第3話 恐らく俺は一人ではない
食事や入浴を終えた隼人は、自室のベッドで寝転んでいた。
何か重労働をしたというわけではないが、なんだが今日は疲れた。どちらかと言うと、身体的なものではなく、精神的なものだろう。
先程の美咲とのやり取りのこともあるが、一番の原因はやはり恭子との出会いだと言える。
瞼を下ろすと、意識せずとも容易に部室での光景が思い浮かぶ。
(あの告白はいったい何だったんだろうか…。悪意があったようには見えなかったが、そんなものを丸出しにするようなことはしないか)
「よく分からないな…」
深くため息をつくと、枕元に置いていたスマホが震えた。渋々画面を確認し、通知に表示された名前を見てあることを思い出す。
「そうだ…あの人と連絡先交換したんだったな。今後、必要事項を連絡する為とかなんとか…」
気は進まないが、今は自分も文芸部の一員だ。このような連絡は漏れなく確認するべきだろう、としぶしぶメールを開く。
・ ・
件名:明日の部活動について
差出人:葵恭子
内容:明日の放課後も第四資料室で部活動があるから来てちょうだい。入部届は今日顧問に渡しておいたから、晴れてあなたも文芸部員よ。おめでとう。
・ ・
件名:Re:明日の部活動について
差出人:多玖隼人
内容:ありがとうございます。
・ ・
件名:Re:Re:明日の部活動について
差出人:葵恭子
内容:返事はそれだけなのかしら。あなたに礼儀というものを教えたいのだけれども、電話しても良いかしら。今は一人で居るの?
・ ・
件名:Re:Re:Re:明日の部活動について
差出人:多玖隼人
内容:俺が一人なのかどうかと問われますと、それは難しいところですね。今朝は朝食の目玉焼きに醤油をかけて食べたのですが、ソースや塩をかけるという選択肢もあったというわけで、別の世界線の俺が同時に存在している可能性があるということです。
更には、『きみは一人じゃない。心の中にいつも僕が居る』という台詞もよく耳にします。このようなことから、恐らく俺は一人ではないと言えるでしょう。つまり何が言いたいかというと、電話はしたくないということです。
・ ・
素早く返信を打ち終え、ほっとひと息ついたところでスマホがまた震え出した。
どうやらそれは恭子からの電話のようで、隼人は驚いて通話ボタンを押してしまっていた。
00:01、00:02と次第に増える数字を見て、本当に通話が始まってしまったのだとやっと理解する。
そして恐る恐るスマホを耳に当てて『も、もしもし…』と声を振り絞った。
『……電話はしたくないなんてどういうつもり?メールの返信も素っ気無いし、あなたには本当に礼儀というものを教えてあげるべきなのかしら』
「もともとそのつもりで電話してきたんじゃないですか?」
『へっ…?あっ、そ、そうね…その通りよ』
「そんなのわざわざ電話じゃなくても部活で…。あ、そういえば明日は用事があって部活は行けないので」
『あら、私よりも大事な用事なのかしら?』
「……まぁ、そうですかね?」
『おかしいわね。隼人くんにとって私よりも大事なものなんて無いはずなのだけれど』
「ありますよ!例えば美咲とか!」
ついうっかり名前を出してしまった。
しかし、ここで引き下がれるような男ではないのが、この多玖隼人だ。
『美咲…?美咲って誰なの?そんなにもあなたにとって大切な人なのかしら』
「そうです!美咲は俺にとって一番大切な、愛すべき存在なんです‼︎美咲、結婚しよう‼︎」
「え…っ、えっと…困るなぁ、私まだ中学生だし…」
振り返ると、その視線の先には頬を赤らめて扉の前でもじもじとしている美咲の姿があった。
そして、その後ろから母親である
千隼は切れ長の目を細めてただただ微笑み続けるだけで、それ以上のことは何も口にしようとはしない様子だ。
そしてふと我に返ると、スマホの充電がちょうど切れてしまった。
(これは面倒なことになったな…。次の部活の日にでも誤解を解けば良いか…)
隼人は、ぽりぽりと頭を掻く。
「……それで、美咲は何の用だ?」
「んっとね…ママが帰って来たから一緒にトランプしようって思ったんだけど……その前に、結婚式とかした方が良い…?」
「あらまぁ…」
「……母さん、それはもう良いから」
「ところで隼人、美咲ったらこんな服まで作ってたんだけど、これは誰と使うものなんだろうね」
そう言って千隼は、後ろに隠していた物を隼人に見せつけた。
それは純白のウエディングドレス——正確には、それに似せて美咲が作った物であった。
彼女はコスプレイヤーというわけではないのだが、衣装を作ることが趣味のようで、今まで何着も作っては隼人に無理やり着せているのだ。
彼女の作る衣装は、かなりクオリティが高く、友人とのハロウィンパーティーでは、毎度その圧倒的な差を見せつけており、文化祭の際には裏方の衣装作りとして重宝されているのだとか。
しかし、この状況をどう整理するべきなのだろうか。
美咲は熱くなった両頬を手で押さえ、千隼はそれを見て相変わらず『あらまぁ…』と呟いているだけだ。
なんだかいろいろなことが面倒に感じた隼人は、一度考えることをやめて二人を追い出すことにした。
「ちょっと忙しいから、また今度な…」
「あれ、隼人この前お仕事はひと段落ついて暇だって言ってなかったっけ?」
「それとはまた別でやりたいことがあるんだって」
「そ、そう…?それなら仕方ないね。美咲、お兄ちゃんにはまた今度遊んでもらいましょ?」
「うん、分かった…」
二人はしぶしぶ一階に戻る。その足音が遠ざかるのを確認し、隼人は部屋の扉を閉めた。
「お兄ちゃんって、結婚式はしない派かな?」
扉の向こうからそんな声が聞こえるが、当然気付いていないふりをする。そう自分に言い聞かせる。
「そういえばスマホの充電しないとな…」
(普段からPCばかり使ってて、こっちはあんまり気にしなかったんだよな…)
三日ぶりに充電器をコンセントに挿した。
ほんの少し待てばスマホも使えるようになるのだろうが、今はもう恭子の相手をする気力はほとんど残っていなそうだった。
時間は既に二十一時を過ぎているが、就寝するにはまだ早そうだ。
窓から入る心地良い風のお陰か、隼人の気分は段々とすっきりしていく。やはりまだまだ就寝するには勿体無いと感じ、彼は勉強机に向かった。
そしてノートパソコンを開き、カチカチと小気味良い音を立てながら何かを打ち始める。
「早瀬さんに迷惑かけないように、ちょっとでも進めないとな…」
ぼそりと呟いて手を動かし続け、結局就寝する頃には日付が変わってしまっていた。
・ ・ ・
「おっはよ〜う!」
元気な声が耳に突き刺さり、朝になったということに気が付く。
隼人は重たい瞼を無理やり開け、もう一度閉じる。
そうやって一向に起き上がる気配の無い彼に腹を立たせ、美咲は彼の布団を無理やり引き剥がした。
それでも外は十分に暖かく、問題無く眠れる環境であることには変わらず、隼人は『う〜ん』と唸って寝返りを打ち、美咲に背中を向けた。
余計に頭に血が上るのを感じつつ、彼女は頬を大きく膨らませる。
「…んもうっ!良いもん!起きないならチューしちゃうもん!」
本心で放った言葉ではないが、これくらい言えば流石の隼人でも起き上がるだろうと高を括る。
しかし、彼は相変わらず気持ち良さそうな表情で眠り続けている。
「……本当に寝てるの?」
——返事は無い。
(バレなかったら別に良いよね…)
ベッドに手をついてゆっくりと互いの顔を近付ける。
(初めてだから分かんないけど、これで合ってるよね…?というかこれはお兄ちゃんを起こす為のものであって、変な意味があるわけじゃないから…)
他の誰にするでも無く、自分に向けて見苦しい言い訳をする。
隼人が背を向けているせいで口にキスをすることは出来なそうだが、頬には何とか出来そうだ。むしろその方が容易そうに感じられる。近付くにつれて胸の鼓動が強く、速くなるのを自覚する。
(もう少し…)
美咲はそっと瞳を閉じた。
すると——ピリリリリリリリリッ、と近くで不快な音が鳴り始める。
「きゃっ…!」
その音に驚いて手を滑らせる美咲と、目を覚ます隼人。
彼はスマホの目覚ましを止める為に姿勢を変えるが、上から近づいて来る美咲の顔に気が付いて動きを止めた。
——むちゅっ。生暖かく、柔らかい唇が彼の鼻先に当たる。
「〜〜〜っ⁉︎⁉︎」
目を覚ました途端に妹に鼻を捕食されそうになった隼人は、瞳孔を大きくさせて声を失った。
美咲は慌てて距離を取る。
何か言い訳をしなければ、と頭の中で言葉を組み立てるが、そんな物はすぐに崩れ果ててしまい、結局口から出たのは
「…っ、いや、これはそのっ、違うから…っ!」
という台詞だけであった。
そうして部屋に一人取り残された隼人は、そっと自分の鼻先に触れた。
兎にも角にも、今はのんびりとしている場合では無い。彼はさっさと身支度を終えて、朝食を取る為にリビングへと向かった。
席に着いて食事をする二人の様子がどこかおかしいことに気が付いたのか、千隼は『あらまぁ…』と頬に手を添える。
一方は相手の顔をちらりと見ては頬を赤らめ、もう一方は相手の顔をちらりと見ては哀れみの表情を浮かべている。
「……美咲、そんなにも腹が減ってるなら、俺のメロンパン一個やるよ」
「…ん?あ、ありがと…?」
美咲は好物のメロンパンを渡されたことに満足するが、何故隼人がそのようなことをしてきたのか理解することが出来ず、頭に複数の疑問符を浮かべる。
そんな彼女とは裏腹に、隼人は少し気が楽になったような感覚を得ていた。
(俺の鼻を食べるくらいに腹が減ってたんだもんな…。これで空腹が満たされたら良いんだが…)
互いにすれ違いをしている二人ではあるが、妹を案じる兄の姿に千隼はつい笑みを溢す。
「隼人は美咲に優しいのね」
「…ま、まぁ、妹だから…」
「ふふふっ、そうね、妹だものね」
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