番外編 源氏物語

『源氏物語』 紫式部 / 角田光代訳

 通常は明確なテーマ設定の下でこの評論集(のようなもの)を連載しているが、今回はその暗黙の約束事を破って、『源氏物語』について一話割こうと思う。というのも、日本文学における頂点とも呼べる『源氏物語』をふと読もうと思いつき、(現代語訳とはいえ)完読した今、どこかでその読後感を言葉にしてみたいと私は感じたのだ。

 『源氏物語』といえば、中高の古典の授業で必ずといってもいいほど取り上げられる作品であり、その概要を多くのひとが凡そ知っている。しかし、おそらく本作との接点はそれきりで、たといどんなに読書好であっても、手に取ることが恐れ多いほど厚く、そして大昔の作品だからこそ、何か小難しさがあるのではないかと感じてしまい、読むことを躊躇してしまう。授業では恐らく第1巻「桐壺」の、それも桐壺帝と更衣との関係性だけを取り上げて、それだけで終わってしまう。「読書や勉強が長続きしない」という意で「桐壺源氏」という語句が存在するが、大半の人間は文字通り「桐壺」が『源氏物語』の全てとなってしまった。

 しかし、翻訳とはいえ、完読した身からすると、それは非常に残念なことだ。『源氏物語』の真価が垣間見える「桐壺」以降の巻で描かれる光源氏その他諸々の個性豊かな登場人物たちの交流と、心境描写を一切知らず、ただ「大昔のひとが書いた凄い作品」と何となく決め付けているに留まってしまう。とはいえ、娯楽があまりにも多様化している現代、わざわざ『源氏物語』を手に取る気にはならない。勿論、私は2000ページ弱ある本作を読むことは強要したくない。ただ、せめて誰かの再開のきっかけを作りたい、そんな傲慢な思いもあって、こうして文章にしているのだ。

 はてさて、まずは『源氏物語』の作品背景を見ようと思うが、これは作家の池澤夏樹が述べたように、まさに空前絶後の作である。空前絶後といえば、今や使い古された表現であり、何だか大袈裟で安っぽい響きがするが、『源氏物語』は真の意味で空前絶後である。『源氏物語』は長編小説である。それ以前にも『竹取物語』や『伊勢物語』などといった創作があるが、前者は語り継がれた民話のようなものを綜合して、散文化したものであり、後者は実在の人物(在原業平)をモデルとし、彼に纏わる伝承や歌を下敷きに物語を広げている。一方で『源氏物語』はひとりの作者が、文字通り無から生み出した労作である。そして、『源氏物語』の最大の特徴は、人物の感情の機微を徹底的に分析し、描写している所にある。感情表現はあるにしても、例に挙げた2作や、その過渡期に現れた作品はそれには不徹底とでも言えよう。殆ど物語の説明のためにしか感情は書かれない。それ以降も、『平家物語』といった軍記物の系譜が生まれたり、重要な説話集や御伽草子が編纂されたりするが、いずれも作家の空想によるものではない。日本に於いて、本格的な長編小説が再び現れるようになるのは井原西鶴らによる浮世草子の流行を待たねばならないだろうか(生憎私はその辺りの文学には全く明るくないので断言はできない)。

 その間に、スペインでは『ドン・キホーテ』が、中国では『三国志演義』をはじめとする四大奇書がようやく書かれ、いよいよ小説が文学に於ける最重要な地位を獲得するまでの歴史が始まったばかりである。西洋では特に徹底された研鑽と試行錯誤が繰り返され、明治期の日本でもその方法が紹介され、あっという間に吸収されていく。そして20世紀冒頭にプルーストの『失われた時を求めて』とジョイスの『ユリシーズ』で小説の極地を迎える。

 だが、『源氏物語』を読んでみると、西洋で研鑽がなされた方法論、既に実践されているではないか! いやいや、私が読んだのは現代語訳だし、訳者はこうした西洋の方法に洗練を受けているから、それが現れただけではないか。しかし、それは『竹取物語』や『伊勢物語』の現代語訳にも同様なことが言えるだろうか。もし徹底された心理描写があるのであれば、それは訳者が勝手に捏造した文章になってしまう! 勿論、私は挙げた2作が特別劣っているとは言っていない。ただ、これで、どれほど『源氏物語』が異質なものであるかは、十分に知れたと思う。

 さて、ここからはいよいよ内容に踏み込んで行こうと思う。しかし、今回は敢えてあらすじは割愛しようと思う。話があまりにも冗長になってしまうからだ。ここでは全編を読んだ私が、実感したことを書こうと思う。

 本作を読めば、引用や本作のために書き下ろしたものも含めて、和歌が異常に多いことがわかる。当時の、言葉遊びを交えつつ、七五調で思いを歌い合う特徴的な会話が見えてくるのである。これが当時の貴族社会に於けるコミュニケーションである。しかし、何より驚かされたのは、気候や情景を見事に取り込む感性の豊かさである。自らの感情を五感で感じ取れるものに例えて表現し、その意外性に満ちた鮮やかな言葉が自分の感覚を刺激する。そこまではどんな優れた韻文でも共通してくる。しかし、紫式部は、感情の機微を、歌だけではなく、人物の言動にも反映し、心理描写に奥行きを作っている。本作は歌などの、表立った感情のみならず、裏側の感情までをも読み解き、その普遍的な人間の心理を味わえるのだ。それを多角的に見せてくれる紫式部の腕前に思わず平伏してしまう。

 これほどの素養と、観察力を考えると、私は当時の女性が独りで完成させたという事実に疑ってしまった。しかし、読み進めているうちに、これほどの巨大な作で、物語として楽しむために散りばめられた伏線といった仕掛けや、複雑に入り組んだ人物相関図を管理し、致命的な矛盾点がないことに気付くと、むしろ複数人で編んだとは考えにくくなる。

 さて、最後に具体的な内容の一部に踏み込もうと思う。『源氏物語』の主人公はやはり光源氏(尤もこのような表記は本作で一度も取られていない)なのだが、彼が登場するのは最初の2/3のみである。残りの1/3は彼の子孫である薫と匂宮との間で起こる恋人の奪い合いが主に展開される。ここで私が特に取り上げるのは、最後の最後に登場するヒロイン、浮舟だ。浮舟は父に拒まれ、母はさほど身分の高い人物ではなかった。彼女の世話をしたのは他でもない薫だった。薫と浮舟は男女の仲を契るのだが、その間に匂宮が現れる。匂宮は強引に愛を浮舟に押し付け、それによって浮舟は思い悩む。そんなときに彼女は失踪し、薫も匂宮も彼女の身を案じる。しかし、薫は浮舟が横川僧都の許にいることを知り、会わせて欲しいと頼むが、僧都は拒んだ。やむなく手紙を書いて遣いに届けてもらおうとするが、浮舟は遣いとの面会を拒絶し、手紙を受け取らず、そのまま物語は突然幕を閉じる。

 このあまりにも呆気ない、しかし鮮やかな終わり方は、これまでの男女関係をひっくり返すようなものであり、実に見事だ。これまで登場した女性は、男性抜きでの生活は考えられなかった。そのために他の女に嫉妬し、生霊となって呪い殺すほど男に依存する者もいた(六条御息所)。しかし、浮舟だけは違う。彼女は自らの意思で出家し、自らの意思で薫を拒んだ。彼女は男性から自立した女性なのだ。平安時代にこうした女性が描けるのは、世界に目を向けても稀であろう。そもそも結末に向けるための物語の段取りも、徹底した三角関係の描写も、欧州でさえ近代になるまで、なかなか見られないナラティブだ。本当は19世紀の何者かが捏造した作品なのでは、とも疑ってしまうくらいだ。浮舟の潔さは勿論のこと、今なお恋愛物語(小説でも漫画でも映像でもだ)の手本となる筋立ては見事なものであり、それが真の意味で古典となりうる所以だと、私は思った。

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