第2話 図書館のささやき

夏の図書館で、結衣が新たな一歩を踏み出す。本の世界に閉じこもっていた彼女が、読み聞かせボランティアとして子どもたちの前に立つとき、予想外の出会いと発見が待っていた。失敗の記憶と向き合いながら、結衣は自分の物語を紡ぎ始める。静かな図書館に、小さな勇気の物語が響き始めた。


## 夏の文学フェスティバルへの誘い


夏の陽射しが街を包み込み、アスファルトから立ち昇る熱気が人々の足元をくすぐる7月下旬のある日。結衣のスマートフォンが小さな音を立てて震えた。画面に浮かび上がったのは、拓海からのメッセージだった。


「夏の文学フェスティバル&ボランティア募集イベント、一緒に行かない?」


結衣は画面を見つめたまま、しばし動けずにいた。胸の奥で期待と不安が交錯する。見知らぬ人々の中に身を置くことへの躊躇いが、彼女の心を締め付ける。しかし同時に、拓海の熱心な誘いと、文学への興味が静かに背中を押す。


指が震えるのを感じながら、結衣はゆっくりとスマホに指を触れる。


「分かったわ。行ってみる」


送信ボタンを押した瞬間、小さな勇気の火が結衣の心に灯った。


イベント当日、中央図書館は普段にない活気に包まれていた。入り口に立つ結衣の耳に、館内から漏れ出る人々の話し声や笑い声が届く。深呼吸を繰り返し、緊張で固くなった肩をほぐそうとしていると、


「結衣!」


振り向くと、そこには明るい笑顔の拓海が立っていた。首から下げたカメラを軽く叩きながら、彼は近づいてきた。


「よく来てくれたね!」拓海の声には嬉しさが滲んでいた。「俺は主に写真撮影だけど、君も楽しめると思うよ」


結衣は小さく頷いた。拓海の屈託のない笑顔に、少しずつ緊張が解けていくのを感じる。


「じゃあ、行ってみよう」


拓海に促され、結衣は一歩を踏み出した。図書館の重厚なドアを開け、彼らは新しい世界へと足を踏み入れた。


館内に一歩足を踏み入れると、結衣の目は輝きを帯びた。普段は静寂に包まれているはずの図書館が、今日は人々の熱気と期待で満ちている。本の香りと人々の話し声が絶妙に混ざり合い、独特の雰囲気を醸し出していた。


「まずは何から見てみたい?」拓海が結衣の横顔を覗き込むようにして尋ねた。


結衣は少し考え込んだ後、小さな声で答えた。「地元作家の講演会...興味があるわ」


拓海は満面の笑みを浮かべ、「いいね!俺も聞いてみたかったんだ」と言って、二人は講演会場へと向かった。


---


講演会場は、すでに熱心な聴衆で埋め尽くされていた。壇上に立った作家の一言一句が、結衣の心に深く刻まれていく。


「言葉には、力があるんですよね」作家は熱を込めて語った。「言葉は人の心を動かすんです。そしてそれがみんなに伝わって、世界を変えていく力になると信じているんです」


結衣は息を呑んだ。創作の苦悩と喜び、言葉を紡ぐことの意味—それは彼女の胸の奥で眠っていた何かを呼び覚ます。気づけば、彼女は前のめりになって聞き入っていた。講演が終わり、会場を後にする時、結衣の目は何か新しいものを見つけたかのように輝いていた。


「どうだった?」拓海が尋ねた。


結衣は言葉を選びながら答えた。「おもしろかった...」


拓海は優しく微笑んだ。「それなら良かった」


過去と未来を繋ぐ


次に二人が向かったのは、「本の修復」ミニワークショップだった。会場の一角に設けられたテーブルには、様々な状態の古い本が並べられていた。それぞれが長い歴史と物語を秘めているかのようだった。


「さあ、みなさん。この古い本に新しい命を吹き込みましょう」


穏やかで、しかし確かな存在感のある声に、参加者たちが一斉に振り向いた。そこには温かな笑顔の年配の女性が立っていた。エプロンを身につけ、首からはルーペをぶら下げている。その姿は、まるで本の守護者のようだった。


「はじめまして。私は高橋美智子と申します。長年、この図書館でボランティアとして活動しています」


美智子は一人一人の目を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いでいった。その姿に、結衣は思わず引き込まれるように聞き入っていた。


「今日は皆さんと一緒に、本の修復作業を行いたいと思います。これは単なる物を直す作業ではありません」美智子の目に、熱い思いが宿る。


「本の修復を通じて、込められた思いや歴史を、一緒に体験しましょう」


結衣は深く頷きながら、慎重に本のページをめくった。そこには、時を超えて受け継がれてきた物語が息づいていた。ページの隅々まで丁寧に修復していく作業は、想像以上に難しく、同時に不思議な充実感をもたらした。


作業を終えた時、結衣の手元には生まれ変わったかのような一冊の本があった。その本を見つめる結衣の目には、小さな達成感と新たな発見の喜びが浮かんでいた。


## 図書館ボランティアの魅力


ワークショップの後、美智子が現役ボランティアとして体験談を語る場面が設けられた。小さな休憩スペースに集まった参加者たちの中で、結衣は前列に座り、美智子の言葉に引き込まれていった。


「図書館は単なる本の保管場所ではありません」美智子の声には、長年の経験に裏打ちされた確信が滲んでいた。


「ここは知識の宝庫であり、同時に人々の心の居場所なんですよ」


美智子の目は、思い出を辿るかのように遠くを見つめていた。「私たちボランティアは、その知識と人々の心を繋ぐ架け橋なんです」


その言葉に、結衣は胸が高鳴るのを感じた。これまで本は自分だけの世界だと思っていたが、それが人々を繋ぐ力を持っていることに気づかされた瞬間だった。イベントの終わり近く、交流会の場で結衣は深呼吸をして勇気を振り絞った。


震える手で飲み物を持ちながら、ゆっくりと美智子に近づいていく。


「あの、高橋さん」結衣の声は小さく震えていたが、目には決意の色が宿っていた。


「ボランティアの活動について、もっと詳しく聞かせていただけませんか?」


美智子は優しく微笑んだ。その笑顔に、結衣の緊張が少しずつほぐれていくのを感じる。


「もちろんよ」美智子は嬉しそうに答えた。「ここで私が始めたのは、子ども向けの読み聞かせ会なの。本を通じて子どもたちの想像力を育んでるの」


美智子の目が輝きを増す。「あなたも興味があるかしら?」


結衣は一瞬言葉を失った。自分が子どもたちの前で本を読むなんて、これまで想像もしたことがなかった。しかし、何か新しいことを始めたいという気持ちが、彼女の心の中で静かに、しかし確実に芽生え始めていた。


「考えてみます」結衣は小さく、しかし確かな声で答えた。


その言葉には、未知の世界に一歩を踏み出そうとする決意が込められていた。


その様子を少し離れたところから見守っていた拓海は、カメラのシャッターを切った。レンズを通して見える結衣の表情に、何か新しい輝きを感じたからだ。彼女の目には、これまで見たことのない決意と期待が宿っていた。


イベントが終わり、夕暮れの街を歩きながら、結衣は拓海に向き直った。街灯の柔らかな光が二人を包み込む。


「誘ってくれてありがとう」結衣の声には、これまでにない温かみがあった。


「思っていたよりずっと...楽しかった」


拓海は優しく笑った。その笑顔には、結衣の変化を喜ぶ気持ちが満ちていた。


「君が楽しんでくれて良かったよ」


結衣は頷いた。この日の経験が、彼女の中で何かを変えたことを感じていた。


## 新たな一歩


それから数日後、結衣は図書館の前で立ち止まった。夏の陽射しが強く、アスファルトからの熱気が立ち昇る中、彼女の手はドアノブに触れたまま、動けずにいた。心臓が激しく鼓動を打ち、手のひらに汗が滲む。


過去の失敗の記憶が、まるで映画のワンシーンのように鮮明に蘇ってきた。高校時代の文化祭。朗読会での出来事が、彼女の心に深い傷を残していた。舞台に立った瞬間、聴衆の視線が一斉に彼女に集中した。


手に持った台本が急に重く感じられ、喉がカラカラに乾いた。声を出そうとしても、唇が震えて言葉にならない。


「大丈夫、落ち着いて」と自分に言い聞かせようとした瞬間、汗ばんだ指から台本が滑り落ちた。バサッという音が会場に響き、一瞬の静寂の後、クスクスという笑い声が聞こえ始めた。


頬が熱くなり、視界が歪むほどの恥ずかしさに襲われた結衣は、そのまま舞台から逃げ出してしまった。その日以来、人前で話すことへの恐怖が結衣の中に根付いてしまった。発表の機会があれば避け、グループワークでも極力発言を控えるようになった。


結衣は深いため息をつき、閉じた目を強く擦った。あの日の挫折感が、今も彼女の背中を押さえつける。しかし同時に、美智子さんの優しい笑顔と、拓海の励ましの言葉も思い出された。


「あなたにも、きっと素晴らしい物語があるはずよ」という美智子の言葉が、彼女の心に温かく響く。結衣は深呼吸をした。夏の匂いと、図書館から漂う本の香りが混ざり合う。


「このままじゃ何も変わらない」


結衣は小さくつぶやいた。新しい一歩を踏み出す勇気が欲しかった。しかし、その一歩がまた新たな失敗につながるのではないかという不安が、彼女の心を締め付ける。再び深呼吸をする。そして、ゆっくりとドアノブを回した。


図書館の中は、いつもの静寂が漂っていた。しかし今日は、その静けさが結衣を励ますかのように感じられた。受付に向かう足取りは重かったが、一歩一歩確実に前に進む。


「あの...」結衣の声は小さく震えていた。「ボランティア登録...させてください」


自分の声が遠くで響くのを感じながら、結衣は受付の職員を見つめた。その瞬間、彼女の心に小さな、しかし確かな希望の光が灯った。


## 初めての読み聞かせ


ボランティア登録から数日後、結衣は初めての読み聞かせに向けて準備を始めた。彼女の小さな部屋は、選び抜かれた絵本で溢れていた。朝日が窓から差し込み、部屋を柔らかな光で満たす中、結衣は鏡の前に立った。深呼吸をして、何度目かの練習を始める。


「むかしむかし、あるところに...」


声が震え、言葉が詰まる。目を閉じ、もう一度深呼吸。


「失敗したらどうしよう」という不安が頭をよぎる。子どもたちが退屈そうな顔をする姿が目に浮かぶ。結衣は目を強く閉じ、その想像を振り払おうとした。そのとき、スマートフォンの着信音が鳴った。画面には拓海の名前が表示されている。


「どう?準備は順調?」拓海の明るい声が響く。


結衣は少し間を置いて答えた。「うん...でも、まだ自信がなくて」


「大丈夫だよ」拓海の声には確信が満ちていた。「君なら絶対にできる。子どもたちも、きっと君の読み聞かせを楽しみにしているよ」


その言葉に、結衣の心に小さな暖かさが広がった。


「ありがとう」結衣の声に、少し力強さが加わる。「がんばってみる」


電話を切った後、結衣は再び鏡の前に立った。


「大丈夫、きっと大丈夫」


自分に言い聞かせるように呟き、結衣は本を手に取った。


---


図書館の一角に設けられた読み聞かせコーナーで、結衣は子どもたちの前に座った。小さな椅子に腰かけた子どもたちの好奇心に満ちた目が、彼女に向けられている。手が震え、声が出ない。深呼吸をして、ゆっくりと本を開く。


「む、むかしむかし、あるところに...」


最初は棒読みだった。子どもたちの表情が曖昧に揺れる。結衣は焦りを感じ、言葉を詰まらせる。そのとき、前列の女の子が口を開いた。


「うらしまたろうのお話?」


その瞳が好奇心で輝いているのを見て、結衣の中で何かが変わった。子どもたちの純粋な興味が、彼女の緊張を少しずつ溶かしていく。徐々に声に抑揚が生まれ、感情がこもっていく。


子どもたちの表情が変わり、物語に引き込まれていく様子に、結衣は不思議な高揚感を覚えた。


「そしてうらしまたろうは、亀に乗って海の底へと向かいました...」


結衣の声が部屋に響き渡る。子どもたちの目が輝き、時には歓声が上がる。彼女の言葉が、子どもたちの想像力を刺激し、新しい世界へと導いていく。読み終えると、小さな拍手が起こった。結衣の頬が熱くなる。しかし今回は、恥ずかしさではなく、達成感からだった。


---


「『うらしま太郎』、面白かったね」美智子が結衣に優しく声をかけた。「あなたの声で、物語がより生き生きとしていたわ」


結衣は照れくさそうに微笑んだ。「ありがとうございます。でも、まだまだ慣れないことばかりで...」


「それでいいのよ」美智子は結衣の肩に手を置いた。その温もりが、結衣に安心感を与える。


「経験を重ねるごとに、きっと新しい発見があるはずよ」


結衣は深く頷いた。この日の経験が、彼女の中に新しい可能性を開いたことを感じていた。


---


その夜、結衣は図書館の静かな一角で日記を開いた。ペンを握る手がわずかに震える。しかし、その震えは恐怖からではなく、興奮と達成感からだった。


「今日、初めて読み聞かせをした」


結衣はペンを走らせる。文字に込められた感情が、白い紙面に滲むように広がっていく。


「最初はとても怖かった。でも、子どもたちの目が輝くのを見て、少し自信が持てた気がする。」


ペンを止め、結衣は窓の外を見つめた。夕暮れの街並みが、オレンジ色に染まっている。その景色が、今の彼女の心情と重なって見えた。


「でも、まだまだ改善点はたくさんある」


結衣は再びペンを走らせた。


「もっと表情豊かに読めるようになりたい。次は『桃太郎』にチャレンジしてみよう。」


日記を閉じながら、結衣は小さく微笑んだ。読み聞かせを通じて、彼女は文学への愛を若い読者と分かち合う喜びを知った。そして、自分自身の新たな可能性も感じ始めていた。


## 詩集との出会い


翌週、結衣は図書館でのボランティア活動の合間に、美智子の机周辺を整理する手伝いをしていた。美智子は読書会の準備で外出しており、結衣は一人でこつこつと作業を進めていた。

棚を整理しながら、結衣は美智子の私物に触れることに少し緊張を感じていた。


しかし、美智子から頼まれた仕事だと自分に言い聞かせ、丁寧に本や書類を並べ直していった。そのとき、机の引き出しを整理していると、一冊の古びた詩集が目に入った。表紙は色あせていたが、大切に扱われてきた様子が伝わってきた。


結衣は思わずその本を手に取った。好奇心に駆られて開いてみると、ページの端々に繊細な筆跡でびっしりと書き込みがされているのを発見した。それは美智子の若い頃の筆跡のようだった。


結衣は思わず息を呑んだ。「なんて美しい...」


その瞬間、背後からドアが開く音がした。


「あら、結衣さん」


振り返ると、美智子が穏やかな笑顔で立っていた。


「美智子さん、ごめんなさい。私、つい...」結衣が慌てて言葉を探していると、美智子は優しく手を振った。


「いいのよ。その詩集は、私にとってとても大切なものなの」


美智子はゆっくりと結衣の隣に座った。その目には、懐かしさと温かみが宿っている。


「若い頃、私も文学に夢中だったの。この詩集は、私の原点とも言えるものよ」


結衣は恐縮しながらも、詩集を丁寧に美智子に返した。しかし、その時の美智子の表情が、結衣の心に深く刻まれた。それは単なる懐古ではなく、情熱が今も生き続けている証だった。


「美智子さん、私にも...そんな大切な本を見つけられるでしょうか」


結衣の声には、憧れと期待が混ざっていた。



美智子は優しく微笑んだ。「きっと見つかるわ。むしろ、本の方からあなたを見つけてくれるかもしれないわね」


その言葉に、結衣の心が躍った。彼女の目の前に、新しい世界が広がっていくのを感じた。


---


夏が深まるにつれ、結衣の内面にも変化が訪れていた。図書館でのボランティア活動を通じて、彼女は少しずつ自信を取り戻していった。本棚の間を歩きながら、結衣は静かに微笑んだ。かつては重圧だった静寂が、今では彼女を包み込む心地よい空間になっていた。


手に取った本の背表紙を優しく撫でながら、結衣は思った。


「私の前には、まだ見ぬ多くの『新しい出会い』が待っているんだ」


その確信が、彼女の心を温かく満たしていった。窓の外では、夏の陽光が眩しく輝いていた。

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