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神崎諒

第一話 カフェ

 閑散とした公園の物見やぐらに小学二年生くらいの少年がいる。彼が本当に小学二年生か、はわからない。私の目算もくさんだ。

 私は公園の入り口、そこは背の高い雑草や見たことのない赤い花弁の、熱帯地方で咲いているような花々が生い茂っていて、ちょうど鎖でつながれたチェーンポールのような役目を果たしているところから、公園全体の様子をうかがっていた。あまり目を細めながら首を突き出してしまうと、草陰から獲物を狙うヘビ、人間でいうところの不審者、のように思われてしまうと恐れたので、あくまで近くを通りかかっただけなのだ、という体裁ていさいで、一人立っていた。

 男の子は背の高いやぐらに立ち、決まった方向をずっと眺めている。その方角には、私の通う大学があった。もちろん他にも考えられる候補、牛丼のチェーン店やスーパー、クリーニング屋、はあったのだが、そのとき「あの方角といえば」で私が初めに思いついたのは自分の通う大学だった。

 私がここを通ったのは初めてだ。あの男の子を見かけたのも、今が初めてだ。

 公園の外はマンション住宅が四方を取り囲んでいて、男の子のおうちも、あの中のどれかなのかもしれない。または、彼も、――多分、ないとは思うが――、私と同じように、迷子なのかもしれない、と思う。

 

 先週のいつだったか、その日の講義を終えた十七時過ぎ、私は友人の成田裕樹なりたひろきと賭けをした。裕樹とは高校のころからの仲になる。

「知らない土地になんの計画も立てずに行ってみるとさ、意外な発見があるんだ。このお店、こんなとこにあるんだ、とか、なんかわかんないけど気づいたら駅の入り口に戻って来たな、とか、そば食いたいな~って思ってたら向こうからやって来てくれたように目の前にそば屋が現れたり、とか。そういう偶然が楽しいだろ?」

 私は裕樹の右頬に最近できたばかりのにきびを見つめながら、黙って話をきいていた。

 裕樹が話し終えてから、私はいった。

「あたしだったら、いやよ。グーグルマップで一発でしょ。それに疲れるし、コスパ悪いもの」

「最短距離じゃ気づけないこともあるんだよ。例えば、友香梨ゆかりがスーパーに行って一個百八十円、直径八センチのみかん一個と、金額が同じで直径六センチのみかん二個があったとしたら、友香梨はどっちを買う?」

 私は肩掛けかばんに机上のパソコンをしまいながら、いった。

「まず、インフレ進みすぎ。それに、みかんがバラ売りって意味わかんないわ。ほとんど十個でいくら、とかでしょ」

 裕樹は頭を掻いた。

「そういうとこは、どーでもいいんだよ。要は、一個と二個、どっちを買うかって話でさ」

「みかんってきれいな円じゃないわよね。それなのに〈直径〉って、どうなの?」

 裕樹は椅子をしまい、立ち上がりざまにいった。

「友香梨、算数苦手でしょ?」

 私は、一瞬、頬が赤らんだ気がしたが、つとめて平静にいった。

「好きではないですけど」

 私は一人で教室を出た。続けて裕樹も私のあとをつけるように小走りで教室を出た。

 エレベーター前が学生でごった返しているのを見て、裕樹と私は五階から一階まで長い階段を下りて帰ることにした。

 隣に並ぶ裕樹がいった。

「算数の問題解く前にさ、問題文に、いちゃもんつけちゃうタイプでしょ。こんなの求めてなんになんの? 怒り。……みたいな」

「まぁ、『無きにしも非ず』ね」

 私は名言を装ったが、裕樹にはそのユーモアが全く伝わらなかったようだった。


 校舎を出ると夕日が空全体に綺麗なグラデーションを演出していて、前庭からは金木犀きんもくせいの香りが漂ってきた。


「このあと、空いてる?」

 弘樹の誘いに、私はうなずいた。


 二人はいつものカフェに立ち寄った。個人経営のこじんまりとした空間が落ち着ける『喫茶 オアシスデイズ』。扉をあけると軽いベル音が鳴り、板張りの床を踏みしめて二人掛けの席に座った。いつものカフェ、焙煎されたコーヒーの香り、いつもの座席、いつもの風景。


 弘樹はドリップコーヒーをすすっていた。視線は窓の外に向かっている。

 友香梨は紅茶を既に飲み干していた。

「……なによ、たそがれちゃって」

「それ、いうなら『物思いにふける』だろ?」

 弘樹の返答は友香梨が思っていたよりも速かった。

「さっきの話だけど……」

 弘樹は話を切り出した友香梨を見た。

「あたしだったら、二個を選ぶかな。小食だし、小分けで食べられるから、そっちの方がコスパも良さそう」

「コスパ……ねぇ」

 弘樹はカップを机に置いた。中にはまだコーヒーが残っている。

「親戚が経営してるカフェがあってさ。そこに行って、感想ほしいんだけど、来週の火曜って友香梨バイト入ってたっけ?」

 友香梨はスマホを取り出した。

「火曜なら大丈夫。カフェの住所あとでラインしてくれる? マップで調べとくから」

「この辺りなんだけど名前忘れちゃって。ぶらぶらしてたら多分着くよ」

 はーあ? と友香梨は弘樹を見た。

「悪いけど、場所分かってからにしてくれる? あたしも暇じゃないし」

 弘樹は眉をひそめた。

「実は来週で閉まるんだよ、そのカフェ。それまでに行ってほしくて。俺、時間ないからさ、頼むよ」

「あたし、このへんの土地勘、ないんですけど」

 弘樹は、「ほんま、そこを頼んますわ、友香梨はん」といって譲らなかった。ちなみに、彼の出身は私と同じ世田谷区である。   


「あたし、そろそろ行こうかな。もう夜も遅いし」

 時刻は十八時を過ぎていた。

「じゃあ、駅まで送っていくよ」

 友香梨は首をふった。

「いいの。あなたはどうぞ、ゆっくりして」

 友香梨にとっては皮肉のつもりだったが、弘樹には伝わっていなかったようだった。

 友香梨は財布を取り出した。

「いや、いいよ。俺が払っとくから」

「この前、おごってもらったから。それに、あとから『ぶつぶつ』いわれても面倒だし」

 

 友香梨は店を出ていった。

 机上に残っているのは、空のティーポッドとカップ、俺の飲みかけのコーヒー、それと友香梨が置いていった千円札一枚。

 ……旧札、だな。

 俺は思った。

 紙幣が変更されてから、三か月ほど経つ。初めて見たときの感想は、「『おもちゃ』みたい」だった。俺は再び窓の外を見た。  

 紙幣の変化は分かりやすい。見た目が一新しているのだから、気づかないほうがおかしい。でも、この景色だって、一度でも同じなんてことはない。

 ぱっと見は、全く変わらないけれど、じつは違う。木々の高さ、まだ木に残っている葉っぱの紅葉、家々の明かりの様子、看板の錆びれ具合から、小道こみちの砂粒まで。一度だって昨日と同じことはない。今日の景色は今日しか見られないものだ。

 友香梨から「たそがれちゃって」といわれたとき、そのことをいおうと思っていた。タイミングを逃してしまった。自分のペースで自由に進めてしまっているばっかりに、伝え忘れてしまったことや失ってしまったものも多い。

 時間がなくて行けない、とは正直、嘘だ。

 来週までの発表用原稿とレポート三報が終わっていないだけだった。単位に関わる大事な発表とレポートだ。計画的に進めていれば、『時間がない』なんてことはなかった。

 時間を気にして生きる彼女を、少しは俺も見習ったほうがいいのかもしれない。


 そんなことを考えながら、俺は残りの冷めきったコーヒーを飲みほした。

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