『英雄たちと墓』 エルネスト・サバト

 自然科学を専攻していた人物が、それらを捨てて、文学の道を歩むケースは極めて多い。思いつくケースとして、私はまず安部公房を挙げる。勿論、医者でありながら文学に勤しむなど、文理両立型の作家も非常に多い。チェーホフや森鷗外がその最たる例だ。エルネスト・サバトもまた、本来なら物理学という自然科学の分野で将来を嘱望されたが、結局文学でより目覚ましい成果を残した作家のひとりだ。

 サバトらラテンアメリカブーム世代に先駆けて活躍した作家たち、ボルヘス、アストゥリアス、カルペンティエルらが欧州に渡って、シュルレアリスムの洗礼を受けて、それを故郷に持ち帰って自分の文学に反映させたという話は既にしている。サバトもまたしても全く同じルートを辿っている。こうした作品の傾向があった故に、彼の作品、殊に長篇『英雄たちと墓』がブームの火付け役となったのも想像に難くない。

 1955年6月28日の新聞記事には国中で大きな話題となった事件について記載された。没落した旧家の娘であるアレハンドラが父フェルナンドを射殺した。その後、弾丸が2発も拳銃に残っているにも関わらず、彼女は焼身自殺を選んだ。

 その同年のはじめ頃、19歳の青年マルティンはこれからの生活について思い悩んで、レサマ公園を歩いていた。そこで見掛けた女にふと声を掛けた。マルティンは女に魅了され、以降彼女と会うために、連日レサマ公園に通う。しかし、女は神出鬼没であり、長いときは2週間も見掛けない日があった。しかし、マルティンは女の不可思議な行動に翻弄してしまい、遂には自殺をも考えてしまう……

 本作は様々な時系列が入り組んだ複雑な物語となっている。それはマルティンとアレハンドラの物語が展開される現在の他に、アレハンドラの曽祖父ドン・パンチョが語るこれまでのアルゼンチンが歩んだ歴史など、広範に及ぶ。その他、上流階級と下層階級、上流階級のなかでも高位に留まる一族と没落する一族、対称的な見方をする人物、性格の異なる作家など、ふたりの男女の出会いから、アルゼンチン全体の歴史や社会が展開されている。

 壮大なスケールで書かれた本作は、後の作家たちも同じように描く、激動の南米史というテーマの性格がよく表れた作品である。後に名作を世に出し、ノーベル文学賞も受賞したガルシア・マルケスやバルガス・リョサなどといった作家群の系譜に乗った作家のひとりとして数えることができるであろう。

 

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