壊れた世界と君の歌

川瀬川獺

ループ0

 茹だる様な真夏の都会。

 薄暗くぎゅうぎゅう詰めの人だかりの中、身体の底に響く重低音。

 掻き鳴らされるギターは激しく、観客のボルテージも上がっていた。

 そんな中マイクを握り締めて歌い上げスポットライトを我が物の様に浴びる中央の美しい人から目が離せない。

 明るい金髪にシンプルなピアス、人差し指のシルバーリングに聞き心地の良い低めの優しい声。

 ロックもバラードも、その綺麗な唇から発せられるものは全てが美しかった。

 今いるこのライブはインディーズロックバンド、ヘヴンズの公演で結成時からの根強いファンやヴォーカルの拓海の顔と歌が目当ての女性客が足を運んでいる。俺は木戸勇也(きどゆうや)というただの茶髪の冴えない地味な二十五の社会人で、こんな奴がロックバンドのライブに?と浮いている気がしないでもなかった。

 背も高く金髪が良く似合う美しい人、折原拓海(おりはらたくみ)はファンの声を余す事無く拾い、コールアンドレスポンスで客との一体感を作るのが本当に上手い。

「次がラストの曲だ!お前ら盛り上がれるか!?」

 造形が美しいと声まで美しいのかもしれない。心地の良いコールに対し拳を宙に突き上げて大きな声援でそれにレスポンスする。

「それじゃあ聞いてけ!最後の曲……『パラドクス』」

 タイトルの読み上げの後に複雑なベースラインに合わせてドラムとギターが乗り、これぞロックというヘヴンズの人気曲のイントロが流れ始め歓声が上がった。

 一筋の汗が拓海の額から頬を伝ってライトに光る。圧倒的な歌唱力は周囲を魅了して止まない。未だにインディーズなのが信じられない程の密度の濃いライブ。単独が出来る程度にはファンも根付いていてそこそこ人気だとは思う。

 折原拓海の歌は初めて聞いた時から俺の心を掴んで離さない。最初は本当に小さなライブハウスでスタートしていたし、チケットだって手売りだ。




 時は三年前に遡る。短大出で就職してだいぶ東京にも慣れ始めた二十二歳の頃。あの時もまた同じく茹だる様な暑さだった。

 帰りにたまたま通りがかった路上でライブのチラシ配りをしていた彼と出会って目が合ったのがファーストインパクト。顔が良い、誰もが振り向くようないわゆるイケメンだった。

「ライブやるんで、良かったら」

「あ、はい!行きます」

 渡されたチラシを受け取って、もう一度顔を見る。同性だというのに人をこんなに美しいと思ったのは初めてだ。

 思わず力強く頷いてしまい変じゃなかっただろうかと不安になるが拓海は集客の手応えを感じたのか「そっか……」とほんの少しだけ嬉しそうだった。

 行った先のライブはありがちなコピーバンドからのスタート。それでも既に拓海の歌とパフォーマンスは頭角を現していた様に思う。

 演奏も決して悪くなく上出来で、何よりヴォーカルの歌が心を高鳴らせた。聞き惚れるという言葉があるが、まさにその言葉通りだ。

 ライブの集客はまぁまぁで、頑張ってチラシ配りをしたのだろう事が伺える。見た所大学生といった辺りだろうか、年齢は俺と然程変わらなそうだった。もしかしたら友達も誘って見に来ているのかもしれない。

 偶然とはいえ久々に良いものを聞いたなと余韻に浸りながら帰路についたのを今でも鮮明に覚えている。

 思えば、あの時から運命は動き出していたのかもしれない。




『ねぇ聞いてるー?お兄ちゃんまだ彼女居ないの?そろそろ……ってかもうアラサーじゃない?』

「うるさいな加奈……良いだろ別に。今の時代なんて三十代で結婚する人も多いんだし」

 少し物思いに耽ったが二十五歳の俺に戻る。電話の相手は木戸加奈(きどかな)、俺の妹だ。上京して一人暮らしをしているのを心配してこうしてよく母と交互に電話をしてくるが毎回一言が多い。

『ちゃんとご飯食べてる?コンビニのごはんとかカップ麺とかばっかりじゃないよね?あ、お母さんが米送るって』

「はいはい、ちゃんと食べてるし米はありがたく受け取りますよー」

『お兄ちゃん真面目に聞いてないでしょ?』

「んな事ないって、今日も卵焼きと鯖の塩焼きと味噌汁作ったし今食ってるし」

 スマートフォンはテーブルの上でスピーカーモードにしている。実際正に今食事中で、テーブルには焼きたての卵焼きと鯖の塩焼き、湯気が立ち昇るキャベツの味噌汁と茶碗に盛った白米、水の入ったグラスが鎮座している。卵焼きをひと欠け箸で摘まんで口に頬り込んだ。

『自炊出来たんだ!?』

「失礼すぎるだろ」

 全く、と味噌汁の椀を持ち息を吹きかけてから啜る。今日もまずまずの出来だ。

『相変わらず好きなバンドのライブ行ってるの?』

「ああ。そろそろメジャーデビューするんじゃないかって噂もちらほら出て来たよ」

『ふーん。お兄ちゃんが何かにハマるって殆ど無いからさ、余程好きなんだねそのバンド』

 言われてから気付いた、確かに折原拓海に出会うまで物にも人にも執着というものが無くて無趣味。精々やってもゲームを少し位。祖父の形見の腕時計は大切にしているが趣味と言える程集めても居ないし執着は無い。

 喋りながら淡々と夕飯を食べ進めてすっかり空になる頃には加奈の気も済んだ様子だった。

『それじゃお兄ちゃんまたねーお母さんも身体に気を付けなさいよーってさ』

「はいはい、それじゃまたな」

 スマートフォンの画面の終話ボタンを押して通話を切るとハァ、と溜息が漏れる。気に掛けてくれるのは嬉しい事ではあるがこれでは兄離れ出来ない妹と子離れできない母親だ。もう大人なのだからもう少し放って置いてくれなどと思うが無下に出来ない自分も居る。なんやかんやで家族の事は嫌いになれない。

「そうだ、じいちゃんの時計暫く手入れしてないな」

 先程の会話でふと思い出したのは祖父が遺した腕時計。丁度今使っている物が動かなくなってしまった為ありがたく使わせて貰おうと考えていた。

 スマートフォンをポケットに捻じ込んでから食器を重ねて立ち上がり、そのままキッチンのシンクに置きスポンジに食器洗剤を絞り出して水道の水を捻り少し濡らして泡立てる。使ったフライパンに菜箸や魚焼きグリルの網を含めて一気に食器を洗い水を止めてからタオルで手を拭いて寝室の方へと向かう。

 確かここに……とベッドサイドのチェストの二段目を開き小箱を取り出す。それを開くと高級そうでいて、しかしシンプルな造りの時計があった。壁掛けの時間と照らし合わせると腕時計の方がニ十分程早くずれていて横のつまみを過去に回し時間を調節する。

 つまみを戻せば静かに秒針が動き、正しく時を刻み始めた。しかしこの時から異変に気付く事になる。

 ブルブルとスマートフォンが振動し、それをポケットから取り出してベッドに転がり画面を見ると加奈と表示されている。何か言い忘れた事でもあるのだろうかと通話に出てみた。

「なんだよ加奈、どうした?」

『そろそろご飯の時間だからちゃんと食べてるかなーって』

「いや、さっき食べながら通話したよ」

『え?何言ってるのお兄ちゃん、今日初めてかけたんですけどー!寝ぼけてる?』

「……は?お前何言って……」

 感じたのは違和感所ではない。何の事か本当に加奈は分かっていない。おかしい、何だこれは。徐々に顔が青褪めていくのを感じる。

『そういえばお兄ちゃんまだ彼女居ないの?そろそろ……ってかもうアラサーじゃない?』

「それは、さっき……聞いたって」

『アハハ、まだ寝ぼけてるのー?あ、お母さんがお米送るからってさ』

 ズレていたのは腕時計じゃない、壁掛け時計の方だ。手にした腕時計とスマートフォンの時刻表示を確認するが間違っていない。縋る様に見た壁掛け時計の時刻がまたズレている。『聞いてるー?』と加奈の声が聞こえるがそれ所では無い。自分以外の時間が巻き戻っているのだと気付くには加奈からの通話で充分だった。

 こんな非現実的な現象あってたまるか、そう思いながら一晩眠ればいつもと変わらない日常が待っている筈と信じて適当に加奈と数言やりとりをしてからもう眠ろうとそのままベッドの布団に潜り込んだ。




 待ち構えていた朝はとても信じがたいものだった。

「なに、これ」

 起きてから朝食の用意とシャワーを浴びなければと思いつつ気まぐれにつけたテレビのニュースは、良く見覚えのある金髪の美しい一人の男を映し出し『神の歌声を持つ男 折原拓海』と特集を組んでいる。何が起きているのかさっぱり分からない。拓海はまだインディーズの、ただのバンドのヴォーカルだった筈だ。昨日の今日でこんな大事になる筈がない。

 別のチャンネルに変えても折原拓海の事ばかりで、まるで本当に神にでもなったかの様に扱われている。しかし流れる歌声は確かに彼のもので、でも聞いたことの無い曲だった。

「……なんで、そんな悲しそうな歌い方するんだよ」

 最初に気付いた違和感は悲しみを滲ませたその声色。自分が知っている折原拓海はこんなに悲しそうに歌ったりはしない。いつも前向きで、楽しそうで、必死に声を張り上げていた筈だ。

 気付いた時には膝から崩れ落ちていた。スマートフォンでネットニュースを開くがやはりどれもこれもが折原拓海を崇める様な記事ばかり。

「何が、どうなったんだ……なんで……」

 極めつけは妹、加奈からのトークアプリを介したメッセージが届いた事だろう。

『今日の拓海様も最高じゃない?』

 そんなメッセージと共にネットニュースの記事からスクリーンショットしたのだろう写真が送られて来た。本当の加奈は折原拓海を知らない。名前を言った事なんてないしバンドにも然程興味を示さなかった筈。

「なんだよ、なんなんだよ……」

 頭が混乱する、たった一晩で世界は明確に変わってしまった。

 テレビが映し出す大都会の景色は、折原拓海が描かれた看板が幾つも並んでいる。自分だけが別の世界に来てしまったのだろうか。有り得たかもしれない別の世界線に来てしまったのだろうか。それとも世界の方が壊れて自分が取り残されてしまったのだろうか。

 分からない、分からない、分からない。確かなのはバンドのボーカルとして輝いていた折原拓海を知っているという事だけ。

 スマートフォンを強く握り締めてから検索サイトで折原拓海と検索すると次世代の神、神の歌声と彼を称える文字が並ぶ。経歴を調べるがそれはヒットしなかった。突如現れた謎のヴォーカリスト、まるで神の様な扱いを受ける人気者。洗脳でもされたかの如く彼を崇める人々。

 誰もが賞賛の言葉を口にする。気安く美しいと言うな。俺の方が何百倍も拓海を美しいと思っている――そう思っていても、やはり、無情にも世界は折原拓海を美しい神たる存在だと称えていた。

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