第九話「汚れちまったせかいの悲しみに」

この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。

第九話「汚れちまったせかいの悲しみに」


 石井さんが観たいと言ったロマンコメディ映画『うだる暑さに火照る身体を持て余す人妻』を観終わった後、二人で最寄りの駅ではなく一駅向こうへと歩いていた。どちらがそうしようと言った訳ではなく、ただ自然に、何となく、ただ、ただ、歩きながら話したい。それだけの理由が一致したんだと思う。駅に着く頃には最終電車が来る時間だろう。でも、ぼくは……、


 そういう期待は一切していないからね!


 期待をするだけ無駄というものである。そういう恋人や大人御用達のしっぽりお宿が立ち並ぶのは反対方向だからだ。なので、考えるだけ脳が消費する糖分の無駄という事になる。だけど、石井さんの家がこっちだったらどうしよう………。ちょっと、寄っていきませんか?みたいな事を言われたらどうしよう?いやいやいやいや、この子に限って、そんな短絡的な考えや一夜的なアレは無いはずだ!落ち着け、ぼく!湖径こみちは良い子!湖径は良い子!悪い事なんて考えない!


「あの、せんぱい?」

「はひゃいっ!?」


 変な声出た。甘えたような声だったから驚いて、変な声出た。


 それから、彼女がぽつりぽつりと話し始めたのは“読書部”の事だった。どうして、ぼくが必死になって、敵ばかりを作るみたいに部内で意見し続けたのか。あの時からぼくの事が気になっていると言った石井さんだけには、その理由を、初めて人に、彼女だけに話そうと思う。


「単純な理由なんだ」


 読書部に亀裂をいれてしまった事件は、ぼくが“部の在り方”や“人と会話をする姿勢”に意見し続けたからだ。その事を言い始めた理由のひとつは寝不足で機嫌が悪く、ついうっかり口を滑らせた一言で、“あ、やっばい!”とは思ったけれど、後の祭。格好悪いが後戻り出来なくなったというのも、事実。もうひとつは、自分と違う意見や感じ方が違うからといって、人を攻撃するというのは違うと思っていたという理由。寝不足じゃなくて、虫の居所も悪くなければ、正直、あのまま放っておいた方が良かっただろう。無視をしていれば、早めに気不味い雰囲気は収束していたはずだ。


 一人だけ傷付いたまま、一人だけいなくなって。


「ああいう“自分が正義”だと思っている人は苦手だ」

「作品を“こう捉えるべきだ”って譲りませんでしたね」

「カリスマ性もあったから、尚、厄介」


 本でも映画でも、ゲームでも何でもいい。百人いれば百通りの捉え方があっていいじゃないか。もし、他人が自分の知っている感動を感じなかったのなら、許せないと思うのではなく、どうして、そう感じたのかと話をして自分の知る“感動の物語”と併せて、もう一度、感動をすればいい。ただ“こう感じるべきだ”という一方的な価値観と妙な仲間意識の押し付けが、不快だった。


「悲しいかな、人間は争うよ。そう出来ている」


 だからこそ言葉を使い会話をする。なるべく争わないように話す。そういう知恵なんだと、ぼくは思っている。“我思う故に、我あり”の先には“他人思う故に、我あり”があるはずだ。そうでないと成り立たないんだと思える場所に行きたい。


「答えは出ないのかもしれないけれど、話し合い続ける。その姿は感動するくらいに美しいよ」

「ふふっ。それって先輩、受け売りの言葉ですねっ」

「なんだ。石井さんも読んでいたのか。恥ずかしい」


 すらすらと彼女に語った台詞は、ヲトブソラ先生の小説『少女騎士団』をまとめた『少女騎士団全集』内に書き下ろされた『少女華撃しょうじょかげき』という小説の台詞だ。


「エマがエレクレル婦人と対話するシーンですね」

「うん。婦人は“人間は何千年も話し合って、未だ答えを出せずに愚かだ”と言った」

「対して、エマは“愚かではなく、それでも話し合い続けている事が美しい”という一節でした」

「そう。それ」


 湖径と石井さんの甘酸っぱい時間に、自身の作品を堂々と宣伝する。そんな人間の作品を読んでいて、君は大丈夫か?何か騙されているかもしれないぞ。大人という人間や創作者は悪い知恵をも学んでしまった人間なのだからな!悪い奴だっ、ヲトブソラ!そんなヲトブソラの作品なんて読まなくてもいい。くそう、ヲトブソラめ!『少女騎士団全集 第一集』が電子書籍でお求めやすいからといって、こんな宣伝の仕方をするなんて!ゆるさないぞ!悪い子だ!めっ!!


 汚れちまったんだよ。もうウタ◯ロ石鹸でも落ちねえくらいに、汚れちまった悲しみなんだ。

      ────── ヲトブソラ


 最終電車になんて久しぶりに乗った。隣には石井さんがいて、ぼくらは楽しく会話をした。知れば知るほど、近ければ近くなるほど寂しくなって、この世界が寒いと気付かされる。そうだったはずなのに、彼女はマフラーを緩め「少し熱い……ですねっ」と手でパタパタと顔を扇ぐ。一方でぼくの背中も凄く熱い。何より繋いだふたりの手が凄く熱い。途中の駅で石井さんが「また……明日?ですね」と下車し「うん。また明日」と返した。電車の扉が閉まっても冷房の効いた車内が温かいのは、どうしてだろう。この世界が寒くないのは、どうしてだろう。不思議な温かさを感じながら、駅から山椒魚町三丁目の暗い路地を歩く。石井さんが無事に帰宅出来たのかを知りたいと強く思ったけれど、お尻のポケットに入っているのは“ただの板”でしかないのだ。


 手軽に連絡なんて取れない時代の恋人や大切な人がいる人達は、どうやって、心配で苦しい夜を越えたんだろう。


 いつもの角を曲がり、細い路地を行く。もう真っ暗でも玄関の鍵を開けられるようになっていた。日付をまたいで、深夜となる時間に奥の小さなお宮から、ぼそぼそと聞こえてくる低い音程のそれ。


「…………から外せ。代わりに十七歳の……」


 十七歳?未成年の話をしているとなると途端に犯罪の匂いが……というか、魚人のおっちゃんが未成年者の話をしているという事実が怖い。おっちゃんは危ない仕事とかにも手を出してそうだし……。


「康、それは手前ェ自身が手を汚した事だ。いつまでも俺が片付けると思っていているのか?そろそろ、手前ェのケツは、手前ェで拭け」


 えぇー…………凄く物騒な話をしていないか?


「客が来たから切るぞ。今夜は明日のニュースを楽しみにして寝ろ」


 ぽこぺん♪


「小僧」


 隠れていた物陰から出て、おっちゃんを睨みつけるようにした。魚人のおっちゃんの目は魚だから、多分、ぼくらは目が合っていないけれど……。おっちゃんが鱗のポッケから煙草の箱と金属製のライターを出して「一度ならず、二度か。いい度胸じゃねえか」と言い、ぱきんっ、と、煙草に火を点ける。


「今の話……………なに?」

「大人の話だ」

「ぼくも大人だけど」

「大人なら踏み入るな」


 危ない、悪そうな、そんな匂いがする話を無視するのが大人なのだろうか。


「十七歳って……未成年じゃないか」

「それがどうした?」

「おっちゃん…………駄目だよ。子どもをそんな……」

「小僧が何を言いたいのか分かる。だけどな……」


 余計な節介だ。それだから、お前は大人じゃないんだ。十七歳で大金が稼げ、自身の夢が叶う。それ以外は前に進む為の小さな痛み、それを承知で乗るんだ。この少女の方がよっぽど大人だな。


「最低だ」

「お前も盗み聞きをしていた癖に、話半分、勝手な想像で、俺を悪人にするとは大した善人だな?」


「明日のニュース………いや、小僧はスマホにすら触れない弱虫だったな」

「五月蝿い、ぼくが選んだ事だ」


 何故か、強く早く打つ鼓動とお腹の底から溢れ出そうになる不安感だけを覚えて、後は何も覚えていない。多分、一眠りも出来ないまま、遠くの、山椒魚さんしょううお町を囲む高いマンションとビル群に灯る赤い点々を見ていた。朝になり鳥達が鳴き始め、忙しなく飛び回る。向かいの屋根瓦が光り始めて、この時間になると聞こえるレールの上を不器用に玄関戸が走る音。朝から馬鹿うるさい声で歌が唄われる。


「ぃやさーしぃいー♪」


 タオルケットを蹴飛ばして、急角度の階段は踏まずに飛び降り、着地で床板を踏み抜いたような音がした。ボロボロのスニーカーや百均で買ったサンダルを蹴散らかして、鍵を締めていない玄関から裸足で飛び出し、悠希さんに詰め寄る。


「うおっいおいっ!!何だ!何だっ!?あ。おはよう」

「スマホ!悠希ゆうきさん!!スマホを貸してくださっ!!!」

「んおっ?スマホは家ン中に……おいっ!湖径っ!!挨拶くらいしろっ!?大切な事なんだぞっ!!」


 悠希さんの家では、台所で亜希あきさんが朝ご飯を作っていて「どうしたの!?火事!?急病人っ!?」と言って火を止める。悠希さんのスマホはどこか?と尋ね、二階のテレビの所じゃ……と聞き切る前に階段を駆け上がっていた。


「うおい!?湖径っ!?」

「悠希っ?何があったの!?」

「それが分からないの。お姉ちゃん、湖径は“おはよう”って挨拶の返事もしてくれなかったんだよ?(きゅるりん☆)」


 テレビの前に並べられたリモコンと一緒に置かれたスマートフォンを見付け、ド派手な装飾がされたそれを取った。画面に映る『生体認証ができません』の文字の後に出た“パスワードを入力してください”と“0〜9”の数字。


「……あ」

「馬鹿湖径が。スマホだけあってもパスワードが分からねえだろおがあ……っ」

「これ……、貸して下さ」

「それ、お姉ちゃんのだから」


 え……っ。このド派手な装飾がされたスマートフォンが亜希さんのもの?じゃあ、こっちのシンプルなカバーが装着されたスマホが……と、ド派手スマホとの間を視線で行ったり来たりしていると「そっちが私ンのだから」と不機嫌な顔をされる。やはり、姉妹という事か。悠希さんは行動に派手さが出て、亜希さんは持ち物に派手さが出るんだろう。この二人、やはり姉妹だ。


「それで?湖径くん、何を調べればいいの?」

「あ。え、と……や、やすし?」

「え?やすし……?」


 “康、それは手前ェが手を汚したんだろ”


「な、何か“やすし”が事件を………あ!十七歳の!手を汚したっ!!」

「十七歳の“やすし”が、何の犯罪をしたんだよっ?」

「湖径くん、仮に事件を起こしても未成年だから名前は……」


 悠希さんが脚を放り投げて、隣に座る。


「朝っぱらから、訳分かんねえ……」

「す、すみっ、すみません」

「んーと……湖径くんが調べたいのって、これかしら?」


 ド派手な装飾がされた画面に悠希さんと顔をぶつけてくっつけ、覗き込む。


 < 坂道26° 新センター発表! >


「坂道……2」

「何だ、何だあ?湖径ってアイドル好きなのか〜?」


 “お前も盗み聞きした悪人の癖に、話半分、勝手な想像で、俺を悪人にするのか?”


「この……坂道26°って、アイドルなんで」

「嘘だろ、おい。国民的アイドルだぞ。知らねえのは、この小説を初見で 読んでる奴ら《どくしゃさま》くらいだろ」


 この世界はアイドルグループのリーダーが変わったくらいでニュースになるらしい。めっきり芸能界というやつに興味の無いぼくと、今、初めて存在を知らされた読者が知らない訳だ。でも“やすし”と“十七歳”は……。


「選ばれたのが十七歳の子みたいだけど」

「やすし………は?」

「プロデューサーの萩元康はぎもとやすしの事かあ?」

「わるいひとですか?」


 いや、まあ……うん。変な噂は色々あるらしいけど?と悠希さんが言った後、亜希さんと顔を合わせ、ぼくを見る。そして「湖径が誰を応援していたのかは、よく分からねえけど、包丁は食材を切るものだからな?」と変なアドバイスを頂いた。包丁が食材を切るのに適しているのくらいは知っているけど………どういう意味だ?


「いんやっ。今日もいい天気だねっ!」


 夏の朝陽を屋根の上で浴びるとは思わなかった。隣で背伸びをした後、ふにゃっとした顔で背中に夏の陽を感じる悠希さん。悠希さんが「屋根の上で少し話そうか」と言ったのは、この人の気遣いなんだろう。


「それで?どうして、朝から血相かいて坂道26°なんだよ?」

「いや……その………」


 どう話すべきなんだろう。まず“魚人のおっちゃん”をどう説明すべきだ?しかも、相手は悠希さんだ。馬鹿にされるだろうし、誇張された変な噂話が流布されるのは目に見えている。いや、でも、この話を亜希さんにしたと考えると“湖径くん、怖くないから一緒に病院行こうね?”となる。


 南無三!決断の時!第三の選択総司令部、総員第一種戦闘配備!!


「悠希さん……あの、魚人のおっちゃんとい」

「そうかあ。湖径には会ってくれるんだなあ…そっかあ」

「会って?おっちゃんって、人を選んでい」

「さあ?でも、最近、私には会ってくれなくなったなあ」


 悠希さんが「あそこの家さあ」と指を差したのは、ここに来て一番最初に目に入った“魚人の置物”が所狭しと置かれた家。あの空き家は元々、悠希さんと亜希さんのおばあちゃんが魚人作家として使っていたアトリエだという。


「魚人作家……って、なんですか?そんな怪しい作家活ど」

「とおっうっ!!!」


 この人は加減を知らない。ドロップキックで後頭部を蹴られて、危うく屋根から落ちかけた。運良く、指が屋根瓦と雨樋に掛かったので、足を掛け、屋根へと這いずり上がる。


「あ……!ぶっ!な!いっ!!ですって!!!はあ、はあ、落ちたらどうするんですかっ!」

「落ちなかったし、落ちたら落ちたで、その時はその時」


 この人はしっかりと考えて行動した事があるのだろうか?


「少し悲しい話をするよ。魚人とおばあちゃんの話だ……」

「マサァあああああああああ!!!起きろぉおおおお!!!」

「うるせえぇえええええ!!!もう起きとるわぁあああ!!」

「テメェら!毎朝、うるせえなあっっ!!!」


 悠希さん。あなたが一番やかましいんだよ。声量、回数、くだらなさ、どれも段違いだ。


……………………………………………………


この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。

第九話、おわる。

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