その3
(あの迫力はなんだろう。一言も挟めなかった。暖斗が攫われて行くのをただ黙って手をこまねいて見ていることしか出来なかった……)
葉月は自分のライバルを始めて知った。
(敵わない。太刀打ちできない。くそっ!!)
己の無力さに臍を噛む思いである。知らないという事は──。
無力感に苛まれ髪を掻き毟る葉月を見て東原が言った。
「僕がなぐさめてあげようか?」
「いや、いい!」
葉月は三歩離れて東原を睨む。
(この男はもしかして……、いや、もしかしなくてもあの男の──)
葉月に疑いの目で睨まれても東原はケロッとした顔でにっこり笑って葉月に言った。
「それでこそ葉月君。僕はお姫様に恋焦がれる王子様を見守る宰相令息とか近衛騎士という役柄に憧れているんだ」
どこまでも曲がりくねった東原の性格だった。
「姐さん。姐さんは若頭領の嫁だ」
(それでどうしてこんなものを俺に……)
暖斗は家に帰ったとたん、赤ん坊を押し付けられてしまった。
「母親がいるだろ? この子の」
当然の事を暖斗は聞く。しかし……。
「逃げた」
義純が一言答える。
(逃げたって……、逃げたって……)
暖斗は押し付けられた赤ん坊を抱いたまま唖然と義純を見たが、でかい大男はふんぞり返っているだけだ。
(お、可笑しくないけど……可笑しい……。あんたって、あんたって──)
肩が震えて噴出しそうになる。義純は多分、きっと、とっても女運が悪いのだ。
背は高いし顔はまずまずだし……ヤクザだけど……、
如月工務店の常務で金持ちだし……、ヤクザだけど……、
亭主関白だけど嫁の俺を大事にしてくれるし……、ヤクザだけど……。
「ガキの世話はお前に任せた、はる」
義純はそう言うととっとと書斎に逃げ出した。
(ちょっと待て! お、俺に任せてどうする!?)
暖斗の腕の中で赤ん坊がホギャアホギャアと泣き出した。
「義さん、こんなのどうすればいいんだよー!!」
赤ん坊と一緒に泣いたほうがまだ似合いそうな暖斗だった。
「姐さん、ミルクはこうやって作ります」
脩二が哺乳瓶にお湯を注ぎ粉ミルクをスプーンで量った。ごつい脩二が真剣な目で哺乳瓶にミルクを入れている。
可笑しい……。可笑しいが笑うのを必死に我慢する暖斗だった。
「人肌に冷ましてから飲ませます」
脩二がミルクの入った哺乳瓶を頬に当ててから暖斗に渡す。暖斗は脩二の真似をして哺乳瓶を頬に当ててみた。ほんわりと温かくて丁度いいようである。
それを泣いている赤ん坊の口に持っていくと、赤ん坊は元気よくミルクを飲み始めた。
「顔を真っ赤にして一生懸命飲んでるよ」
「だから赤ん坊というんです」
そう言った脩二の顔は相変わらず怖いが心持優しげに見える。
(あれ、誰かに似ている……。誰に……?)
暖斗は同じ事を思ったのを思い出した。東原の家で東原が眼鏡を取ったときだった。
(どういう事なんだ……?)
いや、どういうもこういうも学校に義純の息のかかった者がいると暖斗は思っていた訳だから、東原だとありうる事だった。義純も東原のマンションに早く来たし。
「脩二。お前、東原とどういう知り合いなんだ?」
「……従兄弟です」
脩二は口数すくなに答えた。
「従兄弟……!?」
全然気が付かなかった。
東原は細い黒縁の眼鏡をかけていて、真面目かと思えばひょうきんそうで何処となく表情が読めないところがある。脩二はいつも仏頂面で目の上の傷も相俟って怖さを前面に押し出している。
方向性が違うんだよなと暖斗は場違いな事を考えた。
「じゃあ、あいつに俺の面倒見るように頼んだの?」
「まあそうです」
「へえ、お前は何でこんなとこにいるんだよ」
東原は弁護士一家の息子だと葉月がいつか言っていた。その従兄弟がヤクザの一家の執事みたいな事をしているのが分らない。
「昔、悪い事をしでかしまして、若頭領に拾われましたんで」
そう言って脩二は口を噤んだ。怖い顔がもうこれ以上は言わねえと言っているようで暖斗はそれ以上聞くのを諦めた。
「姐さん、おしめはこうやって換えます」
脩二が手際よく赤ん坊の紙おむつを換える。
(何だってこいつはこんな事までよく知っているんだ?)
「へえ、こいつ男の子なんだ」
赤ん坊はミルクを飲ませておしめを換えてやると満足して眠ってしまった。
眠ってしまった赤ん坊は可愛い。
人は小さな生き物には哀憐の情を覚えるらしいが、小さな手やら丸いほっぺたを見ているうちに暖斗も何やら赤ん坊が可愛くなってしまった。単細胞ともいうか。
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