二十一 安堵
その頃(九月二十二日、水曜、十時すぎ)。
佐枝は目覚めた。顔がむくんだ気がする。やはり睡眠前の飲酒は身体によくない・・・。
芳川はいくら飲んでも顔色一つ変えず、言動は飲まない時と同じだ・・・。芳川は、これでも酔っていると話していた。おもしろい男だ。今は黙って私の言う事を聞いてるが、果たしてあれが本心だろうか?あるいは意図して自分を出さずにいるのか?このまま様子を見るしかない・・・。
昨夜は帰ってくるなり、私を抱きしめようとした。シャワー後、芳川は私を抱きしめて震えてた。あの震えは恐怖だ。暴行された義妹のように、今も金田太市と香野肇に殺されるという、あの時の恐怖が残っている・・・。金田太市と香野肇はこの世から消えたが、芳川はまだあの死の恐怖から解放されていない。辛抱強く芳川を見守るしかない・・・。
上毛電気(株)の木原良司から、死亡した山田吉昌の記憶が薄れ、恐怖から解放されるまで時間がかかる。いい機会かも知れない・・・。
そう思いながら、佐枝はベッドから出た。
洗面をすませ、佐枝はリビングのソファーに座った。
芳川がソファーテーブルにコーヒーとトースト、ハムエッグ、野菜サラダを置いた。
遅い朝食を食べながら、佐枝は芳川を見た。芳川の血色は良い。
「マネージャー。今日は何する?」
今日、水曜は、クラブ・グレースの定休日だ。
「食材を買って飯でも作ろうと思う。飲んでばっかりだとよくないからな」
「そうか・・・」
私と生活するようになって、芳川の生活は安定したようだ。長野のクラブ・リンドウで見せていた、上から目線の芳川はここにはいない。
「マネージャーはやめくれ。守と呼んでくれ」
「マモル。半年になるか一年になるかわからないが、しばらくおちつこう」
「わかった。あと何人だ?」
「三人だ。実は・・・」
佐枝はコーヒーを飲んだ。そして亜紀が話した事を説明した。
今年の七月末だった。
「佐枝ちゃん。話があるから座ってね」
クラブ・リンドウがはねた後、亜紀は佐枝をボックス席に座らせ、タブレットの地図で前橋を示した。
「佐枝ちゃんが探してる四人が、ここにいるわ」
佐枝は驚いたがそれを顔に出さなかった。
亜紀は、佐枝の腹が据わっているのを感じた。
「良平さんも、婿の素行を調べてたの。良平さんの遺言でもあるの。
決して慌てずに、チャンスを待つのよ」
亜紀は、鷹野良平の遺言から、佐枝の裏の仕事を知っていた。それには触れなかった。
「良平さんが私宛の遺言に、
『その筋を通じ、クラブ・グレースで木村と芳川が働けるよう、手配しておいた』
と書いてたの。
グレースの経営者の高橋智江子ママは、良平さんの事も私の事も知らないし、あなたたちの事も知らない。実態を知ってるのは、私とあなただけよ。
どう?良平さんの頼みを聞いてくれる?」
「良平さんがそこまでする理由は、何ですか?」
「あの人なりに、婿の不始末の筋を通したいのよ」
そう言ったまま、亜紀は口を閉ざした。
「わかりました」
「そしたら、これ。良平さんからの援助よ」
亜紀は紙包みを佐枝に渡した。
「芳川はあなたの仕事に気づいてるわね。いっしょに連れてゆきなさい。
私から、あなたを助けるよう話しておく。
芳川はいい男よ。芳川は昔の良平さんに似てるわ」
と亜紀は話した。
「それから、私からお願いがあるの」
亜紀は佐枝を見つめている。
「なんでしょう」
「今後も、良平さんのような頼みを引き受けてほしいの」
「わかりました」
亜紀は、私に裏の仕事を続けさせる気だ。今さら亜紀と芳川を遠ざけても、私の身に危険が迫るだけだ。
「ありがとう、お願いね。しばらく前橋へ出向ね」
亜紀は寂しそうに目を伏せた。
佐枝は説明を終え、相向かいの一人用ソファーにいる芳川を見つめた。
「あと三人で区切りをつける。先を見すえて、どうするか決めろ。
それで芳川は鷹野良平への義理が立つ」
「わかってる・・・」
佐枝の仕事は鷹野良平の目的と同じだった。鷹野良平の遺言を果たしたら、この俺がやる事は終わりだと佐枝は思ってる。だが、マダムは佐枝に仕事を依頼するつもりだ。佐枝の仕事はまだ続く。それならいっそのこと・・・。
芳川はそう考えて腹を決めた。
「佐枝さん。俺と結婚してくれ・・・」
「ああいいよ」
佐枝は気楽に答えてほほえんだ。
いろいろ抵抗されると思っていたのに、こうもあっさり承諾され、芳川は拍子抜けした。「いいのか?結婚って・・・」
「いいよ。今の状態にあれが増えるだけだろう。こっちにきな・・・」
佐枝は芳川をソファーに呼んで抱きしめた。
「芳川は私の何を知ってる?
私は芳川の名前を知ったばかりだ。他に芳川の事で知ってるのは、歳と卒業した高校と空手と人をまとめるのがうまい事だけだ」
「俺は佐枝さんを何も知らない。今のままの佐枝さんでいい。佐枝さんが話したくなったら話せばいい」
「わかった。ああ・・・」
「男臭いか?」
「そうでもない。女臭いか?」
「佐枝さんの匂いがする。大好きな匂いだ」
「私は一度でも感心を持った事に、しつこいぞ」
「わかってる。佐枝さんに捕まったら逃げられない。覚悟してる」
芳川は笑っている。
「芳川はなんで結婚する気になった?」
「信頼できるのは佐枝さんしかいない。外身は大好きだ。中身はこれから理解する。
佐枝さんは?」
「私もそう思ってる。芳川は正直だ。隠し事できない性格だ。私を好きな事はわかってた」
長野の地附山公園の事故現場へ行った時の芳川。鷹野良平の追悼の宴後に佐枝をタクシーで送ろうとした吉川。後楽園ホールで格闘技戦のリングに立った精悍な戦士の芳川。リングにいるだけで対戦者を圧倒した芳川。それらの芳川を佐枝ははっきり記憶している。
「今日、一日こうしてていいか?」
芳川はこうして佐枝を抱きしめ、佐枝とともにいるのを実感したかった。
「このままか?ソファーは疲れるぞ」
「ふたりでダラダラしてテレビでも見るさ」と芳川。
「デレデレだろう?そうなるとテレビは見なくなるぞ」
「デレデレでもいい。テレビはBGMだ」
「そうだな・・・。買物は?」
「まだ食材が残ってる。しばらくしたら、早めの夕飯を作る。それまでこうしていよう」
「飽きたら躰を揉んでくれ。私をマッサージするのは好きだろう?」
「ああ好きだ。ここも、ここも、揉んでやるよ」
「うん。さするようにしてくれ」
芳川は佐枝の肩と腕と太腿と脹脛をマッサージした。芳川はバーテンダーの佐枝がどこの筋肉を使っているか理解していた。
佐枝は肩に触れる芳川の手に、思ってもみない安堵を感じた。何も考えないのがいい。これから先を期待すれば、それだけ何かが遠ざかってゆく。過去を思っても変わらない。今やれる事を心ゆくまでやろう・・・。
肩をさする芳川の手は温かで優しい。芳川の手がもう少し上へ移動して指先に力が入れば、私は頸動脈が圧迫され、二十秒足らずで意識を失う。そういう危険性もあるのに、芳川に身を委ねる信頼はどこからくるのだろう・・・。
地附山公園の事故現場で見せた、芳川の死者への気づかい。
鷹野良平追悼の宴後にタクシーで送ろうとした吉川。
芳川は、他の者には見せなかった内面を、無意識に私に見せていた。後楽園ホールのリングに立った精悍な芳川を憶えてるのは、私が芳川に好意を抱いていたからだ。芳川の手は心地良い。温かくておちつける・・・。
佐枝はまどろみはじめた。
「眠くなったら寝ていい。布団へ運んでおく」
「その時、いっしょに寝るか?」
「気が向いたらそうする。パエリアを食うか?」
「ああ、食べたいな」
「佐枝さんが眠ったら作っておく」
芳川の声を聞いているうちに佐枝は眠った。
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