帰り道は分かっているから送らなくていいとしゅうは言ったけれど、お父さんとどのような会話をしたのかが知りたくて、雨曇りの、おそらく午後二時十分からおよそ十二分の間、傘を片手に持って歩いた。

 周は天気予報を見ていなかったらしく、傘を持って来ていなかった。だから、もう一本傘を持っていこうとしたのだけど、家は駅からそれほど離れていないからと断られた。


 このあと大雨が降り、服がびしょびしょになったとしたら、周は下宿先に帰るなりシャワーを浴びるだろう。周の裸。見たことはないけれど、いつかきっと、見るときがくる。そう思うと、わたしたちの未来に、ひとつ予定ができた気分になる。


 心臓がどくどく跳ねて、どこかへ飛んでいきそうだ。遠足が中止になったときのよろこびを思い出す。雨よ、降れ。わたしは、周の彼女であり、他の誰かの彼女ではない。そして、周を彼氏にすることができるのは、わたしだけだ。


     *     *     *


 お父さんは、わたしたちの関係について、「見守る」とだけ言った。

 わたしたちを、恋人ではなく友人として認識してしまったらしい。周は「ぼくたちの普段の関係を話した」と言っていたけれど、お父さんはそれを聞いて、恋人らしくないと判断したのだ。


 確かに、恋人どうしであることを大学では隠し、付き合う以前のふるまいをするよう心がけ、デートといえば、友人といえる立場だったころと変わらずゲームをすることだけなのだから、そう思われてしまうのかもしれない。

 だけどわたしは、恋人どうしになって以来、周のふとした仕草に敏感に反応するようになった。周を友人として見ることもできない。


 わたしたちは、やはり、言語を通した心許こころもとない契約によって結びついているのだ。こんな契約は、簡単に破棄されうる。身体的なスキンシップにより、契約の放棄の確率を下げる必要がある。そういう焦りが、心身をがしてくる。

 おそろしくなる。わたしたちは、お父さんの鼻毛を処理するためのはさみでも切れるような、光の加減でようやく赤色に見える、か細い糸で結ばれている。

 それでもわたしは、そのちょっとの衝撃で千切れそうな特別な糸を、守りたいのだ。


     *     *     *


 どうせ洗濯するからいいけれど。

 これから着る下着に手をつけないところに、彼がまだわずかながら理性を保とうとしていることが伝わらなくもない。

 洗濯機には掘り返されたあとがあった。そんなことをしなくてもわたしの下着は上の方にあるに決まっているのに、なにを用心しているのだろう。


 もしこの下着が、お母さんかお姉ちゃんのものだとしたらなどという、切実な不安に駆られたのであろう彼は、ほんとうに子どもらしい。そう思うと同時に、嫌悪感、不快感、侮蔑などの感情も渦巻うずまいている。

 わたしには、一度ならゆるしてやろうという気持ちがあった。それは、本当にハヤテなのだろうか、ハヤテしか選択肢がないと決めつけているのではないだろうか。そんな疑いもないではなかったから。


 だけど、お父さんやお母さんが、わたしの下着を顔にすりつけるわけがない。それでも、確証をもって、彼の犯行だと断定できない。そうである以上は、罪人と決めつけることはできないという、正義感の暴走をとがめる力も働いている。

 いつの間にか、廊下の電気が消されていた。そんな中で、トイレだけに明かりがついていた。それは、誘蛾灯ゆうがとうのような魅力を持っていた。

 なんとなしに興味を覚え、ノックをしてみると、上ずったハヤテの声が返ってきた。


 詰問きつもんし続ければ自白するかもしれないが、その自白だって、わたしと彼との間にある力関係の不均衡ふきんこうさから導き出されたものになるかもしれない。

 こういうとき、どうすればいいのだろうか。ふと、小薗こぞのうらやましく思った。彼はきっと、なにかを判断しなければならない選択が現われる前から、判断をする基準というものを持っているだろうから。


     *     *     *


 翌日、小薗は珍しく学生相談のバイトをしにきた。

 小薗は、こらえきれない怒りをふとこっているらしく、わたしはそのストレスの発散のための道具とされることをいられた。


「秋原さんは、K教授の出した新書を読んだ?」

 K教授というのは、うちの大学の法学部の教員だったと思うけれど、わたしは会ったことはないし、ましてや、その著書など読んだこともない。だから、素直にそう答えた。


 もうバイトの時間は始まっているのだから、わたしを解放し、いつ学生が相談しに来てもいいように、気軽にこの教室に入ることができる雰囲気を作るべきだ。

 それがわたしたちに与えられた業務であるというのに。なんで、小薗と同じ額のバイト代なのか。ともかく、明日のゼミでの発表の準備をしに、早く図書館に行きたくてたまらない。


「その本は、おもしろいの?」

 K教授の新書のことで怒っていることは察していたので、あえてこういうき方をしてやった。

「知らない。しかし問題作だよ、到底許せない」

 その頓珍漢とんちんかんな返答は、わたしにとって意外だった。


 だけど、「どういうこと?」と訊いてしまえば、まだここに束縛されそうだし、安野さんが通りかかり業務を妨害していると思われたらイヤだったので、

「ふーん。そうなんだ」

 とだけ言って、この前に、新しく買った周の好きな色のかばんを一度揺らして、もう帰るという合図を送った。同時にそれは、「わたしは、恋人がいるから」という暗示的な表明だと、やってから気付いた。ちょっと嬉しくなった。


 しかし小薗は、そうしたことに鈍感だった。

「ぼくたちのことを冷笑していやがる。あいつは普段から、中立的な立ち位置だと抜かしているが、嘘っぱちだ。あいつはぼくたちの敵だ」

「挑発的な本なんだね。分かったよ。じゃあまたね、図書館に行くから」

 小薗に気を遣う必要なんてないから、直裁的ちょくさいてきにそう言ってやった。


「ああ、だから読む気になれないな。時間の無駄だから」

「えっ、読んでないの?」

 わたしは、困惑してしまい、思わず立ち止まってしまった。

「ネットに上がっている写真の情報で充分さ。それでもあいつの本性は丸見えさ。ほら、これを見てくれ」

 と、言われたが、違法転載されたものを見るなんて、真っ平ごめんだった。


「いやだよ。わたしは忙しいから、行くね。それに、そういうお話は、他の子たちとしてくれない?」

「じゃあ、要点をまとめてやろう」

「いいって!」

 ついに、大声を出してしまった。急いで廊下の方を振り返ったが、人影はなかった。けど、安心する間もなく、無邪気な笑い声がどこかから聞こえてきた。耳をまして言葉を拾ったかぎりだと、わたしたちに対するものではないらしい。


「悪い……熱っぽくなってしまった。ぼくの悪いところだ、謝るよ。でも仕方ないじゃないか。あんなことを書くのが本学の教員だなんて、恥ずかしいんだよ」

「ちゃんと全文を読んでいないのに、なんでそんなこと言えるの? わたしたちはもう理解していないとおかしいでしょ。反論をするのだとしたら、ちゃんと相手の意見を傾聴けいちょうした上じゃなくちゃいけないって。違法転載なんて、どうせ都合のいいところしか切り取ってないでしょ? そんなものに踊らされて扇動されて、恥ずかしいと思わないの? 全部読んだ上で問題だっていうならそれでいいけど、切り取りだけで判断するなんて、おかしいじゃない」

 ――と、それくらい早口にまくしたてたい気分だったが、そんな放言をしても、どうせ小薗には響かないだろうから、「またね」と言って振り向かずに教室を出て行った。教室は、うす気味悪いくらいに静かになった。


 小薗と連絡先を交換したのは大学院生になって間もなくのころで、そのときは二年間を同じ研究室で過ごす仲間くらいに思っていたのだけれど、どんどん彼は過激になり、啓蒙活動をお題目にした集会を開くようになった。

 海外の政情より観光地の美しさを、メディアの怠慢よりテレビドラマのワンシーンを、思想による連帯ではなく偶然の出会いを愛することが、ちょっとでもできたならば、小薗は少しくらい生きやすくなるのではないだろうか。


     *     *     *


 夜、小薗からメールが届いた。


《今日は失礼しました。いままで何度もシフトを代わってもらい申し訳ございません。感謝しています。今度、お礼をさせていただきたいので、夏期休暇に、こちらに遊びにいきませんか。食事などおごらせていただきます》


 記載されていたURLをクリックすると、なにかの勉強会か講演会か分からないけれど、楽しそうにないプログラムばかりが並んでいた。

 小薗はこうしたところに行くことを「遊び」としてとらえているのか。あるいは、わたしはこういうプログラムを「遊び」としてしか捉えられない、とでも思っているのか。わたしをデートに誘う場所として、適切だと思っているのか。こういうので喜ぶと思われているのか。バカにされている気分がして、腹立たしい。


 返信はしないでおこうかと思ったけれど、後日面と向かって返事をするのはイヤだったから、メールで断ることにした。


〈お疲れ様です。折角の誘いだけど、その日は別用があるので行くことができません。シフトの方はべつにいいので、お礼は結構です。でもこれからは、ちゃんと来てくれると助かります〉


 冷淡な文章になってしまったけれど、これでも気を遣った方だと思う。

 小薗から返信はなかった。そのことに安心したものの、この「イベント」のある八月七日はちゃんと用事を入れておかないといけないような気がした。


 いや、なにか用事を入れるための口実になるのではないかと思った。たとえば周に、「小薗から誘われて困っていて……」という風に相談すれば、なにかで埋め合わせをしてくれるかもしれない。

 わたしは、こんな消極的な理由を持ち出さないと、周をデートに誘うことができないのか、とも思う。それでも、わたしたちは、修士論文を書いている時期なのだから、これくらいの理由がないと、了承してくれないのではなかろうか。


 花のにおいが香り立つ湯船につかりながら、周へのメッセージに組みこんでみたい語彙ごいを探した。少しでもドキッとさせてみたい。わたしのことが好きなんだと自覚してほしい。

 そうだ、周のためだけに買った、かわいいスタンプを使おう。周にしか使うつもりのないスタンプ。少し短くした髪の毛から、雫がぽとりと落ちた。ちょっとしか切らなかったのは、気付いてもらえなかったら、悲しいから。でも、気付いてもらえなかった。ちょっとだけにして、本当に良かった。

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