十三

「もう一週間くらい、いてくれているらしいけど……どうです? 退屈じゃないですか?」

 ここで「退屈です」などとこたえられるわけがないのだから、修論を書いているということを盾に防御してみようかと思ったが、考えてみれば、「ここにいて退屈じゃないか」という問いに対して、「忙しくしている」と解答をするのは、不適切なような気がする。


 しゅうの父がいているのは、「ここにいる」ことへの評価なのだ。だとするならば、わたしは、本音を伝えるだけでいい。

「幸せです」

 その答えが意外だったのか、むずがゆいとこに触れてしまったのか、周の父は笑い出した。


「それならよかったです。若い人には退屈かと思っていたもんですから。なんにもないところだと言うひともいますからね」

 なんにもないところ――そんなところが、この世にあるはずはない。あそこにはあるがここにはない、という言い方はできるかもしれないけれど、なんにもないなんて嘘だ。


 周の父をめがけてそんなことを放言する奴がいたのだと思うと、むしょうに腹立たしくなる。

 人の生活している場所を、そのように言う奴とは、関わり合いにもなりたくない。何事をも、自分の生活している環境を尺度に論じてしまうような奴とは。


「でも、ここにずっといると、つまらなく感じてくるかもしれない。自分はいま単身赴任たんしんふにんをしていて、たまにしか帰らないけど、むかしは隣町のところに勤めていました。そのときなんかは、退屈を感じることもありました。いま住んでいるところも、もう二年も経つけれど、どんどん退屈だしつまらなく感じてきています。だからいまは、実家が恋しくなるんです」

「どんなところも、ずっといれば、同じような感想が生まれてくるのかもしれませんね」

「そうですね。きっと、そうです」


 わたしとの距離感をはかりかねているのか、周の父は、敬語のときもあれば、そうでないときもあった。円の直径がわたしたちの目指すべき距離感だったとしても、いまは、の方を通って接するのが良いのではないか。そう考えているのかもしれない。

 周の父は、窓の方に足を投げて、上体だけをわたしに向けているのだが、そうしたところからも、わたしとの接し方に対する、心中での葛藤のようなものが感じ取れる。


「わたしは、周くんと一緒にいることができるから、幸せなんです。それに、周くんの好きなひとたちのいるところだから、ここにいることも、幸せなんですよ」

 大それたことを言っている気がするが、自然とこの言葉がでてきたのだ。少しのあいだ黙ってしまった周の父だったが、ようやく優しい表情を見せたかと思うと、こうつぶやいた。

 それならよかったです――と。


     *     *     *


 周の父は夏央なつおさんと言うのだと、周に教わった。

 夏央さんと雪子ゆきこさんは仲の良い夫婦の見かけをしていない。それでも、どっしりと根を下ろした大樹のような安定感がある。ふたりの間に生起する話は、かみ合わないときも一方通行のときもある。


 だからといって、険悪けんあくな雰囲気に陥ることはない。家庭の今後を左右する肝心かんじんな話でない限りは、大袈裟なリアクションはしないと暗黙裡あんもくりに了解し合っているようであった。

 ふたりの関係に、危うさのようなものは感じ取れない。ひびのようなものを見出せない。良い夫婦の一例は、このふたりのような関係を指すのだと思わなくもない。


 周が黙って夕食のカレーライスを食べているのを、わたしは横目で見る。ルーとライスの境界線を食して、ライスをルーの方へと押していく。すると、食べ終わったあとの皿が綺麗に見える。このことは、少し前にも、感心したことだ。

 それにしても、食器棚にしまわれている食器の数が、わたしの家よりもはるかに多いのはなぜなのだろう。食事のとき、毎回のように不思議に思っている。


 そんなことを訊いたところで、要領ようりょうのいい答えが返ってくるわけはないだろうし、なぜそのような質問をしたのかと反問されたら返す言葉がない。黙っているよりほかはない。

 だけど、このことだけは確かだと思われる。使われたあとは、あの食器棚のなかで眠ることが、この食器たちには求められているのだと。


 そして、もしわたしが周と結婚したならば、この家の食器を使い生活をしていくことになる。わたしの分の食器を新しく買ったとしても、ここで使い続けるかぎり、あの食器棚の遺伝子が組み込まれることだろう。

 これらの食器は、生物である。

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