四
帰り道は分かっているから送らなくていいと
周は天気予報を見ていなかったらしく、傘を持って来ていなかった。だから、もう一本傘を持っていこうとしたのだけど、家は駅からそれほど離れていないからと断られた。
このあと大雨が降り、服がびしょびしょになったとしたら、周は下宿先に帰るなりシャワーを浴びるだろう。周の裸。見たことはないけれど、いつかきっと、見るときがくる。そう思うと、わたしたちの未来に、ひとつ予定ができた気分になる。
心臓がどくどく跳ねて、どこかへ飛んでいきそうだ。遠足が中止になったときの
* * *
お父さんは、わたしたちの関係について、「見守る」とだけ言った。
わたしたちを、恋人ではなく友人として認識してしまったらしい。周は「ぼくたちの普段の関係を話した」と言っていたけれど、お父さんはそれを聞いて、恋人らしくないと判断したのだ。
確かに、恋人どうしであることを大学では隠し、付き合う以前のふるまいをするよう心がけ、デートといえば、友人といえる立場だったころと変わらずゲームをすることだけなのだから、そう思われてしまうのかもしれない。
だけどわたしは、恋人どうしになって以来、周のふとした仕草に敏感に反応するようになった。周を友人として見ることもできない。
わたしたちは、やはり、言語を通した
おそろしくなる。わたしたちは、お父さんの鼻毛を処理するための
それでもわたしは、そのちょっとの衝撃で千切れそうな特別な糸を、守りたいのだ。
* * *
どうせ洗濯するからいいけれど。
これから着る下着に手をつけないところに、彼がまだ
洗濯機には掘り返された
もしこの下着が、お母さんかお姉ちゃんのものだとしたらなどという、切実な不安に駆られたのであろう彼は、ほんとうに子どもらしい。そう思うと同時に、嫌悪感、不快感、侮蔑などの感情も
わたしには、一度なら
だけど、お父さんやお母さんが、わたしの下着を顔にすりつけるわけがない。それでも、確証をもって、彼の犯行だと断定できない。そうである以上は、罪人と決めつけることはできないという、正義感の暴走を
いつの間にか、廊下の電気が消されていた。そんな中で、トイレだけに明かりがついていた。それは、
なんとなしに興味を覚え、ノックをしてみると、上ずったハヤテの声が返ってきた。
こういうとき、どうすればいいのだろうか。ふと、
* * *
翌日、小薗は珍しく学生相談のバイトをしにきた。
小薗は、
「秋原さんは、K教授の出した新書を読んだ?」
K教授というのは、うちの大学の法学部の教員だったと思うけれど、わたしは会ったことはないし、ましてや、その著書など読んだこともない。だから、素直にそう答えた。
もうバイトの時間は始まっているのだから、わたしを解放し、いつ学生が相談しに来てもいいように、気軽にこの教室に入ることができる雰囲気を作るべきだ。
それがわたしたちに与えられた業務であるというのに。なんで、小薗と同じ額のバイト代なのか。ともかく、明日のゼミでの発表の準備をしに、早く図書館に行きたくてたまらない。
「その本は、おもしろいの?」
K教授の新書のことで怒っていることは察していたので、あえてこういう
「知らない。しかし問題作だよ、到底許せない」
その
だけど、「どういうこと?」と訊いてしまえば、まだここに束縛されそうだし、安野さんが通りかかり業務を妨害していると思われたらイヤだったので、
「ふーん。そうなんだ」
とだけ言って、この前に、新しく買った周の好きな色の
しかし小薗は、そうしたことに鈍感だった。
「ぼくたちのことを冷笑していやがる。あいつは普段から、中立的な立ち位置だと抜かしているが、嘘っぱちだ。あいつはぼくたちの敵だ」
「挑発的な本なんだね。分かったよ。じゃあまたね、図書館に行くから」
小薗に気を遣う必要なんてないから、
「ああ、だから読む気になれないな。時間の無駄だから」
「えっ、読んでないの?」
わたしは、困惑してしまい、思わず立ち止まってしまった。
「ネットに上がっている写真の情報で充分さ。それでもあいつの本性は丸見えさ。ほら、これを見てくれ」
と、言われたが、違法転載されたものを見るなんて、真っ平ごめんだった。
「いやだよ。わたしは忙しいから、行くね。それに、そういうお話は、他の子たちとしてくれない?」
「じゃあ、要点をまとめてやろう」
「いいって!」
ついに、大声を出してしまった。急いで廊下の方を振り返ったが、人影はなかった。けど、安心する間もなく、無邪気な笑い声がどこかから聞こえてきた。耳を
「悪い……熱っぽくなってしまった。ぼくの悪いところだ、謝るよ。でも仕方ないじゃないか。あんなことを書くのが本学の教員だなんて、恥ずかしいんだよ」
「ちゃんと全文を読んでいないのに、なんでそんなこと言えるの? わたしたちはもう理解していないとおかしいでしょ。反論をするのだとしたら、ちゃんと相手の意見を
――と、それくらい早口にまくしたてたい気分だったが、そんな放言をしても、どうせ小薗には響かないだろうから、「またね」と言って振り向かずに教室を出て行った。教室は、うす気味悪いくらいに静かになった。
小薗と連絡先を交換したのは大学院生になって間もなくのころで、そのときは二年間を同じ研究室で過ごす仲間くらいに思っていたのだけれど、どんどん彼は過激になり、啓蒙活動をお題目にした集会を開くようになった。
海外の政情より観光地の美しさを、メディアの怠慢よりテレビドラマのワンシーンを、思想による連帯ではなく偶然の出会いを愛することが、ちょっとでもできたならば、小薗は少しくらい生きやすくなるのではないだろうか。
* * *
夜、小薗からメールが届いた。
《今日は失礼しました。いままで何度もシフトを代わってもらい申し訳ございません。感謝しています。今度、お礼をさせていただきたいので、夏期休暇に、こちらに遊びにいきませんか。食事などおごらせていただきます》
記載されていたURLをクリックすると、なにかの勉強会か講演会か分からないけれど、楽しそうにないプログラムばかりが並んでいた。
小薗はこうしたところに行くことを「遊び」として
返信はしないでおこうかと思ったけれど、後日面と向かって返事をするのはイヤだったから、メールで断ることにした。
〈お疲れ様です。折角の誘いだけど、その日は別用があるので行くことができません。シフトの方はべつにいいので、お礼は結構です。でもこれからは、ちゃんと来てくれると助かります〉
冷淡な文章になってしまったけれど、これでも気を遣った方だと思う。
小薗から返信はなかった。そのことに安心したものの、この「イベント」のある八月七日はちゃんと用事を入れておかないといけないような気がした。
いや、なにか用事を入れるための口実になるのではないかと思った。たとえば周に、「小薗から誘われて困っていて……」という風に相談すれば、なにかで埋め合わせをしてくれるかもしれない。
わたしは、こんな消極的な理由を持ち出さないと、周をデートに誘うことができないのか、とも思う。それでも、わたしたちは、修士論文を書いている時期なのだから、これくらいの理由がないと、了承してくれないのではなかろうか。
花の
そうだ、周のためだけに買った、かわいいスタンプを使おう。周にしか使うつもりのないスタンプ。少し短くした髪の毛から、雫がぽとりと落ちた。ちょっとしか切らなかったのは、気付いてもらえなかったら、悲しいから。でも、気付いてもらえなかった。ちょっとだけにして、本当に良かった。
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