毒を飲んだマリス~毒親育ちの私が転生したら陛下に溺愛された話~

蛮野晩

第1話 前世の記憶と転生と


 私が前世を思い出したのは十三歳の頃。

 王都を駆ける馬車の車窓から、路地で物乞ものごいをしている男の子を見た時でした。

 薄汚れてくすんだ肌、ぱさぱさの髪、瘦せこけた顔の瞳はくぼんでしまっていました。病的な痩身にボロを着た男の子は縮こまるように座り込んで、通りを歩いている人をじぃっと見つめていたのです。

 まるで亡霊のようでした。

 だって路地にはたくさんの人が行き交っているのに、誰も男の子を見ないのです。

 人々の視界に映っているはずなのに、まるでそこにいないかのように歩いているのです。


 馬車の車窓から男の子を目にした瞬間、呼吸が止まるかと思いました。

 涙が次々にあふれだして大きな声で泣いてしまいました。

 突然泣きだした私を「マリス様!?」「どうされました、マリス様!?」と侍女たちが心配してくれます。

 ごめんなさい。私も分からないのです。

 見たこともない子どもの様子が怖かったのではありません。これは哀れみや悲しみの涙ではありません。

 ただ、あふれだした前世の記憶に圧倒されたのです。


 なぜなら、あの男の子はかつての私だったのですから。


 前世の私はこの世界とは違う世界、地球という星の日本という国に生まれました。

 アルコールに溺れて暴力をふるう父親。母親はそんな父親に耐え切れずに幼かった私を置いて出て行ってしまいました。

 幼かった私は誰かに頼ることもできず、助けを求めることもできません。いいえ助けを求めていいとすら知らなかったのです。

 父親の機嫌が悪い時は理不尽に殴られ、家を追い出され、行く当てもなく一日中外を歩いていたこともあります。父親に怯えてひっそり息を殺して生きていたのです。


 そんな私の最期はあっけないものでした。


 十三歳になった猛暑の日。

 その日は朝からうだるような暑い日でした。

 貧困だった私の家はガスも電気も止められてしまったので、朝から居間の片隅で座ってすごしていました。

 冷房もない部屋は暑くて暑くて動きたくなかったのです。

 私は朝から日焼けでぼろぼろになった畳の網目をぼんやり見つめてすごしていました。でもなにもしていないのに怒鳴られる。


「朝から辛気臭しんきくせぇ顔しやがって! 俺の周りをうろうろするんじゃねぇぞ!」


 はい分かりました。ここでじっとしてます。

 大丈夫、体がひどく重くて動けないのです。

 三日前から水道水しか飲んでいないので動く気力もありません。


「くっせぇな! ここまで臭ってきやがる!」


 そうですね、もう三週間もお風呂に入っていません。

 頭がかゆいです。足も腕も首もかゆい。全身の肌が枯れ木のようにくすんでざらざらしています。真夏だというのに汗もでてくれません。


「おい、なんとか言いやがれ!」


 ごめんなさい。喉がからからに乾いて声がうまく出ないのです。


「ガキのくせにいけすかねぇ、ますますあの女に似てきやがった!」


 それは理不尽です。私は母親の顔も覚えていないのに。

 でも父親は怒鳴って少し気が済んだのか、コンビニで買ってきた冷たい缶ビールをぐびぐび飲む。うちわで自分を扇ぎながら私に背を向けてごろ寝してしまいました。

 よかった、静かになりました。アルコールを飲んで眠っているあいだは怒鳴られないので助かります。怒鳴り声は頭に響いてしかたありませんから。


「ママ、アイス買って! 暑くて倒れちゃいそう!」


 ふいに窓の外から声が聞こえました。

 視線を向けると女性と小学生くらいの女の子が歩いています。親子なのでしょうね、楽しそうな会話が聞こえてきます。


「いいわよ、今日は暑いわね~」

「今日は最高気温を記録するかもって朝のニュースで言ってたよ! パパの分のアイスも買っていこうよ!」

「溶けちゃわないかしら」

「アハハッ。パパびっくりするかな」

「それじゃあ、アイスを買ったら急いで帰りましょうか。それなら溶ける前につくかな」

「競争しようよ!」

「あらあら、しょうがないわね」


 そう言って女性が笑いました。

 ふと窓越しに女性と目が合います。

 ドキリと心臓が跳ねたけれど、すぐに目は逸らされて女性は女の子と歩いていきました。わざと逸らされたのか、それともほんとうに気づいていないのか。……どうでもいいです。二人でアイスを食べながら歩いていきました。

 私はぼんやりと視線をさ迷わせ、眠っている父親の背中を見ました。

 背を向けられているので顔が分かりません。いえ、こちらを向いていたとしても父親は私を見ると怒鳴るだけで最後は顔を背けます。母親に似た顔は見たくないようです。


 私は自分がまるで亡霊になったようでした。


 この世界に存在しているはずなのに、存在していないような気すらするのです。

 世界から私だけが切り取られ、拒絶され、排除されたような、そんな虚無感に襲われました。

 虚無感は強烈な脱力感を伴なって……。


 ……ああもう、指一本も動かしたくありません。


 ずるり。壁に凭れていた体がずるずると傾いていく。

 強すぎる陽ざしがジリジリと肌を焼く。暑いとも痛いとも感じなくなっていく。

 視界が霞んで、もうなにも考えられなくなって、瞼が急激に重くなる。


 ……ちょうどいいです。うろうろするなと言われていたので、このまま眠ってしまいましょう。


 ………。……はあ…………。


 ながい、ながいため息が漏れました。

 ため息とともにそっと瞼を閉じて、……もう私が目を覚ますことはありませんでした。





 やはりあの世界に私は嫌われていたようです。

 転生した世界は私の知っている世界ではありませんでした。

 この世界で私は大陸の端にある小さな国・ヘデルマリア王国の第一王子マリス・フェアフィールドとして生まれました。

 王族に生まれた私は飢えを知らず、世界の残酷さを知らずに育ちました。あの物乞いの男の子を見るまでは。

 前世の記憶を取り戻した日、私は城に帰ってから部屋に閉じこもりました。前世の記憶を受け止めきれずに押し潰されそうだったのです。

 でも翌朝になると、いてもたってもいられない気持ちになりました。

 なにかに突き動かされるように城からありったけのパンやお菓子や果物を持って貧民街へ行きました。

 貧民街の人々にたくさん配りました。夢中で配りました。配るというより押し付けたといった方が正しいかもしれません。

 とにかく私のすべての持ち物を配ってしまいたくなったのです。


 城に帰ったら国王の父上に殴られました。


 殴られた理由はよく分かりません。

 愚か者だと罵られましたが、私は傷つきませんでした。

 理不尽な罵りや暴力は慣れていることを思い出したからです。





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