深い湖の中へ

もも@はりか

第1話 婚約式

 弟のせいで、息ができない。



 シグネはよく夢を見る。

 森の奥の紺碧こんぺきの湖に、静かに沈められる自分。

 抵抗しても、もがいても、誰も助けてくれる人間はいない。


 息ができなくなり、自分の吐いた水泡が湖面へと伸びて月の光にきらめく。

 そして、自分は死んでいく。


 ***


 ある夕暮れ。

 

 地元の名士から身を起こし、商業で財を成したダールグレン家の屋敷の大広間は、人で賑わっていた。


 美しいシャンデリアが煌々こうこうと一人の男性を照らす。


 そこにいるのは、象牙のように白い肌に、麗しい銀灰色の髪、鮮やかに輝く紫の瞳の、神が作りたもうたかのように精巧な美青年。主催者の席に座っている。


 彼の名前はカスパー・ダールグレン。


 カスパーはダールグレン家の長男。容姿端麗で頭脳明晰、ダールグレン家の跡取りとして注目の的だった。

 その彼はその形の良い唇に弧を描いて、横にいる優しく美しい女性を穏やかに見た。

 ビルギッタ・エクルンド。

 この国の通商の八割を牛耳っていると言われる、エクルンド財閥の跡取り娘だ。

 ビルギッタはカスパーに微笑み返す。

 二人の目の前に、彼らの友人たちが、四角く大きなケーキをワゴンに乗せてやってきた。


「二人とも、婚約おめでとう、そして、カスパー様、お誕生日おめでとうございます」


 ビルギッタは口を両手で覆い、「まあ」と横にいる婚約者の腰を肘でつついてうれしがった。



 愛する弟の婚約祝いと誕生祝い。

 シグネは主催者の席から離れ、壁にぴったりと背中をつけた。

 弟は優秀だ。聡明なだけでなく、絵画や舞踏に造詣が深く、いると華やかな存在で。

 それにひきかえ自分は——。


「それにひきかえトロールは」


 振り向くと、穏やかな顔をした母が、シグネの横にいた。優しさを微塵も感じない冷たげな小じわが目元に寄っている、五十過ぎの女性だった。


「あなた、二十五よね」

「はい」

「カスパーの将来に影を作ることだけはしないでね」

「はい」

「将来有望な子よ。カスパーは。頭も良くて、優等生で、家業にも熱心で」

「はい」

「自慢の息子よ」

「それに比べてなんなの。二十五にもなって、どこに嫁がず、無駄飯食いのトロール」

「申し訳ございません」


 トロールとは、シグネのあだ名のことだ。

 全体的に細身で、小食な彼女はこの地域に伝わるトロールという妖精とは程遠いが、愚鈍で間抜けなところが似ていると言われた。


 母は声を落としつつも、心底いとわしいものに相対あいたいした時のように忌々しげに唇をかんだ。


「本当にいい加減にしなさいよ! 女の子なんて産むんじゃなかった」


 腹を殴られたかのような重く苦しい鈍痛が起きた、と錯覚した。心の痛みだ。


「申し訳ございません……」


 心が鋭い剣に刺されたように苦しく、痛い。


「育ててやった親の気分にもなってほしいものだわ。本当に子供はくじといっしょ。親は子を選べないの」


 言葉が紡げなくなる。望んでもいないのに、自らをこの世に産み落とした親から否定されることに、胸が痛みを覚えるのは、歳など関係ないらしい。

 母は、「だからこうしなさい」とはいわない。

 シグネをいたぶるだけいたぶって、それで飽きたら解放してくれる。


 今日は、侍女が呼んできたから解放された。


「奥様、葡萄酒が足りないと……」

「まあ! 大変!」


 先ほどとは声のトーンをガラリと変えて、母はその場を去った。



 ケーキを食べ終えたのか、少しすると弟のカスパーが手を振りながらやってきた。


「姉上」


 甘えるような声音でいう。弟だ。シグネの細い指に、しっかりした指を絡めてくる。


「ケーキのおすそ分けです」


 侍女が小さな皿に乗ったケーキを渡してくる。


「召し上がってください」


 上にクリームのたっぷり乗ったケーキ。フォークで切って口に入れれば、それは弟の溺愛のように甘かった。


「ふふ、姉上がケーキを召し上がるところなんて、久しぶりです」


 カスパーは婚約者の隣にいる時より頬を染めて、シグネをうっとりと見た。


「でも、だめ。だめですよ姉上。どうしてそんな男を誘うような派手な衣服に身を包んで、外へ出てしまったのですか。部屋の中にいなくては。無責任な男や傲慢な女の目に晒されたらと思うとぞっとします」


 弟はシグネを溺愛するあまり、彼女を部屋に閉じ込めていた。


「ねえ。姉上、お願いします」

「でも、たまには外の空気が吸いたくて……」

「なにをおっしゃいます。外に出たって、いいことなんかひとつもありません。姉上は部屋の奥でゆっくりしていてください」


 しなやかな手でシグネの青ざめた頬を包んでくる。


「姉上は結婚どころか、何をしなくてもかまいません。人前に顔を出さないでください。姉上は僕だけを見てください」

「……カスパー」

「ね?」


 弟は、シグネが部屋から出て、趣味に興じたり、人と話したりすることを極端に嫌がる。

 話し相手はカスパーだけ、優しくするのもカスパーだけ。

 優しい弟なのに、どうして、どうして息が苦しくなるのだろう。


「クリームがついてますよ」


 カスパーは指でシグネの頬についたクリームをぬぐい、ぺろりと舌で舐めた。


「姉上、愛してます」


 カスパーはシグネの唇に自分の唇を重ねた。

 シグネはカスパーに逆らえない。溺愛という鎖に繋がれているようで。ここで抵抗したら、彼女は生きていけない。


「……」


 手を引かれ、シグネは二階にある自分の部屋へと連れて行かれた。



 母があからさまにほっとした表情を浮かべているのを、目の端で捉えた。

「トロール」が愛息子の晴れの舞台にうろうろされるのを心底嫌がっていたのだと気付いた。


 部屋の扉の前に立つ。カスパーが鍵を持っていた。彼はがちゃがちゃと鍵を開け、扉をあけた。扉の向こうは闇しか見えない。


「姉上、おやすみなさい、良い夢を」


 カスパーは満面の笑みを浮かべ、もう一度、名残惜しげに姉に接吻する。

 扉を閉じられゆくとき、嫌だとか、苦しいとかいう感情は湧かない。


 父母に疎まれ、弟に縛られていく。


 ただただ、水中に沈められていくような気がする。誰もこない真っ青な湖に、そっと、沈められていくような。

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