第35話 溺愛の夜【皇帝編】①
◆◆◆◆◆◆
ここ最近のヴェルハルト陛下はなにか変わった。……そう士官たちのあいだで囁かれだしていた。
ヴェルハルト陛下は稀代の名君と名高い皇帝である。
強大な帝国を統治する手腕は見事なもので、内政においては法令を重視した公正な政治によって繁栄と富をもたらし、外政においては圧力と援助を使い分けて帝国の力を誇示している。
そんな陛下はときに容赦ない政治判断で冷徹と囁かれることもあったが、それでも帝国内に支持者は多い。
しかも優れているのは政治的手腕だけではない。
容姿端麗、眉目秀麗、頭脳明晰、公正明大、カリスマ性抜群、剣術体術弓術馬術ありとあらゆる武術習得、スポーツ万能、
そんな陛下は臣下や帝国民にとって誇りである。『我らの陛下のために』と敬愛されている。しかしそれゆえに近寄りがたい存在でもあったのだ。
だがここ最近の陛下はなにか違う。
「陛下、前回の会議で検討されていた案件の提案書です。ご確認ください」
「見せてみろ。……よし、よくできている。ご苦労だった」
「ありがとうございます!」
若い士官は胸がいっぱいになった。
陛下が『よく出来ている』と言ったのだ。名門大学院に首席合格した時より嬉しい。
「陛下、失礼します。西方地域の街道にある巨大吊り橋の修繕工事の件ですが、極秘に行なった内部調査の結果、やはり不正が発覚しました」
「やはり出たか。しばらく泳がせて
「はっ」
若い士官は胸がいっぱいになった。
陛下から直接なんかかっこいい命令をされた。未来の将官になるために高等士官学校を首席卒業した時より嬉しい。
そんな執務室の光景をグレゴワールだけは
こうして士官たちの報告がおわって執務室は皇帝ヴェルハルトと宰相グレゴワールの二人になる。
グレゴワールは処理済みの書類を陛下の前に提出した。
宰相案件は皇帝陛下が直接命じる重大案件が多い。それは帝国の運営にも関わるレベルのものだが、……ときに例外もある。
「根回しが完了した。貧民区の支援金は次の予算会議で閣議決定されるだろう」
「ご苦労だったな。今夜さっそくマリスに伝えよう。絶対喜ぶぞ」
「そうだろうね」
グレゴワールは淡々と答えた。
貧民区に予算を組むのはいい。それは賛成だ。実際、貧民区は農作物を育てるようになってから少しずつ変わっている。まだ始まったばかりだが、それでもゆくゆくは貧民区でなくなるのではないかという期待がもてる。そこに予算を組むのは国として間違っていない。
だが、宰相が普段している仕事に比べるとあまりにも簡単だった。それなのに皇帝命令でグレゴワールが担当したのだ。
「悪いな、この仕事はどんな小さな落ち度も許せない。お前がするのが確実だ。それに宰相案件にしておけば、お前の名を恐れて誰も足を引っぱれないだろ」
予算編成は繊細な作業である。下手を打てば派閥勢力の政争が勃発し、内政混乱の引き金になりかねない。
「……マリス殿のためかね」
「それ以外にないだろ。若手にはできない仕事だ」
今のヴェルハルトにとってマリスの関わる案件はどんなものも重要案件だ。
そんなヴェルハルトに呆れた顔をしつつグレゴワールは報告を続ける。
「もう一つ、気になる情報が入った。人身売買組織が帝国に入り込んだ」
「なんだと? 検問をすり抜けたのか」
「ああ、巧妙にね」
「わかった、各地の警備に通達しろ。組織の構成員を一人残らず捕獲だ。指名手配して帝国民には指一本触れさせるな」
「承知した。すぐに手配する」
グレゴワールはそう言うと執務室を出ようとしたが、そういえばと振り返る。
「陛下に進言だ。最近、後宮には行っているか?」
「なんだ急に」
突然のそれにヴェルハルトは渋面になった。
グレゴワールはため息をひとつつくと、ヴェルハルトに向き直る。
「最近、後宮から不満の声があがっているよ。陛下がマリス殿のところばかり通っているとね」
「言わせておけよ。恋人に会うのは当然だ」
「……気持ちは分かるが君は皇帝陛下だ。従属国の人質の男にばかり執心されては他の者たちの立つ瀬がない。せめて同盟国の王女や令嬢のところには行きたまえ」
「断る。せっかくマリスと恋人になったのに、なぜ好きでもない者を抱かなければならないんだ」
ヴェルハルトは当然のように言った。
グレゴワールはため息をついた。そういう問題ではないのだ。それはヴェルハルト自身も分かっていることのはずである。
「陛下だって分かっているだろ」
「ああ、わかっている。後宮を安定させておくことは帝国の安定に繋がるとな」
後宮は皇帝陛下のプライベート空間だ。
帝国と関わりがある国の王女や王族の女性はもちろん、各領土の貴族の令嬢たちが暮らしている。それぞれ家の事情を背負っているので、少しでも皇帝陛下に気に入られようと野望を抱く。
そういった場所なので必然的に派閥が発生し、政争にも劣らない
おもに派閥の
互いの身分や実家の権威を値踏みしあって勢力争いをしていた。
マリスと出会う前の陛下は後宮を安定させるために特別な女性を作らず、同盟国の王女や大貴族の令嬢のもとへ満遍なく渡っていた。それならば後宮内で突出した力を持つ者も出てこず安定していたのだ。
もちろん
だが今、陛下に大本命が現われたことですべてが変わった。
今まで争っていた王女や令嬢にとうとう共通の敵ができたのだ。それがマリスだ。
後宮の外にいたマリスが皇帝陛下の心を奪ったことで後宮が一つになるという皮肉な現象が起きているのである。
「分かっているなら後宮に行ってくれ。皇帝だからこそ必要だ。皇帝が一人に執着することはよくない。平等に扱いたまえ」
「平等? 冗談だろ」
ヴェルハルトは鼻で笑った。
本命とその他を平等に扱うことはできない。
「グレゴワール、お前は勘違いをしているぞ」
「私が勘違い?」
「そうだ。なぜ皇帝の俺が自分の意に反することをするんだ。俺はこの世界でもっとも自分の意を通せるはずだ。そうだろ?」
ヴェルハルトはきっぱり言い放った。
その言葉にグレゴワールは眉間を押さえる。
「君は公明正大の善良な皇帝だ」
「それは光栄だ」
「だが、君ほど傲慢な皇帝もいない。過去の悪名高き王たちも
「ハハハッ、褒めるなよ」
「褒めてないよ」
グレゴワールは頭が痛いよと嘆いた。
だが、ここで引かないのもグレゴワールである。
「そういえば、庭園で同盟国の王女とマリスが接触したそうだよ。少し会話していたようだ。内容が気にならないかね」
「……。……それは気になるな」
「そうだろうそうだろう。久しぶりに後宮でお茶でも飲んできたまえ。それだけでも彼女たちの気は収まる」
「…………乗せられたようで面白くないが、仕方ないな。この政務が終わったら顔を出してくる」
ヴェルハルトが渋々と了承した。
政務が終われば一秒でもはやくマリスのもとへ行きたい。
だがマリスと接触したという同盟国の王女も気になる。後宮の王女たちがマリスに対していい感情を持っていないことはわかっているからだ。
こうしてヴェルハルトはマリスの元へ行く前に後宮に立ち寄ったのだった。
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