第8話家畜に芳名を捧げる 8 ※
◇
自室を曲がったら左方向に進んで、エントランスの左の階段を上がって…青い薔薇の部屋から…左へ進んで突き当たりを右へ5歩進んだら右の通路にある3番目の百合の花の扉。説明通りに道を辿って、扉をノックする。扉脇に置かれた白百合がまるでクレイズに辞儀しているようだった。百合は臭いから嫌いだ。誰かが言った。あの人の血生臭い鉄さびの匂いのほうがあたしは苦手だな。誰だっただろう。君はこの匂い、嫌い?覚えていない。答えるなら、好きではない。けれど…。どこかで拾ってきた会話が混ざってしまった。扉の奥から声が聞こえて中へ入っていく。
「失礼します。替えのタオルお持ちしました」
「ありがとう。だがいいんだ、クレイズは私の弟なのだから、使用人にお任せすれば」
「ぼくが好きでやっているんです。イーミスの役に立ちたい」
ベッドの端に腰を下ろしている兄へ柔らかなタオルを渡す。下半身にタオルを掛けただけの裸体を拭いていた。両手首に管が通っている。胸や首や腹、腿や足の身体中にコードを貼り付けられ、タオルの下からも赤い管が通されている。
「そうか。だが、まだあるだろう?素直に言ってごらん」
「そ…れから…フィールカント様にもお会いしたい」
嫌いだと拒まれてから、意識の無い間しかその姿を眺めることは出来なかった。
「美しいな。時を忘れる。仕事柄ずっと居られないのが惜しい。私の分もこの綺麗な目で彼を看ていてやってくれ」
「はい…」
兄に頬を撫でられる。兄はそうして恋人の裸体を眺める。口に太いパイプを差し込まれ、テープで貼り付けられている。右目には濡れたタオルが置かれていた。
「暫くは安静にしているだろう」
投げ出された指を握りながら兄は恋人を見つめる。その横顔もまた美しくかった。
「これ、痛いんですか…?」
「様子を見ているとそのようだ。彼の場合は鎮痛剤も麻酔も使えない。…身体を巡る血液そのものが彼にとって毒だ。苦しいのはこの状態よりも副作用。それでもここからしか薬は採れない…」
クレイズは兄の恋人の髪から爪先をゆっくりなぞる。そんなカオをするな。兄に抱き締められた。
「恋人に、痛く苦しい思いをさせてまで…、…私は、生きたいのだ」
兄の虚空を映した瞳の中には確かな感情がある。クレイズは真正面からそれを受け止め、抱き締め返す。
「ぼくもイーミスに生きていてほしいです。フィールカント様に感謝申し上げます」
シーツに投げられた指を兄から奪い取ってでも握り込んだ。手首の皮膚を貫く管に胸が痛む。
「フィールカント様…」
露わな左瞼から光っていく。朝日を浴びた新雪のようで息を忘れて魅入ってた。あまり見たことはないが、きっとそれ以上に瑞々しい。
「そろそろ私は行かなくては」
「お見送りを、」
「いいや、必要ない。もう少し居たいだろう…が、あまり感傷に浸るな」
「はい、イーミス。行ってらっしゃいませ」
兄が退室する姿を見送り、床に膝を着いて兄の恋人を眺める。機械の音に呑まれる。あたしにもしものことがあったらレクトエック卿に頼ってね。誰かの声がする。挙げられた人物名をクレイズは知らない。あの人も物好きだな、騎士様が研究職の手伝いしたいなんて。女の声がする。百合の花を生けながら、その花によく似た女が鋏を入れた。
「ク…レ…ズ…」
翠が歪んでクレイズを呼ぶ。噛まされたパイプとテープで息が漏れるだけだった。静かな機械の音掻き消える。だが呼ばれた。頭を少し傾けて、涙が目頭から通った鼻へ流れていく。指が小さく動く。
「フィールカント様…」
指を握る。掌の中で弱々しく動く。瞼が重く閉じられていく。そしてまたゆっくり上がっていき、円く開いた瞳孔がクレイズに目を凝らす。野良猫に似ていた。数度瞼を開閉して、開かなくなった。逞しく壮健な体躯であるのに酷く儚い存在に思えて、両手で手を包む。目を開かないのが怖い。胸は上下している。
「い…で…なら、……つでも、……きあ……」
固く眉を寄せ、クレイズの掌の下から手を抜き出して、上から被せる。熱かった。機械の音が変わると、兄の恋人は肩を張らせて身動いだ。
「フィールカント様…誰か…」
手を握り込まれて、行くなと言われた気がした。口に入ったパイプが軋む。汗ばんで照る肌理細かい皮膚。古傷が所々目立ち、まだできて間もない傷や蚯蚓腫れも至るところにあった。首回りや鎖骨には鬱血痕が散る。胸が激しく上下し、呻く。クレイズの手に乗る大きな掌が震えた。機械の音がけたたましく響いて、両手首に刺された管とタオルの下に伸びた管は赤みを残して透明になっていく。身体が弛緩し、深い呼吸が落ち着いた機械の音を上回る。汗が浮かんでいる。拭きたかったが、覆われた掌なら出たくなかった。
「フィールカント様…お慕いしております…あなた様がぼくをお嫌いでも……」
胸が苦しい。一目見たときから張り裂けそうだ。縫合痕から手が伸びてきて、兄の恋人を奪ってしまいそうだ。意識を失った掌を見て、ふしだらな想像に取り憑かれる。いけない。破廉恥だ。淫らで、はしたない。
ごめんなさい、ごめんなさい。張り裂けそうなのは胸だけではなかった。兄の恋人の悩ましく歪む眉や、汗ばんだ傷だらけの裸体。兄とはどのように睦み、愛を囁くのだろう。
「フィールカント様…」
親指と胼胝だらけの皮膚を往き来する。この感触を知っている。朧気に。
兄のため身を犠牲にする兄の恋人の無防備な身体を使っている。いけない。ダメだ。裏切っている。恥ずかしいことだ。やめろと理性が制するたびに身体は腰を揺すり続ける。
気持ちいい。好き。いけない。兄の恋人だ。何をしている。いけない。兄に怒られる。気持ちいい。もっと気持ちよくなりたい。この人と睦みたい。
飛び散る。この抵抗しない男の肌を使って搾り取らせた。先押し潰された理性が帰ってくる。恥ずかしい奴。商売も忘れてよがり狂う娼婦。自制心のない性欲猿。誰とも交わる色情魔。最低の色気違い。雌犬じみた
―君には他の人には無い力があるけど楽しいこと、美味しいもの、我慢しなきゃいけないの。それでもいいの?
―どうしてこの子の人生を他人様に捧げる必要があるんだ!
―誰もが望んだことだろう、君は英雄になれる。神に等しい。神は存在意義を謳歌しない。
―こんなはずじゃないのに、幸せを望んで産んだのに、こんな遺伝なければよかったのに、ごめんね…
―君が言えば、あたしはいつだってこんな研究、やめるよ。
―このまま死なせてやってくれ。1人の人間として死なせる。
―誰が為に…
―俺だけのために、安らかに死んでくれ。
砂嵐。知らない会話。耳鳴り。誰の話をしている。胸が熱い。大きく疼いて、痛む。貫かれる痛みに一瞬で意識を失った。
ピジーはどこに行っちゃったの?
ピジーはね食べられるために生まれてきたんだよ。
まだ早いんじゃないか…何も…
でも知っておかないと。分かってね、ちゃんとこの世界の一員となって私達の中で生きてるから。
う…ん。じゃあピジー、どこかにいるんだよね…?
◇
車窓から入る陽射しが心地よく、眠ってしまっていた。胸から突き出た大きな結晶が重く、背凭れに頼りきりだった。クラッカーの音で目が覚めるとリクライニングシートから外を眺めた。
通りがかった大聖堂が楽しそうだった。運転手が進路変更し、少し待たされていたことを思い出す。
華やかな衣装に身を包んだ男女が固まって大聖堂の中から外まで道を作っていた。運転手と共に正装姿の中年男性がやってきて、何か用かと、クレイズは窓を開けた。目元と口元の皺に温和な印象を受ける情けない面構えに、クレイズの気持ちも穏やかになった。何か言おうとするものの場の雰囲気に中てられているのか、言葉になっていない声を漏らすだけだった。何かこちらから声を掛けねばと思った。
「素敵ですね」
あ、ありがとうございます…
「おめでたい日です。よい1日…いえ、よい毎日をお過ごしください」
運転手へ、そろそろ行きましょう、と言って窓ガラスは上がっていく。正装姿の中年男性が口を開いた頃には窓は閉じきっていた。運転手は、車を発進させる。鐘の音が後方から鳴り響いて、重い身体で小さくなっていく大聖堂を見た。ウェディングドレスが2つ並んで、花弁の中から舞い降りる。真っ白なウェディングドレスに落ちる茶色の髪を眺めた。オレンジの唇がきっと笑んでいる。
「初めまして。エミスフィロ知事、お待たせいたしました」
地神の眠る祠へとゆっくり歩く。茶髪の美青年は空色の瞳を逸らして、ご苦労、と一言返す。祠は高地にあったが、エミスフィロ知事の手配した車で難無く祠付近で運ばれる。大聖堂がよく見えて、そこでは結婚式を挙げていた。誰かが今日、幸せに浸っている。天気も良い。遠くの点々とした黄色の果樹も祝ってくれている。
「初めましてクレイズ・ユアン。神託は済んでいる。協力感謝する。何か言い残すことはあるか」
「いいえ、何も。大変お世話になりました」
祠の入り口まで歩く。エミスフィロ知事は遠く同じ色をした瞳を眺めていた。
「クレイズ・ユアン」
「はい」
祠に入る直前で、掴まれる。空色の瞳と茶色の髪。
「貴方のことは永遠に忘れない」
あの人は幸せになって、この人も重い任が解け、国は終戦を迎え発展していく。
「とんでもないことでございます。すぐにお忘れください。皆様の幸福の礎に選ばれただけで身に余る光栄に存じます」
エミスフィロ知事が祠の入り口を阻む。何か儀礼の言葉が足らなかったのかも知れない。腕を掴まれて、困り果てて笑みを浮かべる。
「それでは…また枸櫞美しい土地で、穏やかな季節に。眠りに就けましたら、夢で」
「…、今ならまだ、貴方を連れ去れる」
「この喜び以上のものを知ることなど、もうどこを探してもございません」
力強い手を振り解いて足を踏み入れる。祠の中は青白く光った。輝きに包まれ、両手両足に纏わりつく。身動きはもうとれなかった。祠が閉まっていく。最後までエミスフィロ知事はじっと中を見ていた。あの色を知っている気がしたが、思い出す必要はない。温かな光に包まれて、深く深く眠った。
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