【科学的純愛小説】蝶の夢と蛾の現(うつつ)の方程式 ―― 物理学者と生物学者の創発する愛

藍埜佑(あいのたすく)

第1話「邂逅の螺旋」

 薄明りの差し込む書斎で、菊池朔太郎は古びた革張りの椅子に深く腰を沈めていた。窓から漏れる微かな光が、埃っぽい空気中を舞う微粒子を照らし出している。その光景は、彼の内なる思考の渦を映し出しているかのようだった。


 朔太郎の目の前には、複雑な数式が記された黒板が立っていた。その数式は、彼が長年追い求めてきた「全てを説明する理論」への挑戦だった。しかし、どれほど頭をひねっても、最後の一片が常に欠けていた。


 ふと、耳に響いてきたのは、軽やかな足音だった。


「お兄様、またここで夜を明かすおつもりですか?」


 妹の菊池小夜子の声だった。朔太郎は顔を上げ、妹を見つめた。


「小夜子か。心配かけて済まない」


 朔太郎は疲れた声で答えた。


「お兄様、無理をなさらないでください。あわてても理論は逃げませんよ」


 小夜子は優しく微笑んだ。


「そうだな……。だが、この理論さえ完成すれば、世界の全てに説明がつくんだ。宇宙の神秘も、生命の不思議も、全てが明らかになる」


 朔太郎の目は熱に浮かされたように輝いていた。


「でも、お兄様。世界にはもっと素敵なことがたくさんあります。例えば……」


 小夜子は言葉を切った。その瞬間、窓の外で一匹の蝶が舞っているのが見えた。


「ほら、見てください。あの蝶の舞い」


 朔太郎は黒板から目を離し、窓の外を見た。そこには確かに、一匹の蝶が風に乗って優雅に舞っていた。その姿は、朔太郎の心に何かを呼び覚ました。


「美しいな……」


 朔太郎は思わずつぶやいた。


「ねえ、お兄様。たまには外に出てみませんか? 理論だけでは見えないものがあるかもしれません」


 小夜子の言葉に、朔太郎は少し考え込んだ。


「そうだな……。少し気分転換も必要かもしれない」


 朔太郎は立ち上がり、黒板に背を向けた。その瞬間、彼の目に映ったのは、窓辺で静かに羽を休めている蛾の姿だった。蝶とは対照的な、地味で目立たない存在。しかし、その姿にも朔太郎は何か深い意味を感じずにはいられなかった。


「小夜子、少し散歩に付き合ってくれないか?」


「はい、喜んで!」


 小夜子の顔が明るく輝いた。朔太郎は久しぶりに書斎を出て、外の世界へと足を踏み出した。


 その日の散歩が、朔太郎の人生を大きく変えることになるとは、まだ誰も知る由もなかった。

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