出題編1-5

「おやおや、お嬢さん。あまり急いで食べるのは体に良くないよ」


 お嬢さんだなんて生まれてから初めて言われたので、私は自分が呼ばれているのだと最初は気がつかなかった。しかし、再び呼ばれた時にはその声が近づいてきていたので、後ろを振り返るとそこにはかの有名な西野博士がいた。


「西野博士!」


 私は思わず、大声をあげてしまう。口に残った少しの食べ物がこぼれそうになったのを、口で隠した。なんとか、口の中で転がるにとどまってくれたようだ。


「ああ、知っていてくれたのかな。これは光栄だ」


 知ってくれていたなんてレベルじゃない。化学を志す者なら、いや日本人ならば知っていて当然なレベルの有名人だ。


 これまで数多くの研究を成して、日本現代化学の父とも呼ばれる西野幸助博士。私と研究している分野はやはり違うけれど、憧れている人の一人だ。


「そんなに謙遜なさらないでください」


 きっとぎこちない口の動きで、私はそう言った。


「いやいや、そういうわけにもいかないよ。こんな爺さんになってしまったからね」 


 西野博士はテレビや雑誌などで見るたびに感じた印象とは違わず、人当たりが良い。私みたいな人にも、しっかりと目を見て優しく話しかけてくれる。さすがはこの世界で何年も生きて、メディアなどとも付き合ってきた方だ。


 他の研究者よりもメディアへの露出が多く、そこで化学の面白さをより多くの人に知ってもらおうと活動している。だからこそ化学を志す者以外の会話にも名前が出てくるくらい有名な科学者である。


「ところで、良ければお名前を教えてくれるかな?」


「そ、そうですよね。すいません、渡橋銀杏と言います」


 私が名刺入れを取り出そうと手をポケットへ入れようと右手を動かす。しかし、私の置いていたワイングラスに肘がぶつかる。そのワイングラスは飲みほしていたおかげで中身がこぼれることは無かった。


 しかし、ワイングラスは倒れた勢いのまま転がる。その先は、テーブルの端だ。


「やばいっ!」


 私は慌てて左手をまわそうとするが体の後ろにあるため間に合わない。落ちると思って耳を塞ぐ覚悟を決めた瞬間だった。白く綺麗な手が伸びてそのワイングラスを掴んだ。


「あ、ありがとうございます」


 私はすぐにその手に向かってお礼をする。ちょうどワイングラスをなんとかテーブルの上に押しとどめようと体を前に倒していたので、その勢いのままに頭を下げる。


「大丈夫でしたか?」


 その手はワイングラスをテーブルの中心辺りに立て、こちらの様子をうかがっているようだった。私は、その声に聞き覚えがあった。


「副島さん……すいません、ありがとうございます」


「いいえ、気にしないでいいんですよ。それより、私もご一緒させていただいても? 西野博士」


「もちろんだよ。ここは少し騒がしいから、私たちのテーブルでどうかな」


「ぜひ。ほら、渡橋さんも行きましょう」


 そう言って副島さんは私の手を引いて、西野博士の方へと歩いていく。私もそれに引っ張られて椅子を立ち上がり、その背中を追った。


「どうぞ、こちらに」


 西野博士は二人分の椅子を引いて、私たちを誘導してくれた。副島さんがその片方に腰をおろすのを確認した後、私も余った一つに腰を下ろす。西野博士が私たちのためにあまりのワイングラスを用意して、そこに新しく赤ワインを注いでくれた。そして、博士の音頭で私としては本日二度目の乾杯が行われる。


「渡橋さん。さっきは名刺を渡そうとしてたんじゃないの?」


 ワインを一口飲んだ副島さんが、私が西野博士に名刺を渡す機会を自然に作ってくれた。その姿もまるで、コマーシャルみたいに綺麗だ。


「そ、そうでした」


 私は、今度はちゃんと手がどこにも当たらないよう周りに気を付けて、名刺を取り出した。両手で頭を下げて渡すと、博士は優しく微笑んで受け取ってくれた。


「そうか、前島君のところで学んでいるんだね。彼は人に教えるのが得意だとは思えないが、どうだろう。不満はないかな?」


「博士は前島教授とお知り合いなんですか?」


 そりゃ、有名人同士で顔や名前くらいは知っていてもおかしくはないし、こういった場所で出会うこともあるだろう。しかし、西野博士の言い方はそれ以上に深く近い関係性から出るような口調だと感じた。


「ん? どういうことだろう」


 私の言葉に西野博士は最初、不思議そうな顔をしていたが、すぐに何かを理解したようだ。少し中心によった顔のパーツが、再び元の位置へと戻っていく。


「ああ、そういうことか。彼はあまり自分のことを語らないだろうから、知らなくてもおかしくないね。実は彼、大学院を卒業してから数年は私の下で働いていたことがあるんだよ」


「ほんとうですか!」


 そんな話、聞いたことも無かった。もちろん、経歴などを調べればそれくらいの情報は転がっているだろうけど、顔見知りの相手に対してネットからその情報を入れることはなんだか抵抗があったため、研究室に入って以後は前島理玖の名前で検索をかけることはなかった。


「あはは、その様子だとやはり彼はあまり多くのことを君たちに語らないようだね。その時から、実験以外には何も興味がないような人物だったからなあ」


 西野博士は昔を懐かしむように笑った。確かに、彼は今も実験と仕事である私たちの教育以外のことはどうでもいいと考えている節がある。年齢で言えば結婚適齢期なので恋人くらいはいてもおかしくないが、そんなことをしている暇があれば勉強、研究と言うような人だ。


 だからこそ、研究室にいる学生がたまに彼のお世話をすることになる。


「でも、彼の名声や金銭にとらわれずにただただ自分の好奇心に従って研究を続ける姿勢は、尊敬に値するよ。少なくとも私にはそれができない。彼のような人の下で化学を学ぶことは将来に必ず生きてくるさ」


 どうやら、西野博士はほどよくお酒が回って気分が良いらしい。こんな打算的なことはあまり考えたくはないが、ここで私が前島教授の力も借りて西野博士に気に入られることができれば、これから先の人生に良い影響を及ぼすことは間違いない。


「副島さんと言ったかな。君も火野君みたいな優秀な科学者の下でこうして研究に打ち込めるというのは幸せなことだ。やはり、我々のような前の時代の人間は研究をすると同時に後進の育成や学習する環境も作っていかなければいけないからね」


 確かに、研究に打ち込めるということだけを考えればここは理想の環境だろう。静かな環境で、俗世間から離れて意識する必要もない。事実、こうしてパーティーでも行われなければしんとしたものだろう。しかし、それらは裏返せば不便であることに他ならない。近くのコンビニへ行くためにはわざわざ山を下らなければいけないし、山を下ったところであるものと言えばコンビニとスーパー、古臭いカラオケとスナックくらいだった。きっと流行りの音楽も入っていないのだろう。少なくとも私はこんなところで何年も研究できるほど精神が強くない。


「本当に、こんなところで研究に打ち込める副島さんはすごいと思います」


「あはは、二人とも褒めてくれてありがとうございます」


 だからこそ、隣にいる副島さんはまだまだ若くて遊びたい年齢なのにこんな山奥にこもって研究をしていることは素直に尊敬できる。本当に人生を捧げたいと思えるような研究が見つかればそういう覚悟も決まるのだろうか。 私はそれが、いまだに見つからないでいる。確かに研究や実験は大変だけどやりがいはあるし、机に向かってひたすらノートをとっているような形式の学びよりは自分の性にあっている。


 だけど、それを仕事として続けていくのかと聞かれれば素直に首が縦に振ることができないのが現状だ。それが決まらない以上は安くない学費を親に出してもらって大学院に進学するのは申し訳ない。両親はお金の心配はいらないと言ってくれるが、それはあくまで私が勉強したいと思えることに対してかけるコストの話だ。就活から逃げるための進学にかけるお金など、どこの家庭にもそうそうありはしないだろう。 私はお酒の力も借りて、思い切って質問してみた。

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