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「……ここは」
「なんで?」
視界が黒く染まってしまったバルドルとロキが目を開けると、目の前は今までいた神の国の一室ではなく。広大な森の広がる中心――世界樹の下にいた。遠くから見る世界樹はこの世界を支えるようにいると感じられる風貌であったものの、バルドルとロキの目の前に広がる世界樹は今にも倒木してしまいそうなほどに地面からはみ出している根っこの一部や生い茂っている葉が腐ってきている。
「ヘラ〜泣いてないでぼくちゃんと一緒に来てよ〜にいちゃんに怒られる〜」
世界樹の現状に驚いていた彼等だが、背後で呻き声をあげる声に反応して振り返る。そこにいたのは、先程現れたヘラの姿と大人の男一人分の大きさはあるであろう蛇がいた。
「ヘラさん……これはどういうことなんだい?」
「ひゃあ!」
おそるおそるバルドルが彼女に近づいて声をかけると、ヘラは身体全体を跳ね上がらせ、自身の身体をおおうほどに長い黒髪で顔を隠しながらバルドル達に背中を向ける。ヘラとバルドルの間にとある蛇が入り「うちの妹が迷惑かけてごめんねぇ」とゆるい口調で謝られてしまう。
「妹? まさか君って大蛇ヨルムンガンドか?」
「報告ではこの世界を数周するほどに大きいと聞いていたけれど?」
「うーん、力使い果たしてお腹空いちゃったからかなぁ。こんな小さな姿になっちゃったんだよねぇ」
ヨルムンガンドの変わりようとこの場にふさわしくない緩い雰囲気に驚いていたロキとバルドル。そんな中、「うぅ。バルドル様ぁ」と兄の背後からヘラが声をあげる。
「ごっ、ごべんなざい……。ホズ様に頼まれたから、喜んで死の国でおもてなしをしようと思っていたのですけれど……ワタシより強い力で止められてしまいまして」
ヘラは幼き子のように泣きながら謝る姿に、傍で見ていたロキは呆れた表情を見せる。
「泣きたいのはこっちなんだけどなぁ……というか状況がこれっぽっちも読めねぇんだけど? そもそも死の国へなんて……ん?」
ヘラの口から出た話にロキはすかさず指摘する。しかし、それよりも重要な言葉が出されていたことにここで気付くのだ。バルドルは口元を抑えながら、動揺した様子を見せている。
「ホズ? どうして、そこでホズの名前が上がるんだ?」
動揺するバルドルを慰めるように肩に手をおくロキ。
「何かの間違いだ。そうだろう」
「いいえ、間違いではありませんよ」
バルドルを落ち着かせようと出た言葉を、ヘラはバッサリと切り捨てる。先程まで涙を溢していた女とは大違いだ。口を挟んできたヘラにロキが睨むと、彼女は「ひぃ!」と再びか弱き女子のような声をあげる。
「ホズ様は私にこう仰ったのです! 『兄様を。光の神バルドルを、死の国で匿ってほしい。僕が新世界を創るまで』と!」
ヘラの話にバルドルはより一層動揺を露わにさせる。ヨルムンガンドはそろそろまずいとでも思ったのか暴れるヘラの首根っこに噛みつきながら森の奥へと引っ張っていってしまったが、彼等が逃げ出したことなど今のバルドル達には既にどうでも良いことであった。
「新世界? 一体、なんの話を……?」
「そのことについては、本人から聞いた方が早いんじゃないか?」
その声のした方へと身体を向けると、そこにはロプトと地面にうづくまるホズの姿があった。
「ずっと思ってたんだよ。君達は、一度ちゃんと話すべきだってな」
ロプトにそう言われたホズは顔を上げて「それは貴方もだろう」とぼそりと吐き捨てる。
「ホズ、と……?」
「ロプト! なんで君が」
弟の隣にいる謎の黒ローブの人物に戸惑っているバルドル。しかし、すかさずロキがその人物の名を叫んだ。
「ロプト? ロキ、知り合いなのか?」
バルドルからの問いかけにロキは唸りながらも「うぅ、まぁ、そうなのかも」と渋りながらも答える。そんな中、気の抜けた声が割って入る。
「ここどこだよ?」
「いってて」
ナリとナルも、この場所にやってきてしまっていた。
「ナリ! ナルちゃん!」
兄妹の姿を見つけたロキは彼等の名前を叫びながら、すぐさま彼等の傍へと走る。突然のロキの登場に、兄妹も声を上げながら驚きを見せている。ロプトは天を仰ぐように頭を抱えながらブツブツ、「連れてきた覚えなんてないぞ……いや、もしかして」と呟きながら、世界樹の方へと視線を向ける。
バルドルも状況を飲み込めないまま、大切な弟の元へと駆け寄っていく。
「ホズ。怪我はないかい? 立てるか?」
「兄様……」
まだ地面に座ったままのホズへ手を伸ばすバルドル。そこで顔を兄へと向けたホズの目元の前髪が、彼の瞳を露わにさせる。まだ怪しく赤く輝く、レムレスの瞳を。
「……ホズ、その……赤い目はどうしたんだ?」
兄の言葉にホズは意味もなく瞳を手で覆いながら、顔すらもバルドルから逸らしてしまう。過呼吸気味な息遣いをする弟に、バルドルは戸惑って伸ばしていた手が震えだす。彼はそれをもう片方の手で押さえつけながら「ホズ」と彼の名を呼ぶ。
「ホズ。私の愛する弟。今から聞くことに、本当のことを話してくれるかな」
それに対し、ホズはいまだに顔を兄から背けながらも、こくりと縦に首を動かす。バルドルは、すぅとゆっくり深呼吸をし、質問を投げる。
「――なぜ、私を死の国へ?」
「僕がやることを、邪魔してほしくなかったから。だから、兄様のことを好んでいたヘラに頼んだんです。でも! 全て終われば、迎えにいく手筈でした! だから!」
「……やること、とは?」
ホズは必死に弁明するものの、バルドルはそのことに聞く耳を持とうとせず、更に質問を投げていく。投げられた質問にホズはとうとう瞳を隠していた手を下ろし、ぎゅっと力を込めて握る。
そして、顔を動かして真っ直ぐと兄バルドルを見つめるのだ。
「兄様。僕は今から……最高神オーディンを殺す」
決意の瞳で、バルドルを惑わす。父親を殺すと宣言しながら笑みを溢す者が。
「貴方と歩く、新世界のために」
今目の前にいるのが、自分の弟なのかと。
「ホズ、何を言って――」
愛する弟の予想外の言葉に、バルドルは唖然とした表情で彼を見つめている。
そんな兄の姿を、初めて自分の目で見ることのできたホズは、混乱しているバルドルの事など他人事のように――あぁ、兄様は本当に美しい姿をしているんだな。と、うっとり見つめる。金色の瞳に、絹のように美しい金色の髪。誰をも魅了する姿。皆が彼に惚れてしまうのも、敬うのも、救いを求めるのも分からなくもない、と。
ホズは目を瞑り、ある日の出来事を思い起こす。今の彼ならいとも容易く想像が出来るだろう。
オーディンがいないのを機に兄と共に部屋を出た日の事を。神族達が話していたことを。兄が捨てられるはずだった自分を救ったことで、彼の優しさのある心を讃える者が増えたことを。そして――兄が謝った日の声を。表情が、今なら分かる。
「兄様」
ホズはバルドルの手を払い除け、すっと立ち上がる。
「僕は兄様に救ってもらった。だから、今度は僕が兄様を救いたいんだよ。だから――止めないで!」
背後に、彼の後悔の念であるレムレスが姿を現す。レムレスは黒い靄で大きな翼を型取り、靄で作っていた弓と矢をホズへと渡す。赤い瞳は、バルドルを悲しげに見つめている。
「レムレス……どうして」
「……このレムレスは、僕の後悔は……兄様を、救えなかったこと」
ホズが受け取った弓と矢を持つ拳を強く握る。
「今度こそ、貴方を救うためにっ――」
森しかない空間に、痛々しい音が悲しく響く。
「ホズ」
バルドルが、ホズの頬を叩いたのだ。
「私は、お前に救ってほしいと言ったことはあるかい?」
バルドルは、苦しげに肩を震わせながら、ほろほろと瞳から大粒の涙をこぼしていく。兄に初めて手を出されたホズは放心状態であったものの、彼の涙を見た瞬間首を横に振りながら、その涙を拭う手を伸ばす。と、その手はバルドルの手に掴まれてしまう。
「兄様」
「どうして。そんなことをしようとするんだ」
「兄様、泣かないでください」
「しなくていい、お前が血に濡れることをするな。ホズ。私の愛する弟」
「……」
「君が私の家族であるだけでいいんだ。私の傍に、いてくれるだけでいいんだ。それが、私の救いだ。……それだけで、いいんだよ」
涙を流し続ける兄を見て、ホズは赤く憎しみに染まった瞳が揺らぎ――兄と同じ金色へと戻っていく。それと同時に、レムレスは再び彼の影の中へうっすらと姿を消してしまった。
「……僕は、そうは思いません。でも、兄様が悲しんでしまうのなら……どうしたらいいのですか」
ホズは、自身の胸元をぎゅっと掴む。
「この晴らせぬ後悔を抱えながら、世界が壊れるのを見るしかないのですか」
ホズがおかしな事を呟く中。兄弟の様子を遠くから見守っていたロプトは、〈……あの兄弟が分かり合うには、やっぱり時間が足りないか。はぁ、世話が焼けるぜ〉と、拳に灯していた炎を消す。
「おい」
そんなロプトの元に、不機嫌気味のロキが訪れる。
「いい加減、目的を話したらどうだ」
〈……目的?〉
ロキの言葉に、ロプトは大袈裟に首を傾げる。
〈なんだ、今更そんな事聞いてどうするんだ〉
「どうもこうもない! ホズのレムレスの事とか……他にも、知ってることがあるんだろ。散々、運命だなんだの、まだ話すべきじゃないだの誤魔化してきたこと全部」
ロキは初めこそ力強く言っていたものの、その勢いは行き場のない最後に弱々しく「シギュンの事とか」と呟く。その声を聞き取っていたロプトは、深く溜息を吐く。
〈じゃあ聞こう。……あの兄妹のこと、今の君はどう思ってる?〉
ロプトは、ロキの背後にいる兄妹を指差す。兄妹は自分達はどうすればいいのか、とロキの事を見たり、バルドル達の様子を伺ったりと顔を右往左往させている。そんな彼等の慌てている様子に、ロキはまるで我が子のように愛おしげに見つめて、口角をほんの少しあげる。そして、ロプトに……笑みを見せながら伝える。
「大切な子達だよ」
その言葉に、その表情に、ロプトは〈……そうか〉と微笑んでいるかのような安堵の声音を出す。
〈それじゃあ〉
彼が自身のフードに手をかけた――が。
「あら、楽しいお話?」
それは、目の前に現れた彼女の声によって止まる。
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