二十三の甲 楚人沐猴而冠



 張良がたずねてくると、項伯は喜んで自分の邸宅に迎え、滞在たいざいさせた。


 しかし、張良の憔悴しょうすいぶりは普通ではなかった。

 もともと張良は線が細く、色白で、どこかはかなげな雰囲気ふんいきを持つ男ではあった。今の張良はそれがさらに酷くなり、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しく見える。


 項伯は、張良を心配して言った。

「張良、これからどうするつもりだ?」


 張良は薄く笑った。

あるじは死んでしまったし、私の体も病気がちだ。

 これからは老子の玄黙げんもく(おくゆかしい沈黙)の術を習い、荘子の放蕩ほうとうゆうを学び、箕山きざん許由きょゆう巣父そうほ、あるいは首陽山しゅようざん伯夷はくい叔斉しゅくせい行跡ぎょうせき辿たどっていきたいと思う。

(いずれも道教の大家たいかや高名な隠者いんじゃ


 雲や水が流れ行くように各地を流浪るろうし、他人との議論も避けて、山林に入り、仙人をたずねて、その素晴らしい教えをさずかりたいのだ。

 名声や利益を追い求め、世間せけん奔走ほんそうして歴史に名を残す……だなんて、そういうのは、もうたくさんだよ……」


 これを聞いて、項伯は深く、うなだれた。

 惜しい。あまりに惜しい。張良ほどの人材が、ぞく世間せけんを離れて世捨て人になろうとは。

 だが項伯は、はっきりと悟ってもいた。

 あの張良がここまで言う以上、彼にはもう、再び仕官する気が全く無いのだ。


 これ以後、項伯は二度と張良に仕官を勧めなかった。

 ただ自分の邸宅に張良を逗留とうりゅうさせ、友情を尽くしていたわり、彼の心がえるのを、じっと待ち続けたのだった。



   *



 それからしばらく時が過ぎた。

 ある日、項伯が覇王項羽に呼び出されて朝廷へ出仕したので、張良は一人で邸宅ていたくの裏庭へ散歩に出かけた。


 あざやかに咲き乱れる薔薇ばらの花園。

 その色と香りを堪能たんのうしながら歩いていると、庭園の奥に、小高いろうが見えてきた。

 ろうの門には、『万巻ばんかん書楼しょろう』とがくかかげられている。


 張良はろうに近づき、がくを見上げた。

いにしえの書物に、『千の故事こじを極めんとほっせば、朝暮ちょうぼ書楼しょろうともなわん』という言葉がある。

 そういえば、このところ読書もしていなかったな。少し、のぞいてみようか」


 張良は静かに階段を登り、ろうに入った。

 『万巻ばんかん書楼しょろう』の名にふさわしく、ろうの中は数え切れないほどの書籍に満たされている。

 左の方には古い書物が何万巻も積まれ、右の方には諸国から届いた文書や、官僚たちからの奏上そうじょう文が、うずたかく積み上げられている。


 項伯は尚書しょうしょれいという官職についている。

 これは天子の秘書とでも言うべき役目で、あちこちから届いた報告、陳情ちんじょう献策けんさくなどの文書は、まず項伯の手元に集められてから、覇王項羽に送られる。

 項伯は、そうした奏上そうじょう文を、几帳面きちょうめんに一つ一つ書き写し、ひかえとして書楼しょろうに保管していたのだ。


 張良は、なにげなく文書を手に取り、一つ一つ開いてみて……鼻で笑った。

「たいした文書ではないな」


 ある物はひどかたよった意見。またある物は道理の通らない珍説。あるいは私利私欲のためにつまらぬ人物を推挙すいきょする推薦状。誰かをおとしめて殺そうという狙いの讒言ざんげんもある。

 ことごとく、取るにらない。


 だが、ある奏上そうじょう文を開いたところで、張良は顔色を変えた。

 その文書の内容は、こうだ。


『臣は、次のように聞いております。

 天下を治める道は、天下のせい把握はあくすることを重んじ、天下のることを重んじる、と。


 せいとは、力の強弱を明らかにし、敵の備えの有無を察し、利害を知り、行動を起こした場合に得るものと失うものをくわしく検討することを言います。

 せい把握はあくして、はじめて天下を治めることができる。

 そうでなければ、どんなに力が強くとも、勝利は一時いっときのものとなってしまう。それはただ武勇と暴力に頼りきっているに過ぎず、最終的には必ず敗れて滅亡します。それでは、天下のせいに乗れているとは言えません。


 そしてとは、国家の興亡を見分け、治まっているか乱れているかを見極め、異変のかすかな兆候ちょうこうまで調べ尽くし、秘められた陰謀をも明らかにすることを言う。

 って、はじめて天下を動かすことができる。

 そうでなければ、在野ざいやの勢力が運よく国を得たとしても、長く国を保つことはできない。これでは、とらえているとは言えません。


 陛下は関中においてとなえましたが、人民の心は今なお服従しておらず、国の根本は今なおしっかりと立ってはおりません。

 民衆はただ、陛下の強さを恐れ、威勢を恐れ、表面おもてづらだけ服従して見せているのです。

 しかし、強さは、いつか弱まる。威勢は、いつかおとろえる。そして表面おもてづらは本心とは別物です。


 強さと威勢と表向きの服従は、まさに陛下がたのみとしておられるもの。それらが一度しぼんでふるわなくなれば、一朝いっちょうたりとも天下を保つことはできますまい。

 長く統治することを望んでも、望み通りにはいかなくなります。


 これこそ、臣が陛下のためにきもを冷やして心配していること。


 劉邦は、山東さんとうに住んでいた頃、欲深く財産をむさぼり、色を好んでいました。

 しかし関中に入った後は、政治に力を注ぎ、仁愛の心で民にほどこしを行い、他人の財産を奪いもせず、婦女に手を出すこともなく、法を三章に簡略化して人心をつかみました。


 それゆえ、しんの民衆は喜んで劉邦に服従し、彼が関中の王になれなかったことをうらみました。


 一方、覇王陛下は関中に入ってからというもの、善政を行ったという話ひとつ無く、それどころか殺戮さつりくする姿ばかりを民衆に見せている。

 家臣からの邪悪な讒言ざんげんに踊らされ、しん王家がやってきた乱暴なふるまいと同じてつばかり踏み、子嬰しえいを殺し、始皇帝りょうを盗掘し、阿房あぼうきゅうを焼いて、民からの人望を失いました。


 臣が思いますに、覇王陛下は知らないのでしょう。せいを立てるということも、さっすることも、何が不正で何が悪行なのかも。

 天下は陛下に服従しているわけではありません。まだ反逆を行動にうつさず潜伏しているだけなのです。


 劉邦が一度ひとたび声をあげれば、諸侯は響くように呼応する。

 そうなれば劉邦は、強くなろうとせずとも自然に強くなり、勝とうとせずとも自然に勝って、覇王陛下がたのみにしているもの全てを奪い取ってしまうでしょう。


 先日、劉邦がしょく桟道さんどうを焼いた。あんな行動は、当然、劉邦の策略です。

 桟道さんどうを焼いたのは、「劉邦はもう東方に戻るつもりがないのだ」と覇王陛下に思い込ませ、三秦さんしんを油断させて厳重な備えを解除させるため。

 その後で西蜀せいしょくの民衆を集めて戦力を拡大し、関中の地を攻め取ろうとしているのです。


 こういうことを見抜くのが、『天下のせい把握はあくし、天下のる』ということです。


 この私は、劉邦の考えなど自分のことのように見抜いています。

 しかし覇王陛下はボンヤリして、こういうことに気づいておられない。

 陛下の左右の将や兵士も、ただ武器を振り回すことしか頭になく、陛下の威風に唯々いい諾々だくだくと流されているに過ぎません。


 ここまでの戦いで覇王陛下はひたすら勝ち続けました。ご自分を天下無敵だと思っておられるでしょう。

 しかし、敗北と滅亡のきざしが、目に見えないところへ、すでにえ出てきていることをご存知ぞんじない。


 だからこそ、臣は人々から無礼だとめられることさえ覚悟の上で、覇王陛下のために右記のことを申し上げたのです。


 以上をふまえまして、今は、次のような計をすべきです。

 まず兵員を増強する。

 戦備を厳重に整える。

 国境のかんに軍勢を派遣して哨戒しょうかいさせる。

 しんの領土を章邯しょうかんら3人から取り上げ、彼らを他所よその土地に送る。

 代わりに知恵と武勇にすぐれた人物を責任者に選び、街道上の狭隘きょうあい地(狭い所)やかんなどに要塞をきずいて封鎖する。


 さらに、劉邦の家族を連れてきて覇王陛下の手元に軟禁なんきんし、みやこ咸陽かんように建てる。

 仁義をもって政治に取り組み、兵馬を整え、兵卒たちには行進の仕方や隊列の組み方を訓練させ、内政のためには宰相を務める賢人を探し求め、外政のためには有能な将軍の元をおとずれて勧誘し、古代のしゅう王朝を模範もはんとして政治を行う。

 これが最も良いことです。


 このように正しく国を運営していれば、劉邦もすき見出みいだすことができず、東方へ帰還する計画を断念するでしょう。

 しかも、社稷しょしょく(国家)は磐石ばんじゃく(巨岩)のように固く安定します。


 以上。

 臣、まことに惶恐こうきょう頓首とんしゅす。謹言きんげん


 張良は、この奏上そうじょう文を読み終えて、感嘆かんたんの溜め息をらした。

 一つには驚きのため、一つには喜びのためである。


 驚きとは、危機感からである。

 この奏上そうじょう文を書いた者は、こちらの意図や方針をピタリと見抜いている。

 もし項羽がこの人物を採用し、この献策けんさく通りに手堅てがたく防備を整えたら?

 もともと勢力の大きさや強さでは、項羽の方が格段にまさっているのだ。漢国の劉邦たちは、もはや手も足も出せなくなるだろう。


 一方、喜びとは期待からである。

 この奏上そうじょう文の作者は、まぎれもなく並々ならない知恵者だ。

 どうにかして漢の臣として引き入れ、を打ち破るための大元帥だいげんすいの役目につければ、殺されたかん王のかたきを取ることも、漢によって天下統一することも夢ではなくなる。


 どこの誰かも分からないが、この人物は大将軍の才を持つ者に違いない。

 磻渓ばんけいで釣りをしていた大軍師太公望たいこうぼう呂望りょぼうや、しん国の野から現れた大宰相伊尹いいんにも劣らぬ人材だ。


 張良は足早に書楼しょろうから下りて、わくわくと胸をおどらせながら、項伯の帰宅を待った。



(つづく)

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