出題編1‐11
「さっき海上に発生した炎は何か関係がありませんか?」
私がそのことを言うと、西野博士ははっとした表情になってからすぐに思考を巡らせた。ここまでを見ていると、西野博士は思考をする際には腕を組んで左手の中指で右腕を、一定の間隔でとんとんと叩く癖がある。
「確かに、火野博士が亡くなったことには関係がないかもしれないが考えてみる価値は十分にあるな。副島さん、ああいった海上に炎が突然発生するということはこれまでにもあったのかな?」
西野博士の問いかけに、副島さんをはじめとした所員の人たちは首を横に振る。
「僕たちも見るのは初めてですが、あれは不知火という事ではないでしょうか?」
そう、井野さんがぼそりといった。おそらく、独り言のつもりだったのだろう。しかし、彼が思っているよりも声が出たようでその声は部屋全体に届き、彼自身も驚いていた。
「不知火?」
私は聞きなれない単語に、思わずそれを反復して聞き直す。すると、井野さんは視線で全員に確認をとってから不知火について話し始めた。
「不知火というのは、有り体に言えば妖怪やお化けの一種ですね。海の上に急に炎が浮いたかと思えば、その数をどんどんと増やしていき、最後には消えてなくなるという妖怪です。まあ、科学的に言えば妖怪なんてものよりも怪火といった方が正しいんでしょうけど」
なるほど、私は昔からかなり現実主義者の面があったので妖怪や空想上の生き物にはあまり興味を示さなかった。口裂け女やテケテケくらいなら中学生の頃に流行った噂話の影響で知っているが、それに関しても詳しいとは言えないし、知らない。
だがそう言った存在を頭ごなしに否定するつもりもなかった。そういう怪奇現象などから新技術が発見されるようなこともある。
「そもそも、怪火というのは発生原因が不明の火が現れる怪奇現象なんですが、不知火に関してはもう原因が特定されているんですよ」
「へぇ、原因というのは?」
誰かが井野さんに向かって、少し強い口調で聞いた。
確かに、不知火や怪火について詳しい人に対しては回りくどく感じるような説明かもしれないが、私のような全くの無知な人にはわかりやすい説明だから、そんなに強く言う必要はないのにと思う。
それとも、非科学的な現象の一切を受け付けないタイプだろうか。科学者の中には、そういう人も一定数存在するのは確かだ。
「不知火は実は火なんかじゃなくて、蜃気楼の一種だと言われています。元々は漁船や民家の明かりが、夜の海という気温が変化しやすい場所で光の屈折を起こして、さも独立して光を放っているように見えるのを、火の玉だと錯覚したのだろうという説が最も有力ですね。原理で言えば、逃げ水や陽炎と同じです。まあ、昔の光源といえばそれこそ火くらいしかなかったですからね。光が見えれば、それ即ち火であると判断してもおかしくないでしょう」
「昔っていうけど、どれくらい前の話なんですか?」
どうやら新見博士も不知火の話には興味を持っているようだ。
「不知火が文献に登場するのが『日本書紀』で、解明されたのは大正時代の話です」
「へぇ~。あ、すみません、続けてください」
私は関心のあまり、声を漏らしていた。
これは、いつも注意されているのに治らない恥ずかしい癖だ。前島教授の講義中にも「へぇ~」とか「なるほど~」とかいうものだから、教授には喜ばれている。だけど、同じ研究生には注意するように言われている。
「いえ、これ以上は僕から話せるようなことはないんですけども……」
井野さんも気まずそうにしていた。私は申し訳ない気持ちでいたたまれなくなる。なんとか、話をつなごうと考えて私が質問できることを思いついた。
「じゃ、じゃあ何か伝承みたいなものはないんですか?」
「伝承ですか?」
井野さんは不思議そうな顔をして、こちらを見ている。
「ほら、例えばテケテケだったら見つかったら両足を切断されるとか、口裂け女だったら綺麗って言わないと襲われるみたいな……」
「いや、そういった話は聞いたことがないですね。むしろ、『日本書紀』での扱いはどちらかと言えば良い怪異であるとされています。当時の天皇が方角を誤った際に、不知火のほうへ船をこぐと沖についたという話が残っているんですから」
「いえ、違うわ。井野君」
井野さんがそう言い切った後に、会話の主導権を握ったのは副島さんだった。
「確かに『日本書紀』にはそう記されているかもしれないけど、伝承というのは地域性があるのはわかるでしょう? 最たる例は河童かしら。イメージで言えば子供と相撲を取って、負ければ尻子玉を取られて殺されるというのが有名だけれども、地域によっては薬の作り方を教えてくれたりしたという話があるなど、様々な違いがあるの。まあ、その時は日本が統一されていないんだから当たり前と言えば当たり前よね」
「それがどうかしたんですか?」
井野さんが、不思議そうにたずねる。どうやら、井野さんは副島さんの話に思い当たるところはないようだ。
「つまり、道案内役の不知火はあくまで『日本書紀』内の話であって、この地域で伝わる話とは違うということよ」
副島さんがそこまで言ったところで、井野さんが口をはさんだ。
「へえ、それはどんな話なんですか?」
「ここら一帯での不知火伝承。それは、不知火の姿を見たものは体が焼けるほどの苦しみで亡くなるという話よ」
副島さんが言い終わるかどうかのタイミングで、別の声が響く。
「まさか、そんな噂を科学者ともあろうかたが信じるなんて、世も末だ」
その声は、部屋に戻ろうとしてそのまま立って話を聞いていた長岡博士のものだった。確かに、科学ですでに証明されていることに怪異などと言って理由付けを求めるなんて愚かに映ったかもしれない。しかし、世も末というのは言い過ぎではないか。
「くだらない話はもうこりごりだから、部屋に戻らせてもらうよ」
そう言って長岡博士は部屋を出ていった。なんだか、ドラマなら明日にでも遺体となって発見されそうな立ち回りである。まあ、そんな不吉な想像はしないほうがいい。
「みんな気にしないでくれ。彼、長岡博士はかなりそういった伝承や怪異というような話を嫌うからね。副島さんの話に私は興味があるよ」
長岡博士が開けたままにしていたドアを閉めながらそう言って話の続きを促すのは西野博士だった。副島さんはそれにうなずいて話を続ける。
「ここらの伝承は、研究所が立つときに何か不幸なことがあってはいけないと思い調べました。しかし、まさかこんなことが現実になるなんて」
それは、副島さんがほんの冗談で作り話をしていると思った方がいいくらいにぴったりと今の状況に当てはまった。原因不明の発火と謎の焼死体。これがもしも、人の生死にかかわるような話でなければ私は一笑に付しただろう。
しかし、副島さんの表情は真剣そのものだった。今日会ったばかりだが、こんな状況でくだらない冗談をいうような人ではないことも分かっている。だからこそ、その話に信憑性が増せば増すほどに不気味だった。
こんなにいっぺんに考えることが押し寄せてきてはまとまらない。とりあえず、謎解きなんて洒落たことをするつもりなんてないけどもなぜ火野博士が死に至ったのかが知りたかった。他殺にせよ、事故にせよ、自殺にせよ、はたまた怪異によるものだとしても不可解な点がある。
一時間半の間に、どうやって誰にも気づかれることなく火野博士の遺体を焼き切った?
物を燃やすときには、当たり前だがそれが大きければ大きいほどに大量のエネルギーが必要になる。例えば、火葬をする際には八百度から千二百度で一時間から二時間ほど焼く必要がある。だが、そこまでの高温なら周りに燃え移ってもおかしくないし、誰も気が付かないというのも不自然な話だ。そもそも、そこまで時間があれば助けを求められるだろう。
そんなことを考えていると、いつの間にか部屋が静かになっていることに気が付いた。各々が次の発言を考えているのだろう。
しかし、ここにいる人間のほとんどが化学のプロではあるが、捜査のプロではない。橋が落とされたくらいなら警察がなんとかするだろう。西野博士をはじめとした大物が集まっている研究所で火野博士が亡くなっている。マスコミにとっては格好の餌だが、その分だけ警察としては一つのミスが沽券に関わる。迅速な対応が期待できるはずだ。 そこで、西野博士が手の平を二回、打ち付けて音を鳴らす。きっと、学生たちに講義をする際にもこうやって注目を集めているのだろう。
「とりあえず、今日のうちは警察に対処をしてもらうのは不可能だ。各自、自らの身を守ろう。とにかく武器になりそうな物を持って寝るのをお勧めする。まあ、眠れるかは別だが、できるだけ横になって体を休めておいた方がいい。副島さん、南京錠をもらってもいいかな?」
「じゃあ、私もお願い」
「僕も南京錠が欲しいです」
結局、その場にいた全員。研究所内では長岡博士以外の部屋には南京錠がかけられることになった。みんな、なんだかんだ言っても不安なのだろう。ちなみに、南京錠を溶かすほどの温度を発生させるのも、薬品を使えば簡単である。まあ、一般的な真鍮製のものはライターから出る炎よりも融点が低いから、それを言い出せば鍵なんて何の役にも立たない。
「じゃあ、くれぐれも気を付けて。明日の朝、再び元気な姿でみんなに会えることを期待している」
西野博士はそう言うと、先ほど長岡が出ていったドアを開いて部屋から去っていった。それに連なるように他の客たちも続いていく。
「渡橋様。このようなことになってしまい、申し訳ありません」
残った副島さんと井野さん、岩塚さんが揃って頭を下げる。
「そんな、皆さんのせいじゃありませんよ」
私は、はっきりとそう言った。
責めるならいるかもしれない殺人鬼だろうが、それが誰かわかっていれば何も怯えることは無い。別に私はそんなに怯えてもいないし、怒る理由もない。
「警戒だけは充分にお願いします」
副島さんは悲しそうに、再び頭を下げた私はいたたまれなくなって、こくりと頷いて、部屋に戻った。
部屋に戻ってからのことを、私はあまり覚えていない。シャワーを浴びたかすらも。メイクはしっかりと落ちていた。
何にせよ、私はこの夜を無事に越えることが出来た。
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