君が結界を破ったら

海来 宙

君が結界を破ったら

 ほら、電車が走っている。いちめんのステンレスに二色の帯をまとった車体に、これから起こる「大迷惑」に対抗しようと絶対破れない結界が張られた。

 もしがこの結界を破って乗ってきたら電車はどうなるのだろう。は早朝のホームにたたずみ何を思っているだろうか。悪魔のは人間が張った結界を破るなんて朝飯前だが、対するは絶対破れない結界である。

 さあ駅に到着。「大迷惑」を引き起こす存在は憂鬱な乗客たちの中にいる。開く扉に近づく制服姿のは開かない結界に苦しげな顔一つしない。人込みに紛れて颯爽と電車に乗り込み、周囲をうかがって横に長い座席の前に立つ。扉が閉められた電車はぐいぐい加速し、やがて轟音を響かせて鉄橋を渡っていく。光射し込む蒼と翠の川の上で「大迷惑」が始まった。

 ぎりぎりに乗って向かい側に腰を下ろした高齢の小汚い女、「ちょっと、邪魔すんなよ!」と怒鳴って目の前のふくらはぎを蹴飛ばした。人間として登場しないはずが人間だったこの女は上流の山が見たいようだ。

 痛みと怒りで振り返ったの反応は「いったあ、何なのやめてよババア!」、結界内でも変わらない十代のみなぎる熱量を抑えきれず、プリーツスカートの腰を他の乗客にぶつけてしまう。電車の揺れにも翻弄されてバランスを崩した男性が手すりをつかむ。何やら愚痴をもらしたが聞こえず、「電車がもう五十四秒も遅れてるんだ、どうしてくれる!」と叫ぶは自分がぎりぎりに乗ってきた問題の高齢女。しかもたった一分? 実際はその一分さえ遅れてなかったはずで、それを知るのか奥の座席で男性が不機嫌に咳払い、だだんと足を踏み鳴らした。

 腰掛けた女と同じ高さに目線を持っていったは「ふーざーけーんーな」と吐き捨てるも、すごみに勝る顔でにらみ返されて後退、後ろの女性の革靴を踏むことに。そばで驚いて鞄を落とした女学生を指さし、汚れた高齢女が「臭う、この娘はさっきから汚い血をだらだら流してるんだ。早く早く娘を始末せよ!」と抗議するように手を広げた。怪我? わけが分からない、いや生理ってことか。それは若い頃のあんたもだろうと軽蔑の視線が車内から集まった。

 横顔で歯を食いしばったは前方に移動して大袈裟なため息をつき、桜色に上気した首すじに続く白いブラウスをわずかに上下させる。悪魔のは自分の妖しい魅力を知らないのか、平気でボタンを二つはずれさせている。電車が鉄橋を渡りきり、足元の金属音が穏やかになった。

 反対にもう十分怒っていた面倒な女が振り返って「そっちの奴らはあたしが殺すよ!」ととうとうぶち切れ、鬼の形相で腰を上げ懐から取り出すは大型のプラスチック定規! こんなので暴れる気か? 敵は全員だぞ? 薄汚れた女は「そっちの奴ら」の一人目に襲いかかった。

 それはだ! とっさに両手を交差させ防御する、感情を爆発させた相手には足りない。ここへ来て結界がの邪魔しているのか? 鋭く磨かれた定規で張りのある二の腕に赤い傷が走り、は言葉にならない悲鳴で二次攻撃をよけようと突っ張る右足。

 瞬間、電車が急減速!

 力を最悪の方向にかけたは「きゃあっ」とつり革すらつかめず飛ばされる。一気に進行方向へ倒れ込み、近くに立つ女学生の腹に頭から飛び込んでしまう。女学生は苦悶の表情で後頭部を連結部分の貫通扉に激突させ、人の力で損傷するはずがないガラスにひびが華火を描いた。華火には血が色を添え、「汚い血だ! こっちも穢れた汚い血だ!」と自分こそが汚い高齢女が指さして罵る。は起きたことの衝撃に茫然と蒼ざめ、のろのろと頭を上げる。少量とはいえ血を見せる腕の傷をあっと隠す。見られてはいけないと思ったかは。

 あまりの光景にあっけにとられ、誰一人傷を負った女学生に声を掛けず、ただただ言葉を失って惨状を眺めていた。壁の非常通報器を使おうともしない。電車は速度を抑えて走った先の駅にふわふわ停車している。「大迷惑」は電車が走るうちに終了して高齢女の爆発も治まったが、通常起こらない一度目の減速が被害を大きくしてしまった。

 しかしさすがは悪魔、一番最初に立ち直ったがぱっぱと制服を正し、乱れた胸のボタンはそのままに何食わぬ顔で降りていった。恐ろしい、は普段からわざとはずしているのだろうか。そして結界にも打ち勝つ美しいが去るのは残念。そう、悪魔のが最後まで平然と絶対破れない結界を破り続けるなんて、信じられない。

 電車がそろりそろり駅を離れていく。危険だった女はいつの間にかホームに立っており、こちらを振り返ったところで後方へと消えた。のあどけない制服姿も見えなくなる。車内に残った真っ当な人間たちから、何とか起き上がった女学生に手を貸す者がやっと現れる。命はまだ消えていなかった。

「ああいう危ない客は、あなたみたいな若い人が何とかしなきゃ」

 え? 上品そうな中年女性から非難の声。はっとする僕は確かに座席にくくりつけられたみたいに何もできなかったが、前もって絶対破れない結界は張っていた。問題は「大迷惑」に対抗して張った結界がその「大迷惑」を防げなかったこと。簡単に破ったのは悪魔の。高齢女はどんなに醜くとも人間だから破る必要すらなかった。人間じゃないはずだったのにどうして、計算が狂ってしまった。もう最悪。

 では魅惑的な少女のと汚らしい高齢女とどちらが悪いのだろう。根本的に悪いのは高齢女だと思うが、直接的に他の乗客と接触したのは全て。だからのせいにされないか僕は心配している。そして僕は僕で絶対破れない結界がどうして悪魔であるの侵入までもを防げなかったのか。こちらを責められるのはではなく僕、困った。

 僕はせめてだけは護りたい、ならば隠してしまえばいい。この文を含めて小説内から「」が入った各文を全て消し去ると、何との登場しない新たな小説に生まれ変わる。それを終えたらにももう一度出だしから読んでもらいたい。ほら、全てあの汚れた女が悪いのだ。ただがこの世に存在したことが分からなくなるし、頭文字が「」の題名も消えてなくなる。

 さて、題名はどうしようか。


          了


▽次の話は、この小説から新たな小説です。くり返しかよなんて思わず、ぜひ読んでくださいね!

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