綺麗事ではすまされない
戸成よう子
第1話
■あかり(1)
目覚めると同時に、視界にあるものを確認した。照明の消えたワンルームの部屋。天井も壁も白一色のシンプルな内装だ。床には元々グレーのカーペットが敷かれていて、それも悪くないと思っていた。モノトーンでお洒落な部屋だ、と。
大学寮としては古いほうだし、あちこち年季は入っているが、改装後間もない室内は綺麗だったので一目で気に入った。木造三階建てのアパート風というところも、風情があっていいと思っている。実際にはもう少し現代風の造りで、一階には共有スペースも設けられていた。設備は整っているし、女子寮だからかもしれないが、どこもかしこも掃除が行き届いていた。
カーテンには、透けるレースと遮光タイプを選び二枚重ねにした。今はどちらも開いている。三階の部屋なので、外から覗かれる恐れはあまりないのだ。窓から射し込む朝の光が、眩しく強烈に床を照らしていた。
おそるおそる、ベッドから足を下ろす。両足とも、ちゃんと体にくっついている。見なくてもどこも怪我がないのはわかっていたが、見ずにはいられなかった。
ベッドの横には姿見があり、身を乗り出すと顔を映すことができた。あかりは腰掛けたまま、姿見に自分を映してみた。――まず、恐怖に見開かれた大きな目に注意が向いた。それから、ショート・パンツと袖なしのTシャツから覗く、剥き出しの両手、両足に。どこにもおかしなところはない。それもまた、わかっていたことだ。
一体、自分の身に何が起きているのか、ここは一体どこなのか―― 大学寮なのは知っているが、そういうことではなく―― 何もかも、さっぱりわからないが、熟考している暇はなかった。ぼんやりしていたら、またあれが起きる。それは避けなければならない。
とはいえ、頭ははっきりしないし、自分がすべきこともよくわかっていない。外出の準備をしなければならないのだが、それよりもっと大事なことがあるのでは? けど、その大事なこととは何だろう?
のろのろと身を起こし、洗面所に向かった。前髪ごと顔を洗い、タオルで拭きながら再び鏡を覗き込む。微かにそばかすの散った顔。耳には開けたばかりのピアスの穴。唇は青褪め、痩せた肩先はがたがたと震えている。濡れた前髪から水滴が滴り、顎を伝って鎖骨に落ちていた。
いつも通りにしたほうがいいのか、判断がつかなかったが、何も考えが浮かばないのでそうするよりなかった。化粧水、化粧下地、ファンデーション。前髪はセットし、髪は二つに分けて三つ編みにする。短い三つ編みの先に白いリボンを結ぶのが、最近のお気に入りだ。
震える指でなんとかそれをやり遂げ、壁の時計を振り向く。八時三十分。もう時間がない。
初めて、恐怖と戸惑い以外の感情―― 焦り―― が心の表面に現れた。もたもたしていたせいで、いつもの倍以上、時間がかかってしまった。これでは、いつも通りどころか、講義に遅刻しかねない。
講義、遅刻、といったことが今の自分にとって重要なのかどうかは、定かでなかった。もっと重要な何かがあるはずだ、という例の声は相変わらず頭のどこかから聞こえ続けている。それに耳を塞ぐようにし、あかりは覚束ない足取りで部屋を横切った。頭も体も言うことを聞かないが、それがなぜなのかはまったくわからない。おそらく、以前、自分に起きたことと、これから自分の身に降りかかるであろうことに全身が拒否反応を示しているからだろう。
ようやくクローゼットに辿り着くと、自分が着ていきそうな服を選んだ。白地に黒い柄のロング・スカートと、水色のカットソー。スクエア・ネックが好みで、同じ首元の服ばかり買い集めている。
ピアス。ピアスをつけ忘れている。だが、もうそれをつける時間はない。必死で、泳ぐように玄関に向かい、靴に爪先を押し込む。時計を見ると、長針が大きく進んでいた。時間までが、わたしを置いていこうとしている。
とにかく、靴は上手く履けた。後は大学へ行くだけだ。
頭の奥ではなおも、すべきことは本当にそれなのか、もっとほかに何かあるのではないか、という声ががなり立てていた。最早その声を聞くつもりはなかったが、それにしてももう少し記憶がはっきりしていれば、と思う。一体、自分の身に何が起きたのか―― せめて、それだけでも思い出せれば、何か対策が取れただろうに。
微かに残った理性でそう呟くと、再びよろめきながら歩き出した。廊下はひどくがらんとしている。建物全体から人の気配というものが感じられなかった。他の学生はみんな、出かけてしまったのかもしれない。
玄関から出ると、目の前にスクールバスが停まっていた。バスの車体はクリーム色で、旧式なのか、やけに大きなエンジン音を響かせている。側面のドアが二つとも開いていて、そこから降りてきたとおぼしい学生が三人、歩道でふざけ合っていた。一人は派手なオレンジのラガー・シャツに身を包み、三人とも脛の覗く短いパンツを履いていた。
大学は寮のすぐ近くで、スクールバス越しに建物の一部を望むことができる。壁に何かが垂れ下がっており、よく見ると黄色い横断幕だとわかる。縁のぐるりをペーパーフラワーで飾った手作りの横断幕で、手書きの文字が表面に踊っている―― ”祝・バレーボール部 大会出場! あと8日”
眺めるうちに、あかりは次第に息苦しさを覚えた。くだらない。こんなのどうだっていい、という思いがせり上がってくる。その感覚に圧され、喉が苦しかった。
しかし、だからって、どうすればいいのか。そもそも、何に備えればいいのか。時間は。時間はまだ残されているのか。
息が詰まり、動悸が駆け足で高まっていく。
何かしなければ。わけもわからず自分を急かし、校門へと急いだ。相変わらず言うことを聞かない手足を動かし、ぎこちなく、前へ前へ。
スクールバス、ラガー・シャツを着た学生、横断幕の垂れた校舎、すべてがどこか歪んでいる。その歪んだ世界を、死に物狂いで進んでいく。
と、スクールバスのドアが閉まり、車体がゆっくりと動き出した。L字を描く道をUターンし、元来た道を戻ろうとしているらしい。
振り向いた、その時。すべてが鮮明になるのがわかった。記憶にかかっていた靄が晴れ、その向こうから一台の車が突っ込んできた。
車は凄まじい勢いでバスの後部をかすめた。赤いボディの乗用車。その車体が、バスに接触した衝撃で大きくバウンドし、スピードはそのままに、こちらへ突進してきた。
そうだ、これだ。これが起きることを、わたしは知ってたのに――
虚しくそう考えた次の瞬間、あかりの体はゴム・ボールのように弾き飛ばされていた。
■朱莉(あかり)(1)
熱でぼうっとした頭で、朱莉は寝室から這い出した。寝室には夫婦のベッドが二つあり、朱莉の側のベッドサイドにはデスクが置かれている。木製の、小ぶりなデスクだが、今はそこに溢れんばかりの本が積まれていた。
気分がすぐれなかったので、小一時間、寝室にこもって本を読んでいたところだ。アラームが鳴り、そろそろ夕食の支度をしなければと、這うように外へ出てきたというわけだった。
洗面所の鏡を見ながら、下ろしていた髪を後ろで一つに括り、ついでに自分の顔を調べる。熱で顔が赤く、瞼が腫れていた。
このところ、持病のアレルギーが酷くなり、しょっちゅう体調を崩している。熱といっても微熱だし、騒ぐほどのことではないのだが、それでも勇吾は心配していた。
朱莉にとってはアレルギーの発作など日常茶飯事だし、医師から免疫低下についての説明も受けていたので、慌てることはなかった。朱莉がそう言うと、彼は信じられないという顔でこう言った。”何か心配なんだよ。いつもと違うから”
いつもと違うから。確かにそうだ。
重い足取りで台所へ行き、エプロンをつけようとしたものの、肩をすくめて、エプロンを元の場所に戻す。汚れて困るような服ではないし、何より、紐を結ぶのが面倒なのだ。妊娠三十五週とあって、腰回りが以前と比べものにならないほど大きくなっている。
玄関の開く音がして、勇吾の声がした。「ただいま」
おかえり、と朱莉は返した。自分でも嫌になるほど、陰気な声だった。
台所に現れた勇吾は、どさりと両手の荷物を下ろした。
「買ってきたよ。お米は無洗米でいいよね?」
ありがとう、と朱莉は弱々しく微笑んだ。「うん、それでいいよ」もう一つの袋に視線を移し、「そっちは何?」
「ついでだしと思ってさ。色々買ってきたんだよ」と、顔を輝かせて言う。「ほら、これ、安かったんだよ」
そう言って、ビニール入りのまるごとの魚を取り出した。
「わあ、大きな魚」
「凄いだろ。メバルっていうんだってさ。二匹買ったから、一匹ずつ食べられるよ」
こんなのどうやってさばくの。大体、丸々一尾なんて食べられないよ。そんな文句が口から出かかったが、ぐっと飲み込んだ。
まあいい。
「じゃあ、明日の晩ご飯にしようか。冷蔵庫に入れといてくれる?」
「オーケー。今日は何?」
「アスパラと牛肉の炒め物」
買ってきたものを冷蔵庫に入れると、勇吾はネクタイを緩めながら寝室に入っていった。やがて、戻ってくると、「また本が増えたみたいだね」
そうだね、と手を止めずに朱莉は答えた。
「あんなに読み切れるの? 読書に耽るより、ゆっくり休んだほうがいいんじゃない?」
「でも、何かしないとさ」
せっかく産休を取ったのに、とぶつぶつ言いながら、勇吾はリビングのほうへ去っていった。
朱莉はメンタルヘルスのクリニックに勤めるカウンセラーだ。今は産休を取得し、長期的に仕事を休んでいる。予定では、出産後も半年間、育休を取ることになっている。
カウンセラーの仕事は患者と対面して座っていればいいので、産休はそれほど長く取る必要はない、と考えていたのだが、クリニック側は取らせたい考えのようだった。こちらは平気なのに、周りが気にするとはおかしな話だ。あるいは、カウンセラーが妊婦だと患者から苦情でも来るのかもしれない。そう考えると、ふふっと笑いがこぼれた。――とはいえ、体調の件もあるので、クリニックの判断に異存はなかった。
「何がおかしいの?」食事の支度の手伝いに来たらしい勇吾が、そう尋ねた。
「いや、妊娠って大変だなぁ、と思ってさ」
勇吾は呆れた顔をした。「当たり前じゃないか。何言ってるの」
「だって」盛り付けの済んだ皿を手渡しながら、言う。「本は読み切れないし、運動は体がついてこないし」
「まだ出産まで時間があるだろ。それに、運動はなるべくしないと駄目じゃないか」
「そうだけど、億劫なんだよね」
「足のこともあるし――」
確かに。朱莉は、最近すっかり鈍った右足の腿に手を伸ばした。筋力の維持は、義足をつける上で不可欠だ。
「産休中にやろうと思ってたことの中で、ちゃんとできてるのって、ベランダ園芸くらいだよ」
「それは続いてるの?」
「うん。気づいてなかった? 見てごらんよ、ベランダ」
「後で見てみるよ。――きゅうりやトマトを作ってるわけ?」
違うって、花だよ。そう言って朱莉は笑った。
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