第15話 ただいま

 スミレは空を昇るように意識を心の奥底へ穿っていく。心の層は深い海のように真っ暗闇だった。


 どこまで下りたか分からなくなったころ、ふと底面に手がついた感覚を覚える。柔らかいようで固い、すべすべ、ごつごつ、ふわふわ、べとべと? 何とも言い難い独特な肌触りが指先を伝う。これは私の心。きっと奥がエタの心。下手に刺激すると何が起こるか知れたもんじゃない。


                『エタ……』


 その存在を確かめるようにゆっくり男の名前を呼ぶ。世界に現出されない内なる呼称。声も出さず呼びかけを繰り返しているうちに、触れ続けている右手が底面をスッと透過する。無意識の相手に受容された合図だ。


 ここから先はエタの心。本来、みだりに踏み込んではいけない秘められたる世界。一歩間違えると、私はこの世界に閉じ込められ、エタは二度と目覚めない。


 緊張のあまり下唇を噛む。


 スミレは後遺症が残らないように細心を払いながら、フロンティアへ足を進めた。



 心の領域は持ち主の心象が色濃く関わる。明るいのか暗いのか。温かいのか冷たいのか。色調、雰囲気、においや音、感触、光景、誰が映るのかなど人によって全く異なるさまを見せる。ある人は、幼少期に訪れた懐かしき田園風景であった。またある人は、蛍光色の空に浮かぶ泡の中に人間が入っていた。またある人たちは、戦火に苦しみ、飢えと己の非力さに絶望していた。


 スミレは幽霊と会話し、その心象風景に入り込むことが可能なのである。


 スミレがエタの心に入って初めに感じたものは、砂嵐の感覚だ。


 エタの心は暗かった。冷たかった。ダークでディープな感じがした。ザザザ、というノイズが鳴り響いて、血生臭い。とげとげしい感触が肌を突き刺す、暗い戦場であった。


              『エタ……』


 再び祈り始める。この心象風景のどこかにエタの魂が彷徨っている。そして、その魂に話しかけて帰還を促す。スミレはいつも誰かと話をしていた。


 祈りを繰り返しても彼の魂は導かれなかった。これではだめだ、と思い奥の方へと飛び始める。


 見渡す限りは血に溢れていた。そこら中に重火器が見つかる。くぐもった空には飛行する戦闘機が見える。ところどころで炎や雷が光り、ねじ曲がったり押し広げられたりする地形が飛散している。いったいここはどこの地域だろうか。


 しかし、どうにも引っかかる。この光景には何かが足りない。そんな気がしてならない。足りない何かを考えながらエタを探していると、浮遊するサブマシンガンにぶつかった。銃はカシャンと地に落とし、赤い液体と共にバラバラになった。しまった、と慌てたが、同時に突っかかっていたしこりが喉を通る。


「人間がいない……」


 銃身の持ち手も、戦闘機の操縦者も、謎の現象の発生源にもどこにも人間の姿が見当たらない。どころか、死体すらも無い。目に見えるのは血だけ。エタの褪せた戦場に映る者は誰もいなかった。


 不思議に感じながらも進んでいると、やがて開けた空間に出た。空は青かった。痩せこけた寂しい土地であったが、血の匂いとノイズは感じない。わずかな安穏なのだろう、少し穏やかな気持ちになれた。


 そこに男が見えた。たった一人で慟哭している。溢れんばかりの涙は枯れた大地に潤いを与えた。そこからは青い花が咲き始める。よく見れば男の陰に少女が横たわっているのが見える。あれはきっと――。


「私……」


 声といっしょに少女が消える。縋るように泣きわめいていた男の姿は小さな魂に変身し、私をひどく睨みつける。


 怯えている。ずっと一人だったんだ。


「こんな所に、どうしたんですか」


 できるだけ優しく話しかける。


「……お前は誰だ」


「質問を質問で返さないでください」


「それは聞いてねえ、質問に答えろ」


 先に質問したのは私なのに、無茶苦茶な話だ。


「はい、私はスミレです」


 魂の色が青く曇る。やっぱり不安になっている。


「名前じゃねえ種族を聞いてんだ人間なのか、幽霊なのか、それ以外か!」


 最初、この質問を聞かれたときは意図が分からなかったけど、今なら分かる。


「不安、だったんですね」


 眉をひそめたような表情になる。魂が露出すると感情の機微もわかりやすい。


「いえ、独り言です。ええと、私の種族ですね。幽霊であり、神様です」


 「幽霊」という言葉に反応して、心象風景は歪みを見せる。天が揺らぎ、黒い閃光が瞬く。大地が大きく震え、何かが崩落する音が響き渡る。


 人間の言葉が分かる相手が欲しい。話しかけてくれる人間と会いたい。そんな中、目の前に現れた女の子が殺す対象の幽霊と知ったら、張り裂けずにはいられないだろう。孤独な魂は今にも散りそうだ。


 崩れる音に負けないよう、私は声を張り上げる。


「あなたに質問します! 名前は何ですか!」


「名前……」


「あなたはいったい誰ですか!?」


 私の質問に、その魂は激しく動揺する。色は移り変わり、マーブル模様に変容していった。


「名前……俺の……なんだ? ……分からない。誰だ、俺は! 何者だ? ……思い出せない! いったい俺は誰なんだ!!」


 私は叫ぶ魂をそっと抱き寄せた。


「あなたはエタです。私からエタという名前をもらいました」


 その言葉で振動が止まる。ピタリと音が鳴りやんだ。彼の心は落ち着きを取り戻したのかもしれない。


「エタ……?」


「はい、私のピンチに駆けつけるかっこいい霊媒師さんです」


「俺は……エタ……?」


「はい、いつも私のそばにいる危なっかしい男の人です」


「俺は……エタなのか……!」


「はい、いつか元の場所で私を殺してもらう約束をした貴方です!」


「そうだ……。俺は、エタだ。エタなんだアァァ!!!」


 ブワリと、突風が吹きすさび、反射的に目を閉じる。誰かに抱きかかえられている感触に目を開いた私の目に映ったのは、小さな魂ではなく、もとのローブを身にまとったいつものエタの姿だった。彼は嬉しそうに、高らかに笑い声を上げる。


「ギャハハハハハアッ!! お前をこの手で殺してやんねーと、俺は死ねねェ!」


「起きたんですね、エタ!」


 二人して宙を舞う。いつの間にか、目に映る光景は青一色の空だった。


「あぁ。……つーことは、俺は死んでいたのか」


「もう少しくらい寝ておきたかったですか」


「いや、寝過ぎちまったぐらいだ。俺は何をすれば生き返るんだ?」


 その低い声、粗暴な目つき、ギザギザな歯、間違いなくエタだ。しかし、今は感極まっている場合ではない。


「いいえ、あなたが自分の名前を、生きる意味を見つけなおしたのでエタのやることはもうありません」


 自分の生きる意味を見出すことは、魂が元の身体との拒絶反応を起こさないようにするための重要事項だ。逆に言えば、肉体に帰る魂を正しい姿勢に戻せば、魂が分散していない限り正常に生き返る。


「そうか。それは、何つーか、少し残念だな」


「やることが無くて不満ですか?」


「悪いかよ」


 ぶつくさ言いそうな表情。


「だったら、生き返ったときに私がおかえりなさいって言うので、エタはただいまって言ってください」


「……そんなんでいいのか」


「はい! エタにしかできない大事な頼み事です」


 拍子抜けしたエタは観念したふうに言い放った。


「……わかったよ」


 私は満面の笑顔で返事をした。




「それじゃあ帰りますね」


「おう」


 エタは蒼空にポツンと浮いている。寂しそうだったが、今までのような恐れも怯えも見えなかった。


「言い忘れていることがありました」


 私は振り返ってエタの顔を見つめる。


「この心象世界であったことは、あなたは忘れてしまいます。きっと、生き返ったときは彼女に刺されたことも覚えていないでしょう。私と川沿いを歩いて急に倒れた、みたいに認識は補完されます」


「この会話も忘れちまうのか」


 今度は、不安そうな表情。依存や恐怖ではない、寂しさと心細さをはらんだ一人の人間の顔だ。


「大丈夫です。私が、覚えていますから」


「……それなら、安心だな」


 手を振って彼と別れる。その時の彼の表情は見ていない。


 不確定な元の道を進んで、また心の障壁に差し掛かった。地は戦争状態のままだったが、辺りの心象風景は微かに青い空が広がりを見せているところだった。


 自分の身体に戻るために、入るときと同じように手を心の端にかざす。


                 『エタ……』


 三度、祈りをささげる。受容された魂が元の肉体へ帰るために、用を終えた体の持ち主に語りかける。


 その静かな祈りは了解されたのか、指先が心の奥へじんわりと沈む。


 私の意識は元の身体に戻っていった。


 目を開ける。横たわるエタが映る。私の握るエタの手のひらに雫が残っているのを発見する。


 どれぐらいたったのか分からない。5分かもしれないし、1秒かもしれない。もっと言うと、100年も経っていたかもしれない。血なんてものは最初から流れていなかったかのように、傷跡すらなかった。しかし、時の流れを確認する術はなかった。


 彼女は約束通りに眠っている。


 やがて、エタの身体に体温が戻ってくる。心臓も動き出す。そして、鋭い目がうっすらと開かれる。


「おかえりなさい」


「…………ただいま」

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