落日の吸血鬼

月咲 幻詠

第1話 崩れ去る平穏 ①

 その昔、オスマン帝国の小さな村に、一人の美しい村娘がいた。

 その娘は十年前に現在の両親に拾われて、実子のように可愛がられて育ってきた。


 ソフィアには両親に拾われる以前の記憶はない。しかし、出自不明の自分自身に怯えながらも、彼女も現在の両親を実の親のように慕っている。


 十五になった娘はもはや人とは思えぬ美しさに成長した。そして大変頭もよく、周りからソフィアと呼ばれて愛されていた。


 これは、オスマン帝国に支配されたワラキア公国が自国を奪還するために起こした戦いに巻き込まれてゆく、ソフィアの軌跡を追う物語である。



 ある日の晴れた昼下がり。村はずれの森の中に、武装した男が数人、木陰に隠れて村の様子を伺っている。リーダーと思しき男が、ソフィアと同じ位の青年に声を掛けた。この辺りでは珍しい、黒目黒髪の儚げな青年である。


「様子はどうか」

「依然変わらず。……一度開けば適合者に無限の力を与えるドラキュラ公の魔導書。本当にそんなものがここにあるのでしょうか」

「仲間が持ち帰った情報を信じるならばな。これの為にワラキアが占領されてから八年も待ったのだ、何が何でも回収したい。君とて、婚約者だった公女殿下の仇を取りたいだろう?」

「もちろんです。彼女は、私の希望でしたから……」


 青年は首に着けた指輪の首飾りを愛おしそうに眺めた。それは、彼が五歳の頃に婚約者と交わした指輪だった。


「形見、だったか」

「えぇ、彼女の無念を晴らす為にも」

「わかっている。敵は逃げんさ、イグナーツ君。相手はあの帝国なのだからな」

「はい……」


 リーダーは青年に手を置いて、その精悍な顔を少し緩めると、直ぐに表情を引き締めて隊に号令を出した。


「一時間後、村へ乗り込む。それまで拠点にて待機! 精々英気を養っておけ!」


 兵は号令に従って下がるらしい。青年は、もう一度村を眺め、呟く。


「ソフィア……」


 彼の手の中には、エッジの剥げた指輪が儚げに輝いていた。



 村の東に、ソフィアの家はあった。木製の質素な家である。暖かな日差しをうけて、ソフィアは家で一人本を読んでいた。彼女が読んでいるのは聖書だったが、本が貴重な時代では聖書は代表的な娯楽で、神父に借りたこの聖書を、彼女は何度も読み直していた。


 暫くすると、誰かが家を訪ねてきた。読書が中断されるのを若干鬱陶しく思いつつも、両親が外出していて居なかったので、彼女が応対をするために出てみることにした。


「どちら様でしょう」

「あ、やっほぉソフィア! 今時間あるー?」

「あら? いらっしゃい、ララ。本を読んでただけだから、大丈夫よ」


 どうやら客人は友人のララだったようだ。茶色の髪をくるくると指で巻いていた彼女はソフィアに気づくと人懐っこい笑顔でこちらに手を振る。


「神父様から借りてるんだっけ? ほんとすごいよねぇ、アタシには何書いてるかさっぱりだよ」

「文字が読めるようになればララだって面白がるはずだわ。それで、今日はどうしたの?」

「なんかねー、神父様が仕事を頼みたいって」

「神父様が? 何かしら……」


 ソフィアは小さな時から不思議な力があった。例えば、ふと相手のことを理解してしまったり、精神に異常をきたした人が彼女に触れた途端に平静を取り戻したりである。

 その能力を買われて、彼女は偶に神父の仕事を手伝うことがあった。


「どーせまた変な人の相手でしょ? ソフィアみたいな美人でうら若き乙女になにさすのってねー」

「あはは……」


 神父に対して文句を垂れながら頬を膨らますララを苦笑しながら見守っていると、彼女はハッとした表情をして突然話題を変えた。


「ね、そういえば今日、旅商人の人がここに来てんだって。見た?」

「旅商人が? つい最近来たばっかりなのに。それで、見たの?」

「うんっ! しかも超イケメンがいてさ、私声掛けられちゃった!」


 言いながら、ララは夢見心地に体をよじらせている。どうやら、たとえ商売でも声をかけられたのがよっぽど嬉しかったらしい。今日ソフィアを訪ねてきた理由も、恐らく八割方これだろう。


「ね、ソフィアも見に行こうよ。珍しい本とかあるかもよ」

「でもそんなお金ないからなぁ……」


 当時、本と言えば一冊で家が建つ程の高価なものだった。それも、旅商人といえば危険と引き換えに金を得る人種である。仮に本が売っていたとしても割り増しで、一村の小娘には買えるはずもなかった。


 しかし、人の興味とは恐ろしいもので、例え自分に手が出せるものでなくとも一目見てみたいと思う気持ちは人を動かす。それを理解して誘い文句にするララは利口と言えた。


「……神父様にも呼ばれてるし、ちょっとだけ行ってすぐ帰るからね?」


 そんなことを言いながら、ソフィアはまんまとララの口車に乗せられて、若干心を躍らせながら旅商人の所へ向かうのだった。



 村の中央広場。その一角に旅商人はいた。


「ね、かっこいいでしょう?」

「え、あぁ、うん……」


 いつもは小太りの中年に数人の護衛といった布陣でいる旅商人が、どうやら今日は様子が違う。


「若い人ばっかりね……」


 屈強な若い男達が数名。ジプシーともまた違うらしい。彼らは商売をしながら、時々何かを警戒するように眼光を鋭くしている。


「ねぇ、私やっぱり……」

「さ、ソフィア、行こっ!」

「あ、ちょっと!」


 何の根拠もないが嫌な感じを商人から感じ取って、ソフィアはここを離れたがった。彼女の予感はよく当たる。この商人たちと関わってはロクなことが起きないと第六感が告げていた。


 告げていたのだが、友は無慈悲だった。ララはソフィアが帰ると言い切る前に彼女の手を引っ張り、商人の前へ引きずり出してしまった。


「いらっしゃい! おお、ララさんじゃないか。お友達かい?」

「ええ、マリクさん! こちら、私の友達のソフィアよ」

「どうも……」

「よろしく!」


 マリクと呼ばれた青年はこちらにニコリと笑いかけると、また商売を始める。

 ソフィアはその笑顔が苦手だった。彼女は彼の笑顔に嘘くさいものを感じて、——営業スマイルに嘘くさいも何もないのだが——本能的に苦手意識を持ったのだ。


「さー、ショッピングだー! ソフィアも本探すんでしょ?」

「だからあっても高くて買えないよ」


 本という単語に反応してマリクの顔がピクリと動いたのに、ソフィアは気づかなかった。彼女はララに引っ張られるがまま、並べられた商品を眺めている。


「見て! なんか珍しい形の器がある!」

「東の方の国の食器みたいね……たしか明の物かしら?」

「たかーい!」

「ほら、もうあんまり触らないの。必要な物だけ買って帰るよ」


 そうやって談笑している娘二人を、マリクは観察するように見つめていた。そして暫くして、彼女らに悟られぬよう、店番を他のものに変わり奥へと引っ込んでゆく。


「隊長」


 奥には壮年の男がいて、暇そうに寝転がっている。そのだらしない格好は少なからずマリクを苛立たせた。


「どうしたぁ」

「どうしたじゃあないですよ。本はどうなってんです」


 マリクはごちゃごちゃ転がった服や食器を退かしながら隊長に詰め寄る。


「うるさいよ。心配しなくてもあんな古臭い本誰も盗りやしねぇよ。よりにもよって我ら帝国軍からな」

「隊長……これ一応、重要任務なんですよ?」

「ああ? 十五がナマ言ってんじゃねぇよ。そんなに心配なら手前で守ってな、ボケ」


 隊長と呼ばれた男はそう言うと、面倒そうに手をひらひらさせると、また眠り込んでしまった。


 マリクは溜息を吐きながら、雑に置かれた一冊の本を手にする。魔導書と呼ばれるその本は、オスマン帝国がワラキアを占領した際にドラキュラ公爵の根城から押収した物で、一度開けばその者は正気を失うという代物だった。

 マリクたちの任務は、これを帝国本国に届けることである。


「今の時代どこに何が潜んでるかもわかんねぇのに。呑気なこったよ。そんなだから出世しないんだ」


 若干埃の匂いがする古びた本を、マリクは床から取り上げると、悪態を吐きながらその場を離れることにした。だが、他に持った本が何かに反応して、仄かに暗い光を灯していたことには気づかなかった。



「そろそろだ」


 先程のワラキア公国軍小隊は丁度拠点から出発する所らしい。隊長と呼ばれた男が皆に召集をかける。


「奴らは旅商人に偽装して帝国軍本部に魔導書を届ける算段のようだ。我々の任務は目標が本部に渡る前にこれを襲撃、奪取することだ」

「いいんです? 今襲撃したら、下手しちゃ村が全滅でしょう」

「君の言うことは最もだ、アンドル。下手は打たんでくれよ」

「私は悪魔憑きですからねぇ? わかりませんよ、ルドルフ隊長」

「ならばこそ、その高い能力で作戦を完遂してくれ」


 アンドルと呼ばれた金髪の青年はプライドの高そうな顔をニヤつかせ、やれやれといって黙り込む。


「アンドル、イグナーツ。君達は我々に先立って村に潜入、事前のプラン通り指定の位置を爆破しろ。爆発の混乱に乗じて村人に扮した本隊が突入。その後商人に偽装した帝国兵を強襲する。君達も速やかに合流せよ」


 二人は了解とだけ返事をして足早に村へと向かっていった。

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