せんもうでしょうか。そもそも、禁軍如きがそんなに偉いのですか? 勝手に他領にまで入り込む権限はないはず」


 マリアベルは涼しい顔のまま、連続で舌打ちを始めた。


「ああ、もう我慢なりません。ピピン公爵領軍はどうしたのですか。あんな我が物顔で街を彷徨かれて、腹が立たないのですか。剛毅ごうきの益荒男と恐れられたのは、今や昔の話ですか。街人も街人です。禁軍でも、同じ人間。しかも所詮は騎士の息子。自分の力で手に入れた地位でもなんでもない。父母の愛をいっぱいに受けて、ぬくぬくと温室で育って、おべっかだらけの家庭教師と遊んで、それで強くなった気になっている大間抜け。なぜ街人は、胸ぐらを掴まれて、剣を見せられて、嫌な顔一つしない。媚び諂う。灰汁あくで床を磨かなきゃいけない修道女の方が余程苦労を強いられている」


 マリアベルには我慢ならない事がある。それは、自分の事を知りもしない誰かに見下されることであり、上に立つ程の人間でない者が偉そうに振る舞う姿を見る事。


 そしてその苛立ちは、聖女になった時に街人の顔を見て値踏みをしていた己の姿を思い出させた。自分がされて我慢ならない事をしていた事実にさらに腹が立ち、マリアベルのはらわたは真っ赤になって沸騰し、煮えて弾けて飛び散るほどだった。


「丁度いい。私たちも便所虫にたむろされているとろくに行動も出来ませんから、少し遊んであげましょうか」


 それに対し、リアンが言いづらそうに意見する。


「いや、しかし……。禁軍に対する攻撃は王家に対する攻撃になってしまうのでは……」


「禁軍に対する攻撃は既に行いました。今更です。リアン、銃を準備しなさい。私にいい考えがあります」


 リアンは額に手を当てた。己が反発したから、余計にその気になってしまった。迂闊だった。


 クララは呆然としている。なんだか、あの優しい聖女の姿が、一瞬にして消えてしまったようだ。その氷のように冷たい目、血の通っていなさそうな牛乳のように白い顔、近寄りがたい刺々しい気配。何と言うか、アンナが言っていたの雰囲気に近い。


 怖気ついたような表情を浮かべるクララを見て、マリアベルは言う。


「期待していた海聖ではありませんでしたか? 夢を見せ続けるのも残酷なんで言いますが、私には慈愛なんて無いし、人を見て区別はするし、せっかちで自分勝手で、クララの思うような優れた人格は持ち合わせていません」


 そして、悪意の笑みとなって続ける。


「──私、聖女の中では群を抜いて性格が悪いんです」


 クララはちらりとリアンを見たが、残念なことに彼はそれについて否定をしなかった。

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