百四十三句目 トイレの洗剤

トイレの洗剤を買った。

このマンションに引っ越してきてから二回目。

つまり、半年ぶりくらいの買い物になる。


トイレ洗剤にこだわりなんてない。私はスーパーに行くと、陳列された何種類ものトイレ洗剤の中から、三番目に安いものをカゴに放り込んだ。「毎日の水分補給に!!」真っ赤なゴシック体の文字が元気よく値札の上で踊っている。


「変なの。」


くすっと笑いが漏れてしまった。疲れているのだろうか。最近こういうのに弱い。ツイッターに投稿すればバズるだろうか。そんな妄想を膨らませた。


「ねえちょっと。」


不意に声をかけられたので驚いてしまった。振り返ると、いつからいたのだろう、五十代くらいのおばさんがカゴを片手に仁王立ちしていた。


「半額待ちならどいて頂戴。私が買うから。」


「はあ、すみません。」

洗剤を一つ手に取り、その場を離れる。


おばさんは何やらぶつぶつ呟きながら、買い占めるように洗剤をカゴにぶち込みまくっている。あーあ、変なおばさんに絡まれちゃったな。値札の写真を取り損ねたことを後悔しながら、私はレジに向かった。



家に帰り、一緒に買ったクーリッシュを頬張りながら、左手に持った洗剤を眺める。注意書きの文字がつらつらと並んでいる。私はこういったほとんどの人が目にも留めないような文章を眺めるのが好きだ。誰も読まないんだろうなあ、なんて言いながら文法に間違いがないかをチェックしたり、見やすいように改行したりする。注意書きの向こうにそんな人間がいると思うと、何だか愛おしく感じられて、抱きしめたくなる。報われてほしいと思う。



使用上の注意 ●用途外に使わない。●空中にスプレーしない。●目より高い位置にスプレ一しない。●乳幼児の手の届くところに置かない。●認知症の方などの誤飲を防ぐため、置き場所に注意する。●荒れ性の方や長時間使用する場合は炊事用手袋を使う。●使用後は手を水でよく洗う。●温水洗浄ノズル・「温風出口・スイッチには、雑巾等 にスプレーしてふき取る。●つまりを避けるため、一度に多くのトイレットペーパーや水で流せない紙類は流さない。●高温、直射日光を避けて保管する。


この文章を読んでいったい誰が炊事用手袋を着けようと意気込むだろうか。手を水で洗う、なんて当たり前すぎて笑えてくる。水で流せない紙類は流さない、に至ってはトイレを使用するときの注意だろ。


あーあ、これだからやめられないんだよな。感慨に浸りながらトイレへ向かう。トイレに行く度にこの注意書きを読めると思うとなかなか幸せだ。久々にいい買い物をした。


と、そこで私は足を止めた。


注意書きの下に、赤字でまだ何か書き連ねられているのだ。


いけない、まだ読み逃しがあったか、と再び目を通す。


読み終えて、私は言葉を失った。そこに書いてあったのは、目、あるいは脳………いや、世界かもしれないな、を疑いたくなるような、信じがたい言葉の羅列だったからだ。



●品名 インテタイランジュース ●原材料名 25%インテタイラン、ヴォロマール生成液、カオサイド(錬成)、シャルドネポーラ(グワルドバッハ産) ●開封後は、すぐにお飲みください。



目を擦る。読み間違い?何度擦っても並ぶ文字列は変わらない。私の脳がおかしいの?ジュースって何よ。インテタイランって何、錬成って何、グワルドバッハって何?


スマホで片っ端から検索をかける。「インテタイランジュース」、「ヴォロマール生成液」、「カオサイド」、「シャルドネポーラ」、「グワルドバッハ」。いずれも検索結果は0件。背筋を何やら冷たいものが走る。汗が止まらない。歯が震えている。


「あああっ!!」


手に持っていた洗剤を思わず投げつける。


「………嘘でしょ。」


思い出してしまったのだ。

「毎日の水分補給に!!」と書かれた値札を。


「いや、あれは……」


おっちょこちょいな店員のミスだ、きっとそうだ。そう信じ込もうとした。


………でも、もし、そうじゃなかったら?


スーパーは、店員は、この洗剤が飲料だと知っていたことになる。


「嘘だと言って!!!!!」


私は膝から崩れ落ちた。


買い占めるように洗剤をカゴに入れていたあのおばさんは何なのだ。もし彼女がそれを洗剤ではないと認識して買っていたとしたら、それを飲むために買っていたのだとしたら?半額がつく理由が洗剤でないところにあるとしたら?


髪を掻きむしる。何本か髪が抜ける。そんなことはどうでもいい。分からない。何が本当なのか。誰か教えてくれ。この洗剤の真実を。あのおばさんの正体を。言ってくれ。これは夢だと。この世界にインテタイランジュースなど存在しないと。誰か。誰か。



「嘘だと言って!!!!!!!」




……私は、絶叫する自分の声で目を覚ました。息が荒い。嫌な汗で服が濡れている。まだ頭がはっきりしない。重い身体を起こす。時計は午後四時を指している。


全部、夢だったのだ。


ほっと息を吐く。鼓動はまだ私の身体を揺らす。リラックス、リラックスだ。全部夢なんだ、嘘なんだ。安心しろ。



私は、恐る恐るトイレへ向かった。あの注意書きが嘘だという根拠が欲しかった。買った時に読んだはずなのだが、それだけじゃ足りなかった。


ドアノブにゆっくりと体重を乗せ、トイレのドアを開ける。西日の差し込む小さな窓、いつものように、そこに洗剤はあった。まだ重い洗剤を手に取る。



使用上の注意 ●用途外に使わない。●空中にスプレーしない。●目より高い位置にスプレ一しない。●乳幼児の手の届くところに置かない。●認知症の方などの誤飲を防ぐため、置き場所に注意する。●荒れ性の方や長時間使用する場合は炊事用手袋を使う。●使用後は手を水でよく洗う。●温水洗浄ノ

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