二.ピンチヒッター

しばらくして、辻村と俺はちょくちょく屋上で逢瀬を重ねた。嘘だ。天気が悪い日を除き、昼過ぎの授業をサボるか放課後に行くと、七割くらいの確率で会う。思考が似通ってんのかもしれない。最初は読書の邪魔をしない程度に話しかけていた。話題は好きな食べ物のこととか、学校のことといった取り留めもないこと。本の内容は、別日にもう一度見せてもらった時にやっぱりエッティ本だったので、もう聞くのをやめた。ふざけてやがる。食べ物については、大分偏食家だった。納得。読書のお供に買ってくる水分は、馬鹿しか飲まなそうな甘ったるい炭酸飲料。見ただけで吐き気がする。

「得意な味ではないけれど、カロリーが高いじゃないか。食事が面倒な時はこういうので誤魔化すんだよ。」

はいはいそうですか。いつか生活習慣病でぶっ倒れても知らんからな。あと、トマトが好きらしい。関連性が無さすぎる。料理に入ってるものではなく、生で食べる方がいいんだと。度し難い。料理した方が美味いだろうが。素材が料理を超えることはない、と指摘すると、

「それは賛成できない。全く。料理の重要性は認めるところだが、生食の完全否定はあり得ないね。」

と真っ向から反論された。それからは水掛論。生野菜でも栄養は十分だ、料理した方が他の食材と合わせて効率良く栄養を摂取できる、論点がズレてる、それは生食の否定根拠にならないなどと、くだらない議論を展開した。さらに飛び火して、お互いの好きな食べ物の批判合戦になった。俺は即席麺が結構好きだ。小さい頃から一人でも簡単に作れる頼もしい食事で、今でも毎週お世話になっている。それを辻村は、

「インスタントラーメンなんて旨味成分が無いじゃないか。店で食べるものの劣化品でしかない。どれを食べても似たような味がする小麦麺に、ただの塩辛いスープ。非常時には良いものの、普段から好んで食べる意味が分からないね。」

流石に怒った。あの味が良いのだ。あのジャンクな風味が。その味わいが分からないなら語るんじゃねえ、と。この日は辻村に本を読む隙を与えず、放課後まで議論して終わった。かっかしながら帰路に着いたが、ここまで熱く口論したのは初めてのことだった。

こんな会話を日々続けた。その結果、友人と言えるレベルには仲が深まってきた。そんな気がする。全ての人とこんな風に話ができたら、悪い噂も立たなかったもしれないな。


ある日、五限にサボり時を見つけて屋上に向かった。ドアを開けた、誰もいない。後で来るかもしれないな、と思いつつ柵にもたれかかる。空を見上げる。すっかり曇天で薄暗い。最近は空気も蒸してきて、快適な環境が売りのここも、少し暑く感じる時がある。季節的にここが使えなくなることもあるだろう。そしたら、どうするかな。

そう考えていると、ドアが開いた。見知った顔。同じくサボり魔の変態読書家。よ、と手を上げて挨拶する。向こうも手を上げて応じる。俺から数歩離れたところに座り込み、本を開く。いつものことだ。どうやら辻村は俺より授業をサボりがちらしい。俺は週に三、四回くらいだが、体感辻村はその倍ほど。そのくせ成績は中の上で悪くはない。サボりを注意されないのか尋ねてみたところ、

「先生方は私の身の上から事情を勝手に察して、放念してくれているみたいだよ。」

なんだそら。身の上とは何ぞや。

「そうか。まぁでも、親にサボり常習犯ってことがバレると面倒かもな。」

「それは大丈夫。両親はいないからね。」

思わず天を仰ぐ。あー、やっちまった。地雷踏み抜いた。ダメだな、俺。コミュニケーションの神にも見放されてる。が、そこで気づく。いや待て、いないということは、ただ別居してるだけの可能性もある。例えば両親は海外出張か何かで家を空けていて、それで辻村がしばらく一人暮らしをしている、のかもしれない。とにかく、これ以上辻村にしゃべらせてはいけない。

「そうか、分かった。もういいよ。すまん、大変なんだな、お前も。」

辻村がこちらを向き、目をぱちくりさせる。

「気を遣わせてしまったかな。大したことではないんだ。」

目を細めて笑ってみせてくれた。これは俺が悪い。

「橘君こそ、大丈夫なのかい。先生方や親御さんから何か言われたり、とか。」

俺か。俺は、どうなんだっけ?頭を掻く。最後に親から怒られたのはいつだっけ。サボりが親にバレたのはいつだ?それで、いつから先生からも注意されなくなったんだっけ。これが当たり前になったのは、何でだ?頭を掻く。掻き過ぎた、爪が食い込んで痛い。

「どうやらお互いにとってこの話題は良くないね。ごめん、最初会った時に『特に触れない』と言っておきながら、ついつい近いところを探ってしまっている。」

「いや、」

か細い声が出た。

「俺は勉強ができるからな。それで親からも先生からも許されてる。結局、学生身分で大事なのは成績よ。」

上辺だけ取り繕った浅い回答をした。

「そうか、頭が良いと得だね。」

合わせてくれた。ありがたい。

少しの静寂。顔を上げると、風が徒らに頬を叩く。いつもより湿った薫りが鼻を掠める。最近は雨の日も多く、屋上に来る機会が無いこともあった。一応覗いてみたが、辻村はいなかった。この時間もいつまで続くのだろうか。正直、もう正直言うと、楽しみにしている自分がいる。今までは自然が気持ち良く、落ち着く場所というだけだった。それが最近、隣に人が越してきた。怪しんだが、特に変わり者で、話してみると面白い。コミュニケーションもスムーズに進んでいる。教室や自宅よりもずっと居心地が良い。あまり会話しない同級生や両親に気を遣って過ごすよりは、ずっと。

それに、改めて辻村を見ると、可愛い方だと思う。いや、俺にはそういう経験が全く無いから審美眼は知らんよ?でも、なかなかに整った髪、あ、アホ毛あった。コホン。猫を連想させる大きな目、若干細身で肌が綺麗、かな。色白だし。俺の好み、なのか?外見は。まぁ中身がアレでアレなんだが。とにかく、女子と話すというのが新鮮に感じているのは間違いない。

ふと辻村が本から目線を上げ、目が合う。何でこっち向くんだよ。恥ずかしいので平静を装いつつ顔ごと目線を逸らす。どうなんだろう。俺は辻村に、何をして欲しい?今このままの時間は楽しい。だけど、いつかは終わる。受験勉強やら何やらで忙しくなる日が増え、屋上に来る機会は一層減るだろう。会うこともなくなり、やがて卒業。大学、就職まで進み、このことはただ一時の記憶として、頭の片隅に追いやられていく。今の関係値ではその程度で終わる。

きゅっ

胸が、痛い。寂しいのか?だったら今のうちに何をすべきなのか?まず考えられることは、男女の仲になりたいのか、ということ。本当に?今の関係を壊してまで?そりゃそうなれたら嬉しい。

けれど、

その前に、男女の仲になるよりも優先すべきことがある気がする。いや、あるだろ。ずっと隠してることが。これを隠したまま深い仲になるなんて無理だ、俺の精神が保たない。

「話しても、いいのか…?」

初めてだ、ここまで誰かにこれを話そうと、頼ろうと思ったのは。親に対してもこんな気持ちにはなったことはない、のに。


あ、そっか。

「そうかそうか、そうだなぁ!」

そこそこ大きな声が出た。俺から。辻村もびっくりしてるだろうが、知ったことか。いやしてねえのか、思えばあの時も驚いてなかったもんな。そうかそうか、恐れているのだ、俺は。やっと見つけた理解者になりうる人間を失うのが。俺はずっと悩んでいる、自分の存在意義なるものを。でも誰にも打ち明けてこなかった。言ったところで分かってもらえないから、誰も答えを持ってないから、相手にしてもらえないから。だからずっと自分の中で抱え込んできた。そうしているうちに、危ない道を選びつつある。もう自分ではどうしようもないところまで来ていた。違う方向に思考の舵を切ろうとしても、結局はその道を選ぶべきだ、と話を戻してしまう。いつか俺は自分に殺される。怖かった。でも、その怖さにも次第に慣れていって、自然に受け入れつつあった。

しかし、そうして歩みを進めていたときに、辻村とかいう、おかしな脇道が現れた。そこを歩けば、俺を引き戻してくれるのか?保証は無いが、期待してしまう。世界の見え方が変わるかもしれない、そしたら、俺も自分のことを救えるのかもしれない。だが、そこまで辻村に背負わせてしまっていいのか?打ち明けたところで、突き放されたら?そしたら本当に終わりかもしれない。でももう、それでもいいと思える。こいつは、辻村という存在は、十分俺を楽しませてくれた。もうこれだけでその他大勢の人間より感謝している。だから、最後にこれに賭けよう。それで、賭けに負けたら、潔く諦めよう。全てを。「橘 斎聖」の物語はここで終わり、次回作にご期待ください、だ。

おっと、ついつい自分に酔ってしまったな。でも今は、結構晴れやかな気分だ。あぁ今なら、どんな風でも気持ち良く感じる。蒸れた空気も土や草の匂いも、耳障りだったその他人間が発する音も、全て愛おしく感じる。覚悟は、決まった。柵にもたれかかり、目を閉じる。鼻から息を吸う。足りない。もっともっと吸い込む。息が詰まって苦しくなったところで、五秒耐える。

そして口から細く長く吐く。できるだけ長く。次に吐く言葉に重みが載るように、肺の空気を入れ替える。心臓も大きく跳ねている。けど落ち着いている。俺は今、確かにここにいる。目を開ける。少し眩しい。光に目が慣れてきたところで、辻村を探す。いた。歩いて六歩くらいの距離。彼女は本を開いたままだ。だが、顔はこっちを見ている。俺の様子を心配してくれているのか、さすがに。変だもんな、俺。いよいよ言葉を発そうとして、止まる。口の中が張り付いてて動かなかった。緊張してるみたい。表情筋と舌を動かして口内を引っぺがす。よし、言える。

「ぁあの。」

声が裏返った。悔しい。辻村はこっちを向いたまま動かない。俺の言葉を待ってくれているようで、ありがたい。

「言いたい、言いたかったことがあるんだ、けど。」

「はい。」

端的な返事が来た。いやそれだけではない、パタンと本を閉じて置いてくれた。ああそんなに、本当に、本当にありがたい。ついつい目が細くなる。涙が滲んでいる、かも。

「俺、死にてえ。」


冷たくて重い静寂。こんな静寂は久しぶりだ。そうあれは俺が小学校一、二年の頃、母親の財布から金を盗んでいたのがバレて、家族会議になって俺の自白を待っていた時以来だ。

こんなことを考えるくらいには、つらい沈黙だった。風は、吹いてない。何の薫りもしない。ただ虚無が流れていく。辻村は、どんな顔をしているのだろうか、直視できない。そもそも聞こえたよな?あれ、聞こえてないのか?嘘?辻村へ視線を向ける。真顔だ。艶やかな黒髪、整った前髪、猫みたいに丸く大きな目、が少し細くなっている。口は若干への字。怖い。次にその口から発せられる言葉が。自分の人生が決まってしまう。冷や汗が額から染み出て、頬を伝って首元へ沈む。喉が乾く。つっかえながら唾を飲み込む。視線は依然、辻村の口に注がれる。その口が、今、ゆっくりと動き出す。

「そう、死にたい、か。」

良かった、聞こえてた。

「ああ。」

「それなら、今度こそ聞かせてくれるかな、その理由を。」

聞いてくれるんだな、そこまで。逃げずに。噛み締めながら、何ともならない理由を、つらつらと口にした。そもそも幼い頃から、なぜ生きるのか、についてずっと考えていたこと、親に相談しても上手くはぐらかされて結論が出ないこと、現状学校と私生活において、特に生きていたいと思えるほど感情が揺さぶられる出来事が無いこと、一方で将来的に負担するであろう責任や不安が募るばかりで、生きる意味が全く見出せないこと、それに、既に医者にかかって抗鬱薬も飲んだことがあるが、結局改善は見込めないこと、そして、いざ命を絶とうとするときのシュミレーションのために、柵を乗り越えてみるようになったこと。この間、辻村は黙って聞いてくれた。俺の話が終わると、

「やはり、『あれ』は『そう』だったんだね。」

まぁ分かるかそりゃ。急いで内側に戻って誤魔化そうとしたが、無駄だったな。

「…難儀な人生だね。」

難儀(なんぎ)、面倒なこと、苦労すること、か。そうだな、その通り。普通の高校生なら悩む必要の無いことを、延々と考えてしまい、その思考に囚われてしまっている。

「それを今教えてくれたということは、助けてを求めているということかな、私に。」

そう、だ。その通りだ。情けないが、もう自分では分からない。

ふぅ

空に向かって息を吐いた、辻村が。珍しい。明らかに困っている様子だ。すまないな、本当に。でも、お前しかいなかった。どうか許してくれ。

「まずは、」

びっくりした。いきなり凛とした声が飛んできた。思わず背筋が伸びる。

「まずはありがとう。秘密を教えてくれて。」

ぉおう、どういたしまして?

「その上で、」

あ。

グッと来た。何か嫌な予感がする。

「その上で、私では君を救えないかもしれない。やはり最初に言った通り、君がそこまで思い詰めるに至った経緯を何も知らないから、無責任なことはすべきではないと考えていた。医療効果がまだ現れていないということだが、それでも医者を頼るのが普通だとは思う。」

そうだよな。何を期待していたんだか。迷惑だったよなやっぱり。ああ、忘れてほしい今のことは。さっさと消え入りたい。すまなかったな、じゃあ話はこれで、

「だとは思うが、」

遮られた。何だ?

「せっかく橘君という人間が私を頼ってくれたのだから、それに応えたいというのもまた事実。」

そう言うと辻村は立ち上がり、ズカズカとこちらに歩み寄ってきた。あと一歩で肌が触れ合う距離まで。ち、近くないかぁ?一体何なんだ、何かしてくれるのか?辻村が?医者以上のことを、俺に?そう思うとふつふつと顔が赤くなっていくのが分かる。対して、辻村は涼しい顔を、むしろにやけてるようにも見える。むかついてきた。

「時に、SFは好きかい?」

「あ?」

何だ、エスエフ?漫画とかのジャンルの?

ずいっ

さらに顔を寄せてきて、

「SFは、好きかい。」

急に何だって、知らねえって。

「き、嫌いじゃない。」

「違う。好きか嫌いか、はっきりしてくれ。」

何だよもう。俺の気も知らないで。お前のことは好きだけど、SF?

「どっちかで言うなら、好きだ。」

「なら良し。」

パッと俺から身を離す。無駄に緊張させやがって、何のつもりだ。

「私は医者ではないから、橘君を正しく救ってあげることはできないかもしれない。だけど、橘君の人生を、私の人生、『秘密』に巻き込んでしまうことはできる。」

辻村は背中で語り始める。何だ何だ、意味が分からない。

「何が言いたいんだ。」

「私もまだ、話していないことが多かったということさ。」

タタンッ

軽快に足を踏み鳴らし、髪を靡かせ、くるりと振り返る。

「もし橘君が、それでも私に助けを求めるというのなら、」

左手を腰に当て、右手を真っ直ぐ降ろした立ち姿は、まるでデッサン人形のように整っていた。

「私の『秘密』を知りたいというのなら、」

ピカッ

眩しい。雲間から日の光が入り、辻村に黄金色の後光が差した。こちらを見下ろすように顔が笑っている。

「明日、この時間にここに来るといい。そしたらそこで、約束しよう、橘君の人生を変えてあげようじゃあないか。」

言っている意味がまるで分からない。変だ、おかしい、理解できない。人生を、変える?

深呼吸しつつ、ゆっくり考える。そもそも人生を変えると言ったって、どうやって変える?そこが説明されてない。それに、秘密とは?色々聞かないことには始まらない。

「人生を変えるって、どういう、」

「おっと、それは明日のお楽しみだ。今日一晩じっくり考えてみてくれ。私が信じられないというのなら、明日来なければ良い。よく考えておくれ、」

悪戯っぽい笑みを浮かべ、

「私に賭けてみるかを、ね。」

「いやでも、その内容をだな、」

「じゃあこれでお暇するよ、今日は。それではまた明日。」

そう言うと、さっさとドアを開けて出て行ってしまった。ど、どうすればいいんだ。俺は。全く整理がつかないでいると、ひょっこり辻村が戻ってきて、

「そうそう、明日は雨が降ろうが雷が落ちようがここに来るからね、もちろん、橘君のために。」

目が合った。やはり丸く大きく綺麗な目。星が散っているかのように輝いて見える。何の目だ、それは。あんな話を聞いておいて、何で、何でそんな目で俺を見れるんだ。狼狽える俺に構わず、

「それでは。」

再び出て行った。今度は本当に行ってしまった。手で顔を擦る。夢じゃない。何が起こって、明日までに何をすればいいか、分からない。ちょっと無理だ、本当に。たまらず膝を折ってしゃがみ込む。ただ慰めの言葉をかけてくれるだけでも良かった。辛いね、大変だねって。私で良かったら話聞くからねって。その程度だと思ってた。なのに、人生を変えてやる、なんて。

拳に、力が入る。大概にしろよふざけるのも。変えれるものなら、とっくに変えてる。せっかく打ち明けたのに、打ち明けてやったのに、これ以上期待させないでくれ。お前に何ができるんだよ。その他大勢と何が違うってんだ。結局俺のことなんて分かってくれないくせに。何なんだよ…

ひとしきり悩んだ後、どうしようもないので帰宅した。風呂に入って飯を喰らい、予習復習もそこそこにしてベッドに倒れ込む。今日はもう何もする気が起きない。あいつ、辻村という人物を改めて考えてみる。後先考えないサボり魔。理系で、可愛い方。だけども官能小説が趣味の残念美人。喋り方も変。こだわりは強く、子供っぽいところも多い。

でも、嫌いじゃなかった。ごろんと寝返りをうつ。明日どうなるんだ、俺は。秘密って何?そりゃ俺に言ってないことなんて山ほどあるだろうけど、俺の人生が変わるほどのって、想像もつかない。人生が変わるほどの…俺にしてくれること…

辻村の顔が、身体が思い出される。いやいや、まさかな。それに秘密と言うわけでもないだろ、でも、してくれるって、人生が変わるほどの。潤いのある唇、細い背中、ブラウスから覗く鎖骨と柔肌、それと胸の、

バンバンバンッ

枕を思い切り叩く。何を期待してんだ、最低か。勝手に性欲を押し付けるもんじゃない。いやでも、まずそう思うよね?こちとら高校生やぞ。そうなるて。

はぁ

顔を覆う。どうでもいい、もう。明日になれば分かることだ。寝よ寝よ。


翌る日。

寝れるか。結局寝付けず寝不足のまま登校し、午前中の授業はほぼ寝ていた。午後も全く授業に身が入らない。さっさと五限にならないかそわそわしていた。もう全部休んで最初から屋上にいようかと思ったほどだ。四限が終わるとすぐに教室を飛び出した。だいたい何で一日置いたんだ、その場で教えてくれても良かっただろ。この野郎。焦らすに焦らしたんだ、くだらないことだったら承知しねえからな!階段を駆け上がり、さっさと鍵を開けて屋上で待つ。苛立ってるのか待ちかねてるのか、ついつい足踏みしてしまう。ここまで来るとむしろ落ち着くわ。あれだけ豪語したんだ、何をするかしっかり見てやろう。鼻息を荒くして待機すること六分ほど、ようやくドアが開いた。遅い。こっちの気も知らず、いつも通りに辻村が入場する。その顔は、やけににやにやしているように見える。

「やあ、待たせたかな。」

「大分な。」

「そんなに期待してくれて、嬉しいねえ。」

嫌味が通じない。何だこいつ。思わずに睨みつけてしまう。そこで気づく、辻村が本を持っていない。そう言えば本を携帯していないのは初めて見た。

「今日は本を持ってないのか。」

「今日は橘君が主役だからね、本はいらないんだ。」

そんなこと気にするな、とでも言いたけだ。そうかよ。主役は俺か、だったら遠慮なく、

「それで秘密ってのは、俺の人生を変えるってのは、一体何なんだ。」

「おお、早速だね。無理もないか。」

勿体ぶるんじゃねえって。

「ならば教えよう、橘君を救う、私なりの方法について。」

ずかずかと俺に近づいてくる。だから近いって。だが今度はたじろぐことなく、真っ直ぐ目を見つめ返す。丸くて大きな目、思ったより長いまつ毛、小ぶりな鼻、ピンクが滲む唇が目の前にある。いい匂いもする。顔が火を吹きそうなほど熱くなっているが、負けない。絶対に目を逸らしてたまるか。その唇が流れるように動き出す。

「橘君、」

さあ言え、俺を救う、その何とやらを。ぐっと拳を握る。

「私の助手になる気はないかい?」

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