2 ルベルとノラ

 懐かしい笑い声が聞こえる。くすぐったいような、それでいて、耳心地の良い声。この声に何度慰められ、勇気づけられただろうか。辺りは真っ暗で、まるで視力を失ったかのようだが、声が導くままに歩を進める。どのくらい歩いただろうか。五分かもしれないし、一時間かもしれない。暗闇のなかでは時間の感覚が曖昧になる。と、目の前にぼんやりとした灯りが見えた。それは街灯の光よりも頼りない。ランタンが放つ光のように見える。

 (……きて……)

 声は光の方から聞こえた。光に向かって歩を進める。気が急いて、駆け足になる。もう少し。あと数歩。そして、目の前の光に手を伸ばした。


 「……きて」

 また声が聞こえた。体が揺れているのを感じる。地震だろうか。

 「……きてよ」

 先程よりも大きな声だ。体の揺れも激しくなった気がする。

 「起きてってば!!」

 「うわぁっ」

 鼓膜が破れるかのような大声に、武政は飛び上がるように目を覚ました。胸を打つ鼓動が、頭に響くほどうるさい。視点は定まらず、風景がぼやけて見える。

 (えっと……俺、何してたんだっけ……)

 タケはここ最近の記憶をゆっくりと辿った。気味の悪い怪物に知らない世界に連れてこられて、海で溺れて、何とか逃げ出して、森でコリーナに……。

 「コリーナ!」

 全てを思い出したタケは、恩人の名を叫んだ。

 (そうだ。またあのドルジだかゴルジだかがやってきて、コリーナを拐ったんだ)

 記憶が鮮明になるとともに、頭と視界もはっきりとしてきた。

 「ここは……」

 タケは周囲を見渡した。そこは薄暗く、円形のとても狭い空間だった。大人三人が横になるのがやっとだろう。その中央に敷かれた、藁で編まれた布団、というよりもゴザに近いものの上に、タケは寝かされていた。チクチクする肌触りだ。目の前には縦長に切り取られた、扉の無い出入口がある。そこからの明かりが空間内を照らしている。外からはガヤガヤと何やら騒がしい音が聞こえてくる。

 「コリーナを探さないと」

 と、その出入口から何かが、いや、誰かがこちらを覗いている。それも、右側から二人。左側から一人。それぞれが顔の半分だけを覗かせて、こちらの様子を窺っている。

 「君たちは、だれ?」

 タケはゆっくりと立ち上がり、出入口の方へと近づいた。

 「キャー!」

 こちらを覗いていた三人は一斉に叫び、逃げ出した。

 「あ、ちょっと、待って」

 タケは追いかけるように、身を屈めて外へと這い出した。強い陽の光に一瞬目が眩む。陽の光を片腕で遮り、タケは辺りを見渡す。そこは、たくさんの人、いや、人に似た動物達で賑わっていた。立ち話をしていたり、買い物や食事を楽しむ姿があちらこちらで見受けられる。その様はまるで、雑多でありつつも活気に満ちたフリーマーケットのようである。前方に目を向けると、先程の三つの小さな影が走っていくのが見えた。タケは追いかけようとしたが、三つの小さな影は一つの大きな影にぶつかった。

 「こら!あんた達、まだ起こしちゃダメって言ったでしょ!」

 「ごめんなさい……」

 三つの声が重なる。小さな影達を叱ったのは、厳しくも優しい声の女性だった。あの子達の母親だろうか。彼女がタケの元へと歩み寄る。

 「ごめんなさい。この子達が起こしてしまったようね。私の名前はパレオ。どう?気分は。どこか痛いところはある?」

 パレオと名乗った女性は一見してキリンのようで、首は長くないが、両腕両足に独特の網目模様があり、頭部から二本の短い角が伸びている。小さな三人組は恥ずかしいのか怖いのか、パレオの後ろに隠れてタケの観察を続けている。よく見ると、三人組はそれぞれ別の動物の特徴を持っていた。犬のような子、猫に似ている子、短い角が生えている子。

 「あ、いえ。大丈夫みたいです」

 タケは体のあちこちを触って確かめた。砕けたはずの右拳を握って開いてみる。少し筋肉が強張っているのを感じたが、それ以外はどこも異常は無かった。

 「そう。良かったわ」

 「あの、ここはどこなんですか?あなたが俺をここへ?えっと、パレオ……さん」

 「いえ。あなたをここへ連れてきたのはルベルさんよ」

 ルベル!忘れていた。確かにあのときルベルもいた。しかしタケには、ルベルと共にあの怪物に対峙した後の記憶はなかった。

 「ルベルは、今どこに!」

 タケはいささか強い口調でパレオに尋ねた。その勢いに、パレオの後ろの三人組が揃って顔を引っ込めた。

 「っと、ごめんよ。怖がらせるつもりは……」

 タケのその言葉に、三人組はまた顔を覗かせた。なんだかアサリみたいだなとタケは思った。

 「ふふっ。気にしないで。この子達、人間のあなたに興味津々なのよ」

 タケはドキリとした。頭を触る。今のタケは、コリーナに貰った変装セットを身に付けていなかった。

 「ついてきて。ルベルさんの元へ案内するわ」

 心配するタケをよそに、パレオは歩き出した。三人組はパレオのロングスカートを掴んでくっついている。周りの目を気にしながら、タケはパレオの後ろをついていく。しかし、すれ違う者の誰一人として、タケを好奇の目で見たり、ヒソヒソと噂するような素振りを見せる者はいなかった。牙の国にいた数日間は、変装がバレたらどうなるか分からないものの、常に不安が付きまとっていた。しかし、ここがどこかは分からないが、今のところ自分が異世界から来たという理由で、危険に陥ることはないように思えた。

 タケは振り返って、自分が寝かされていた家屋を見た。それは家屋というよりかはテントのようで、三角垂を形作るように、同じ長さ、太さの木の枝を何本も組み合わせて建てられいる。浸水を防ぐためか、地面から三十センチほど盛られた土の上に建てられたテントは、装飾もないとても簡素な造りで、遊牧民が住む移動式の住居を彷彿とさせる。そのテントのような住居が、様々な種族でごった返した広場を囲むように、そこかしこに建てられていた。十や二十ではない。五十基はあるかもしれない。そしてさらにそのテントの周りを、木々がぐるっと円を描くように囲んでいた。

 麻で編まれたズボンの裾を誰かに引っ張られている。タケが振り向くと、三人組の内の犬に似た子が、不安そうな眼差しでタケを見上げていた。どうやら立ち止まったタケを心配して迎えに来てくれたようだ。パレオと二人の子供が森へと続く小道の先で手招きしている。

 「ありがとう。俺はタケ。きみの名前は?」

 タケはその子と目線が同じになるように、その場でしゃがんだ。

 「……ロップ」

 「ロップか。いい名前だね。さあ、行こうか」

 初めは恥ずかしそうにしていたロップだったが、タケが手を差し出すと満面の笑みでタケの手を握った。ロップはトテトテと走り、タケはロップの手を離さないよう中腰になりながら、早足で歩いた。

 「すみません。待たしてしまって」

 「いいのよ。あなたはまだ起きたばかりだもの。ゆっくり行きましょう」

 パレオの案内で、タケは森の中の小道を進んだ。いつの間にやら、タケの手を握る小さな手が三つに増えた。犬に似たロップの他に、猫に似た子はシフォン、短いコブのような角を持つ子はブランというのだと知った。そして、彼らは孤児だった。

 「ここにはこの子達のような子供が他にもたくさんいるの。親に先立たれたり、はぐれてしまった子達がね。そして大人達みんなが親の代わりになって一緒に暮らしているの」

 そう話すパレオの声は優しさに溢れ、慈愛に満ちていた。

 「だからここには様々な種族がいるわ。生まれも違えば、血の繋がりもないけれど、みんな家族なの。さあ、着いたわ」

 森の小道を抜けると、先程の広場よりも一回り小さい空き地が広がっており、その中央には青々とした一本の巨木がそびえ立っていた。顎を目一杯空に向けなければ、その巨木のてっぺんは見えない。そしてその中腹付近、枝分かれした二本の幹を跨ぐようにして、大きな四角い箱が絶妙なバランスで据えられており、窓が二つと地面に向かって伸びる梯子が見えた。

 「ツリーハウス!」

 タケの少年心がくすぐられた。三人組はタケの手を放し、まるで公園にあるジャングルジムかのように、慣れた様子でするすると梯子を登り切った。続いて何かが割れる音と聞き覚えのある声が聞こえ、窓からルベルの顔がにょきっと生えた。

 「ルベル!」

 突如現れた三人組の小さな怪獣に困り果てた顔をしていたルベルだったが、地上にいるタケを見つけると、その顔に安堵の表情が浮かんだ。

 「良かった。その様子だとケガは治ったようだね。さあ、上がって」

 ルベルはそう言って顔を引っ込めた。タケはツリーハウスに対しての高揚感と現状に対しての不安によって気が急くあまり、何度か足を踏み外しながらも、梯子を登りきった。

 床から頭を出す形で踏み入ったツリーハウスは、外から見た通りこじんまりとしていた。おそらく八畳程しかない部屋には、四人で囲めばギリギリになる正方形のテーブル一脚と背もたれのついていない丸椅子四脚が窓辺に置かれ、一メートルほどの高さの食器棚が、二つある窓の間の壁に据えられている。その椅子のひとつにルベルが、こちらを向いて座っていた。怪獣三人組はというと、部屋の隅に座って与えられたクッキーを夢中で頬張っている。

 「やあ、タケくん。元気そうで何よりだよ。まずは体の様子を診させてほしい。さあ、ここに座って」

 ルベルに促され、タケはルベルが差し出した椅子に腰かけた。後から登ってきたドレーヌが小さな竈でお湯を沸かし始めた。

 「うん。打撲や擦り傷は多少あるものの、骨折や内臓の損傷は治っているね。一番酷かった右手の骨折も、もう大丈夫だ」

 「ルベル、ここはどこなんだ?それにコリーナはどこにいるんだ?」

 タケの問いに、ルベルの顔が曇る。

 「まさか、コリーナ……」

 タケは最悪の事態を想像した。

 「いや、コリーナは無事だよ。恐らくだが」

 「それは、どういう意味?一緒じゃないのか?」

 ルベルが首を横に降る。

 「ここには、いない」

 「いないって……」

 タケは興奮のあまり勢いよく立ち上がった。

 「じゃあどうして無事だって分かるんだよ!」

 「ひぇっ、う、うわーん!!」

 部屋の隅でクッキーを頬張っていた三人組が、タケの大声に驚いて一斉に泣き出してしまった。

 「あ、えっと、ごめんよ。びっくりさせて……」

 「大丈夫よ。タケさん、私に任せて」

 三人の元に駆け寄り、おろおろと狼狽えるタケにパレオが助け船を出した。タケは元の椅子に座り直した。

 「賑やかだろう。ここは」

 ルベルは至って冷静だ。それがタケの不安を余計に掻き立てる。

 「まだ、よくわからない。だから、ここはどこなのか、コリーナはどこにいるのか教えてくれないか」

 「そうだね。順を追って説明しよう。あのときのこと、私が家に帰って来る前のことを覚えているかい?」

 タケは薄靄がかかった記憶を懸命に思い出した。

 「ああ。あのとき、ルベルの家のキッチンにアイツが現れて、その時にはもうコリーナの姿はなかった。アイツがコリーナのことを『死に損ない』って呼んだのを覚えている。それと、アイツの口ぶりから、コリーナをどこかへ連れていったことも。それで頭に血が上って、気づいたらアイツを殴り飛ばしていた。確かその直後だ。ルベルが帰って来たのは」

 話すことで、あの時の記憶が波のように押し寄せてきた。あの時自分がしたことが今でも信じられなかった。自分のどこにそんな力があったのか。

 「でも、そのあとの記憶は曖昧だ。アイツが奇声を上げて叫んだのは覚えているけど」

 タケに思い出せるのはそこまでだった。

 「そう。私が家に帰ったとき、目に飛び込んできた光景には驚いたよ。疲弊し、肩で息をするタケ君と壁にもたれるように倒れたあの怪物。そのあとあの怪物が起き上がり、奇声を発した。私たちは動けなくなり、タケ君はあの怪物に殴られて気絶したんだ」

 それであの後の記憶がなかったのか。

 「じゃあどうやって俺はここに?」

 「なんとか隙をつくことができてね。君を担いで逃げたのさ」

 そうだったのか。だが年老いたルベルのどこにそんな力があったのだろうか。

 「私のどこにそんな力があるのか疑っているね?」

 「あ、いや……」

 タケは図星を突かれた。

 「私たちロストノアの住人は、そのほとんどが君たち人間よりも高い身体能力を持っているからね。年を取ってもそれぐらいは朝飯前さ。それに私が君を運んだのはここではなく中継地だからね」

 パレオが陶器のポットとカップを二脚運んできて、二人の前にゆっくりと置いた。カップにはカラメル色の液体が注がれていた。湯気とともに立ち上がる香りから紅茶だと分かる。喉がカラカラだったタケはパレオにお礼を言い、紅茶を一口飲んだ。最初に感じたのは数種類の柑橘系の仄かな甘味と酸味。それから、ミントのような爽やかな香りが鼻から抜けた。

 「おいしい」

 タケは生まれて初めて紅茶を美味しいと思った。もちろん元の世界でも何度も紅茶は飲んだことがある。夕食後、タケの母は毎晩紅茶を欠かさず飲んでいた。祖父母は緑茶に煎餅だったが、タケも中学生に上がる頃から大人の仲間入りをしようと、母が淹れる紅茶を飲みはじめた。しかし、茶色くてただ渋いだけの飲み物というイメージから、タケは紅茶にスプーンに山盛り三杯の砂糖を入れて飲んでいた。つい先日、この世界に来る前の夜もそうだった。それなのに、今は紅茶の渋味まで美味しいと感じられる。数種類の柑橘やハーブの全てを言い当てることはできないにしても、紅茶がどんな味をしているか味わいもしなかった数日前のタケでは、考えられないことだった。二口、三口と飲み進める毎に、タケは落ち着きを取り戻した。そうだ。焦ったってコリーナが見つかる訳じゃない。

 「ルベル、結局ここはどこなんだ?」

 ルベルは左手に持ったソーサーにカップを置いた。

 「そうだね。その話は外で話そうか。ここの案内がてらね」


 「じゃあ留守は頼んだよ」

 ルベルがツリーハウスの窓に向かって手を振る。窓からはパレオとロップ、シフォン、ブランの三人組が手を振り返している。タケとルベルはツリーハウスを後にして、森の中へと歩き出した。

 「タケ君。パレオからここについて何か聞いたかい?」

 「ああ、少しだけ。ここにいる子供たちはみんな孤児で、大人たちみんなで育てているって」

 「そう。ここで生まれた子もなかにはいるけど、ほとんどが孤児だ。そして大人たちも元は孤児だった」

 「え?」

 「ここで生まれた子を除いて、大人も子供もみんな、自分の親の顔を知らないか、忘れてしまっている。たとえ覚えていても、もう一度会うことは叶わない。パレオもそうさ」

 ルベルは一度ツリーハウスの方を振り返ってから続けた。

 「タケ君。ここにこれだけの孤児がいるということは、どういうことか分かるかい?」

 唐突な質問にタケは答えられず、首を横に振った。

 「戦争があったのさ。それも、長い長い戦争が」

 戦争。その言葉に、タケはすぐには反応できなかった。思考が麻痺したかのようだ。

 「数日だけだったが、タケ君の目に牙の国はどう映ったかな?平和そうに見えたかい?」

 「それは……」

 コリーナの案内で巡った牙の国。五層に別れ、上の層には整備された街並みと豪奢な家々が目立った。一方で、下の層にはでこぼこの道と簡素な造りの長屋が並び、貧富のヒエラルキーがはっきりと見てとれた。タケはありのままをルベルに伝えた。

 「そう。あの国のかたちは、戦争によって生まれたのさ。ひと度戦争が起これば、ごく少数の富める者たちはさらに財を成し、大勢の貧しい者たちはさらに困窮する。それは君たちの世界でも同じではないかな」

 またしてもタケは言葉に詰まる。タケの世代にとって戦争は過去の話であり、遠い国の出来事である。学校の歴史の授業やテレビのニュース、新聞等で時折見聞きするだけで、どうして戦争が起こるんだろうとその度に思いはしても、その疑問はいつも数分後には霧散してしまう。タケは初めて己の無知を恥じた。

 「いや、すまない。君が答えられないのは当然さ。寧ろ答えられない方が幸せとも言える。戦争なんてもの、経験しないに限る」

 タケの様子を見てルベルは優しくそう言ったが、彼の目は悲しみに満ちていた。

 森を抜けると、そこは小高い丘だった。眼下に先程タケが目を覚ました、賑わいのある小さな集落が広がっていた。

 「孤児……」

 そのたった二文字をタケが理解するにはまだ時間がかかるが、誰かに取り残される気持ちは充分に理解できた。

 「ここは、取り残された者たちが共に暮らすコミュニティーの一つ」

 「コミュニティー?」

 「そう。私たちはNORA(ノラ)だ」

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