二十三の丙 楚人沐猴而冠



 このころ項羽は、ひそかに咸陽かんようの民意の調査を進めていた。

 何人もの諸侯を左遷させんし、多くの人間を殺しもした……そういう自分の行為が世間せけんの人々に批判されているのではないかと、今さらながら不安に思い始めたのである。


 項羽は、信頼できる近侍きんじの臣に商人風の格好をさせ、市街を歩き回って世間せけんの様子を観察するよう命じた。


 すると、1人の臣が、こんな報告を持ってきた。

「最近、多くの子供たちが、怪しげな歌を歌っております」


 これに興味を抱いた項羽は、晩の頃、一般人の服を着て身分を隠し、こっそりと街に出た。

 咸陽かんようの通りを歩いていると、はたして、子供の歌が聞こえてきた……



  1人の人がいて

  壁の向こうで鈴を鳴らしている

  ただ音だけが聞こえるが

  その姿は見えない

  富貴ふうきを得たのに故郷へ帰らないのは

  にしきの衣服を着て夜を歩くようなもの



 確かに、童歌わらべうたにしては妙に示唆的しさてきで怪しい歌詞である。


 項羽は、子供を呼び止めてたずねた。

「その歌は、誰から教わったんだ?」


 子供が答えた。

「夢の中で天から教わったんだ」


 項羽は驚いた。

「これは天のお告げに違いない!

 『故郷の彭城ほうじょう遷都せんとしろ』と、天が俺に言ってるんだ。

 この咸陽かんようは、戦乱で焼け残って荒れた土地。こんな所からは早く離れて、天のお告げに従おう!」



   *



 翌日。

 項羽は大将たちを集めて言った。

「最近、上天が歌をくだしてきて、咸陽かんよう城中じょうちゅうではみんなそれを歌ってるぞ。

 お前ら、なんでこのことを俺に報告しなかったんだ!


 いいか、歌詞の中の『今ひとり有り』。この『ひとり』とは俺のことだ。


 『壁をへだてて鈴をする。ただその声のみを聞き、その形を見ず』というのは、『天下の君主になったけれども、そのことが広く知られていない』ということを言っている。


 そして『富貴にしてごうかえらざるは、錦衣きんいにて夜を行くが如し』……この部分は、『天下を取ったのに、いまだに咸陽かんように留まって、故郷ににしきかざれていない』ってことをたとえているんだ。


 この歌詞は、俺の気持ちをピッタリ代弁してくれている。

 しんの宮殿は全部焼けてしまったから、新しく内裏だいりを造営するにも時間がかかる。


 一方、彭城ほうじょうりょうの土地。淮水わいすいの北側9郡、千里に渡って肥沃ひよくな平野が広がっている。

 これは、まさに帝王のみやこにふさわしい場所だ。


 しかも、俺の故郷でもある!

 というわけで、吉日きちじつを選んで彭城ほうじょう遷都せんとしよう」


 しかし、ここで諌議かんぎ大夫たいふ韓生かんせいが進み出た。

 諌議かんぎ大夫たいふは、天子への諌言かんげんを専門に行う官職。このとき彼の口から出たのも、もちろん諌言かんげんである。


「恐れながら申し上げます。

 この歌の詞は、すべて人間が作り出した言葉。上天の意志などではありません。


 ここ関中は、いにしえより多くのみやこが建てられていた地。

 四方をけわしい山河さんがに守られた天然の要害ようがいです。


 東には黄河と函谷関かんこくかん

 西には大隴関だいろうかん山蘭さんらん県など。

 南は終南しゅうなん山に武関ぶかん

 北には渭水いすい涇水けいすい、そして潼関どうかん


 すべて合わせて百二山河さんが、三山・八水と申します。肥沃ひよくな大地が千里に渡って広がる、まさに天府てんぷの国でございます。


 かつてしゅう国はこの地からおこり、しん国はこの地に根ざして覇権をつかみました。

 それなのに、覇王陛下は、どうして子供の歌などを信じて、王者がおこる地をお捨てになるのですか」


 項羽は、韓生かんせいに対して、バカにしたような笑いを投げかけた。

「お前は関中にみやこを置けと言うんだな。それは、ちょっと不愉快だぞ。

 俺が遷都せんとしようと言ったのには、3つの理由がある。


 1つ目は、俺は3年に渡ってしん征伐せいばつに駆け回っていたから、長いこと故郷に帰れていない。

 2つ目は、関中は山が多くて平地が少ないので、風景を見ようとしても遠くまで見えない。

 3つ目は、上天が歌をくだしたのは偶然じゃない。なぜなら、俺の頭の中を見通したように、歌詞がピッタリ俺の気持ちに合っていたからだ。


 もう遷都せんとすると決めたんだ。止めるんじゃないぞ」


 しかし韓生かんせいは、なおも食い下がった。

「陛下! 陛下は、四海(世界)の君主として、太陽が天の中心にいるのと同様に世を照らしておられるのです。

 陛下をあおぎ見ない者が、この世におりましょうか?


 それなのに、なぜ故郷へ帰ることを栄華と考えなさるのですか。

 高名なじゅ学者がくしゃである孟子もうしも、『王の所有物でない土地は1尺たりとも存在しない。王の家臣でない人間は1人たりとも存在しない』と言っております。


 陛下がどこにおられようと、この中国すべてが陛下の土地なのです。どうして彭城ほうじょうだけにこだわる必要がありましょうか」


 項羽は笑った。

「お前の言ってることは矛盾してるぞ!

 天下がみんな俺のものなら、なおさら住む場所は俺の自由にして構わないじゃないか」


 韓生かんせいが言う。

「以前、范増はんぞう殿がわかぎわおっしゃったではありませんか。『決して咸陽かんようを離れてはいけません』と!


 范増はんぞう殿のことです。深く深く考えたうえで、あのように言い残して行かれたに違いありません。

 陛下、どうしてこれをお忘れになるのです!」


 と、ここまで聞くと、項羽は表情を一変させた。露骨ろこつに不快をあらわして、韓生かんせいにらみつける。

「俺は天下を縦横じゅうおうに駆け回って、向かうところ敵無しだった! 范増はんぞうなんかに俺の気持ちが分かるものか!

 おしゃべりが過ぎるぞ、韓生かんせい!」


 さすがの韓生かんせいも、これ以上は何も言えず、すごすごと退出していった。



   *



 項羽の前から退出した韓生かんせいは、大きく溜め息をつき、ぼそり、と、こんな言葉をらした。


世間せけんの人々が『楚人そじん沐猴もっこう而冠じかんだ』などと言っているが、まったく、そのとおりだな……」


 この小さなが命取りになった。

 どういう経緯けいいでかは分からないが、この言葉が、項羽の耳にも入ったのである。



(つづく)

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