第27話 魂への問答

 桜先生の道場に来た。しかし、病院からどう歩いたのか覚えていない。八咲のこと、彼女の最大の秘密。それらが頭をぐるぐると駆け巡り、いつの間にか目の前には道場があった。

 何も言わない。ここに来る前に足を運ぶことは伝えておいた。勝手に開けて入っていいとのことだった。戸を開ける。来客を知らせる鈴が鳴る。


「……達桐くん」


 先生は道着姿だった。僕の顔を見た瞬間、微かに形のいい眉が跳ねた。

 刀哉は言っていた。八咲の病弱さは桜先生から聞いたと。であるのならば、十中八九、桜先生は八咲の心臓のことを知っている。


「先生、ちょっと、相談いいですか?」

「構いませんよ。私のところにも連絡が来ましたから……八咲さん、ですね」


 こくり、と頷く。先生は「待っててください」と告げて奥へ走った。こういう話をする時の場所は決まって一つだ。応接室へ。実は、窓を開けると縁側があり、夜風が心地良いのだ。

 荷物を玄関に置き、先生の待つ応接室へ向かう。案の定、先生はそこにいた。道着姿のまま、窓を開けて、縁側から夜風を取り入れようと。


「達桐くん、おいで」

「はい、ありがとうございます」


 先生がペットボトルの緑茶を差し出してくれる。それを受け取り、一口飲んだ。


「……先生って、八咲と昔から知り合いだったんですか?」

「実は彼女の父親が私と同級生でして。彼は全日本も何度か優勝していました」


 とんでもない実績に目を思い切り見開いてしまった。


「そ、そんな強いんですか」

「ええ。だから、八咲さんの強さも納得でした。彼が教えていたのなら……」


 八咲のバケモノじみた剣道の強さは才能もそうだろうけど、全日本を何度も優勝したという優れた剣士からの指導の賜物か。あの剣の出生の秘密はこんなところにあったのか。


「だけど、八咲さんと知り合って間もない頃でした。彼女が稽古の途中で倒れてしまって」


 胸がチクリと痛んだ。刀哉が言っていた八咲の病弱な一面。


「……そこで、父親から聞きました。彼女の体のことを。そこからは彼女の家族のことも、すべて……聞いて、いました」


 沙耶の体と、離婚。そして母親の自殺。


「私は何もできませんでした」


 桜先生の体が、微かに戦慄いていた。


「あの子が辛い、不幸な目に遭っているというのに、私は救ってあげることができなかった。何も、できなかったんです」


 鼻を啜る音がした。僕は先生の顔を見ることが、どうしてもできなかった。


「そして……一年前、彼女の口から余命のことを告げられました。私も関係者として医師とつながりがありましたから、隠せないと判断して自ら告白したのでしょう」

「ッ、やはり、知ってたんですか」


「同時に口止めもされていました。さらには、『私の体で私の命だ。お気遣い感謝するが、私の命の使いどころは私が決めるよ』、とまで。何度も間違っていると諫めたのですが、終ぞ彼女は聞き入れようとはしませんでした。結果、私が折れるしかなく……」


 ああ、実に八咲らしい言い回しだ。


「なんか、言ってる八咲の姿が目に浮かぶようです」


 いや、実際浮かんでいる。目の前に投影できる。鮮明に。だからこそ、八咲がもうじき死んでしまうという事実が、どうしても、どうしても受け入れられなくて。


「……八咲は、本当に、すげぇヤツだったんですよ」


 視界が、滲んだ。崩れたパズルみたいに思考が乱れる。


「なんで、八咲が、死ななきゃいけないんですかね」




 八咲に対する感情が、決壊したダムのように溢れ出した。




 半ば文章になってない言葉の羅列をぶちまける。話があちこちに飛び、支離滅裂になっていた。先生を困らせたと思う。感情があまりにも複雑に入り混じってしまっているせいで、自分でも何を言っているのか途中で分からなくなってきた。


 だけど、先生は決して投げ出したりせず、僕の話を一心に受け止めてくれた。


 先生、ありがとうございます。こんな意味不明な話でも、ちゃんと聞いてくれて。

 だけど、こんなに頼れる存在も、八咲にはいないのだ。八咲は己の宿命と、これまでずっと孤独に戦い、生きてきたんだ。そんな彼女のことを、今まで理解できなくて当然だ。彼女と僕の当たり前は大きく食い違っていて、交わることのない世界を生きていたのだから。


 僕と彼女の魂は、乖離していたのだから。


 でも、今の僕は、ただひたすらに、彼女に触れたい。彼女の心を抱きしめたい。孤独に戦ってきた彼女を、少しでも癒してあげたい。彼女を……理解したい。これが僕だけの感情で、八咲はそんな理解なんて望んでいないのかもしれない。でも、彼女は言った。僕の鞘になりたいと。僕と交わることを、彼女は望んでいるのだ。


「先生、僕は、八咲のために何ができるんですか」


 その言葉で、僕の感情の決壊は、ようやく止まった。先生は、黙ったままだった。

 自分で考えろ、そういうことだろうか。実際、それしか言えないんじゃないか。僕が逆の立場だったら、答えなんて出せない。だって、責任が取れないじゃないか。こうしろと助言をし、その通りに動いてもしも最悪の事態になったとしたら、誰が責任を取ってくれるのか。


 後悔しない道を選べ? それもまた、美しい回答だろう。でも、それは責任を全て当事者に丸投げしているだけの、逃げでしかないんだ。後悔しないなんてできるはずがない。人間の心はそんな綺麗にできていないから。この話は、どう足掻いたって後悔しかないのだ。


 僕がトラウマを負わなければ。僕が刀哉を傷付けてなければ。もっと早く、トラウマを克服することに向き合っていれば。答えはもう出ている。故に、他に答えが存在しないのだ。


「剣司君」


 しかし、先生は口を開いた。重い沈黙を破り、


「あなたは、あの子をどう思っているのですか?」


 その声色の、なんと柔らかなことか。

 まさしく聖母。慈愛に満ちた柔和な声。先生はこんなにも優しい声を出せたのか。


「僕が、八咲を?」


 先生は頷く。そして、もうそれ以上、何も言わなかった。

 先生は投げかけてくれたのだ。ならば、考えよう。

 僕は、八咲 沙耶という一人の女の子を、どう想っているのか。


 ……一度本題を見つめよう。

 八咲 沙耶とは何者なのか?


 僕はあの試合以降、八咲 沙耶を理解したいという気持ちが強くなった。

 八咲の孤独な世界の風景を見て受け入れたい。理解がしたい。決して八咲の命を救いたいとか、そんなことは言わない。言えない。


 それこそ、彼女にとって侮辱でしかないからだ。希望の可能性などありはしない夢物語を翳す。大丈夫、助かる。奇跡を信じて。あなたは絶対に死なないよ。


 ふざけんな。そんな奇跡が叶うのなら、とっくの前に八咲の心臓は治ってる。その奇跡が今まで叶わなかったんだ。なのにどうして、今だけは叶うと信じ切れる。それこそ思考の放棄。理解の対極にある拒絶でしかない。八咲は死ぬ。だけど、孤独の世界しか知らないまま、独りで死なせたくないのだ。


 そのために、僕は何ができる。刀哉だって、散々喚いていたが、八咲の覚悟を受け入れたのだろう。ならばそれ以上言うのは無粋だと。文字通り人の命を懸けた覚悟を踏み躙る、外道の所業だと。だから刀哉は自分にできる役割を果たそうとしているのだ。


 強い。剣道だけではない。太陽のような魂を持つアイツは、限りなく強いんだ。

 僕は刀哉になれない。でも、刀哉も僕にはなれない。

 僕にしかできない、僕だけの役割とは何だ。


 一から整理しよう。


 ──八咲は生まれつき体が弱く、心臓の病を患っていた。僕と刀哉の事件のあたりで、彼女は余命を告げられた。その時の絶望は、おおよそ僕なんかが想像することはできないものだ。それでも彼女は絶望を抱えながらも前に突き進み、己の魂の宿命を全うすべく僕の前に現れた。


 以上が、僕が頭に入れておかなくてはならない前提だ。

 真に考えるべきはこの後。八咲の過去を踏まえて、僕と出会ってからを考えるんだ。


 その中で、思い当たる節があれば決して逃してはならない。よく思い出せ。彼女との思い出を。脳裏に焼き付けた彼女の姿を、最期の瞬間まで忘れないように。ここから、僕との関わりの中で、僕にしかできないことを探していく。きっと、見つかるはずだ。

 僕にしかできないこと。僕が八咲をどう想っているかの答えが。


 さぁ、思い出せ。記憶を最初から掘り起こそう。


 初めて見た時の彼女は、まるで剣に愛された存在だと思った。剣の申し子、剣が人の姿を得て竹刀を振っている。そんな感想を抱いた。今なら分かる。彼女から聞こえたあの煌びやかな鉄の音は、彼女の魂に宿っている剣の音だ。


 美しく、儚い、透き通った硝子のように綺麗な、彼女の剣。


 八咲は僕を叱咤した。しかし、あの厳しい言い方も、今となっては僕のためを思って言ってくれたことだと分かる。厳しさの奥に、仄かな優しさも薫っていたのが、分かる。


 三年生を相手に暴君のまま立ち回る姿は圧倒的だった。入学式の時に部長をのしていたのもそうだが、刀哉という強者を従えていたこともなお威圧感を滲ませる要因だったのだろう。


 一緒に食べた団子は美味しかった。あれもきっと、八咲の中では一つの夢だったのだと思う。僕たちと稽古することに加えて、中学の頃にできなかった青春を取り戻そうと。


 僕のことを本気で心配してくれていたからこその、先輩に対する態度、刀哉を引き連れて僕の家に突撃してきたこと、全部全部、八咲は自分の結末が分かっていたから、必死だったんだ。全力で、余裕なんかなくて、自分の願いのために、そして、僕がこれから歩む未来のために、彼女は文字通り命を燃やして、一歩ずつ、一歩ずつ、歩んできたのだ。


 三年生を倒した後の彼女は、本当に陳腐な表現だけど、どこにでもいる女子高生みたいな感じで、美味しいものを美味しそうに頬張って、やったことないゲームでも全力で楽しんで、そして、長年の夢だった僕たちとの稽古も、心の底から笑顔で取り組んで。


 最後の大会、決勝を戦う彼女の剣技は、紛うことなき神へ捧げる舞だった。剣の神様へ、魂を差し出すための儀式のようだった。彼女は剣に愛されている。

 ああ、そういうことか。彼女は愛されているからこそ、命が短いのだ。


 神が早く、彼女の魂を迎えたかったから。


 あの剣舞は、今でも網膜に焼き付いている。瞬きなんか忘れていた。脳天から爪先まで、彼女の姿を今でも思い描ける。

 一生忘れることはないだろう。それほどまでに、彼女の剣は僕の心を虜にした。永遠に続けばいいとさえ、思っていた。


 だが、残酷にも時は来た。彼女の宿命という刃が、彼女の喉元に突き付けられた。

 そうして彼女は、僕と刀哉に全てを話した。


 ──記憶の旅を終える。全てを思い出し、そして再び思い描く。


 八咲の姿を。八咲の声を。八咲の顔を。八咲の剣を。全部、全部、全部。僕は一つも忘れていない。何故なら。僕は、彼女のことを大切に想っているからだ。恩を感じているから。トラウマの克服に躍起になってくれたことに恩を感じているから。


 違う。そうじゃない。もっと踏み込め。僕自身の魂に語りかけるんだ。考えろ。どうして、僕は、八咲の全てを、大切に想える。どうして、八咲を理解したいと、強く想うんだ。


 それは、八咲のことが大切で。

 八咲 沙耶という少女を、僕は──。





「あ、そうか。僕は、八咲のことが好きなんだ」





 ストン、と。魂が腰を落ち着けた。


「気付きましたか。そう、それでいいのです」


 先生は、ずっと僕を見続けていた。否、見守り続けてくれていた。

 そして抱き締める。僕の魂が答えを得たことを喜ぶように。


「なら、もう分かりますよね、剣司君」


 一度、目を閉じる。思い出すのは、大好きな人の姿。

 その姿がもうすぐ失われることを、考えてしまう。


「先生」



 頭に浮かぶのは、八咲の笑顔。みたらし団子を美味しいと言って食べる八咲の笑顔。

 ゲームをしている時の、無邪気な笑顔。念願の稽古ができて喜びに満ちた八咲の笑顔。



 笑顔。笑顔。八咲の笑顔ばかり。焼き付いて、魂に貼り付いて、消えようとしなかった。


「涙が、」


 だけど消える。彼女は死ぬ。大好きな人が死ぬ。

 治る奇跡は起こらない。神に祈っても、現実は残酷だ。


「好きな人が死ぬって、悲しくて、辛いん、ですね」


 先生の、僕を抱き締める力が一層強くなった。嗚咽が聞こえるが、先生の顔が見えなかった。


「その通りです。辛いのです。でも、孤独じゃない。みんな、独りじゃないんです。どうか、どうか私からもお願いします。私にできなかったことを──あなたが、してあげて」


 たとえ死を迎えるとしても、孤独からは解放できる。それが、僕にしかできないことだ。

 彼女に想いを告げ、その果てに報われなくても。彼女の恩に報いる。それだけは、必ず果たさなければならない。魂に──灯が燈った。


 それと同時だった。自室に置いてきた俺のスマホに一件の着信が入っていた。


 LINEのメッセージ。八咲 沙耶。

 今日、二十一時に道着姿でここへ来てくれ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る