第6話 あの子

 わたしの母は、気まぐれにわたしの愛称をつける。

“その子”という名前にまったく関係のない愛称を。そして、めったに本名を呼ばない。


 いったいいつからはじまった遊びなのかは思い出せない。物心がついたときには、母は“その子”以外の呼び名で、わたしを呼んでいた。

「とりあえず、返事をする」というのが暗黙のルールである。名づけの由来も訊いてはいけない。


 母がわたしを本名で呼ぶときは、わたしが車にかれたり、大病を患って死にかけているときだ。

 さすがに切羽詰まった場面では、母も愛称をつける余裕がないようで、“その子!”と叫んだり、泣きながら“その子……”と呼びすがったりする。

 だから、母に本名で呼ばれるのは、不吉な感じがする。


 ときどき、母がつけた愛称があまりにも突拍子がなくて、自分の呼び名だと気づかないことがある。

 すると、どこからともなく「はあい」という返事が聞こえる。

 なんとなく、子どものような気がする。


 甘く、鈴の音のような声。

 母に、が聞こえているのか、確かめたことはない。


 無秩序な愛称のなかでごくまれに、母は幼くして亡くなった息子──わたしの兄の名を呼ぶ。

 わたしが返事をするときもあれば、が返事をするときもある。


 母がそれを気づいているのかは、わからない。

 きっと、これからも確かめることはないと思う。


 でもでも、母にとってはどちらも我が子なのだから問題ない。

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