今は遥けき彼方の心臓

千崎 翔鶴

0.ἀντι-Ἄρηςは燃え盛る

 くろぐろとした空の中で、あかい心臓が熾火おきびのように燃えていた。月のない空はまさに暗闇で、その上に点々と星だけがまたたいている。その中にあってあかい心臓だけが、その命を燃やさんとするように輝いていた。

 南の地平線のすれすれに、あかあかと心臓が燃えている。白鳥デネブにもベガにもアルタイルにも目もくれず、あかくあかく、火星に張り合うようにさそりが心臓を燃やしている。

 あれを命の灯火と呼ぶのならば、それが美しいとは思えなかった。二十二時過ぎの帰り道、見上げた空には星しかない。月もない空、星明かりばかりの空の下、たった一人街灯もない道でぽつねんと立ち尽くしている。

 多分いつも通り、いつも通りだ。夕刻に鳴り響いた電話などなかったことにして、いつも通りに振る舞えたはずだ。自分も、それから、同僚も。

 ゆるくかぶりを振って、空から視線を引きがした。見ていればいつか星は動いていくのだろうが、二時間も三時間もここに立っているつもりはない。あの蠍の心臓が地平線の向こうへ沈むまで待っているつもりは、微塵みじんもなかった。

 今日という日がもうじき終わる。今日はもう、あと一時間と少しだけ。地球上のほとんど全員にとってなんでもない日である今日が、自分にとってはどんな日であったのか。

 最高の日だなどとは、口が裂けても言えない。けれど最低の日だなどと言ったとして、そのことばでは軽すぎた。もっとずっと重く、どうしようもない、今日はきっと自分にとっても同僚にとっても、そんな日だったのだろう。

 誰もそれを、口にしなかったのだとしても。

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