第18話 バケモノ

「ナイス、刀哉」


 礼を終えて戻ってきた刀哉に声を掛ける。大将まではあと中堅を挟むだけ、出番はすぐだ。


「サンキュ、まぁこんくらいは余裕よ」

「……にしても、防御に回られなかったのは幸いだったな」


 剣道には三所防ぎという構えがある。完全に攻撃を捨てた防御の構えだ。

 中段の構えから左腕を頭上に持ってきて、剣先が胴と同じ高さになるまで大きく傾ける。そうすることで、竹刀の柄までを使って面、小手、胴の三か所を守る構えだ。


 無論、戦法としては下の下。剣道を冒涜していると言われる覚悟が必要だ。この戦いにおいて僕たちが恐れるべきは、そういった防御に徹されて無念な結果に終わることだった。


「ハッ、やらねぇだろ。俺たちは一年。連中は三年。格下と舐め腐ってる相手に、そんな戦法を取るのは絶対にプライドが邪魔する。自分たちの方が弱いって認めているのと同じだからな。百パー攻め込んでくるって確信してたよ」


 かんらかんら、と面と小手を取って笑い飛ばす刀哉。

 ああ、なるほど。そりゃそうだ。


「沙耶をよく見とけ、剣司」

「え?」

「稽古の時と、本番の試合はまるで違う。試合に挑む沙耶を見るのは初めてだろ」


 確かに、どうしても稽古と試合では雰囲気が違う。緊張感だって段違いだ。本当は強いのに本番に弱いという理由で敗退する剣士を何人も見てきた。実力を十全に発揮することすら、試合においては大きな関門となる。その点、脳内が太陽な刀哉は何の問題もなさそうだ。


「アイツの剣、マジで桁違いだぜ。文字通り次元が違うって感じだからよ」


 一年生の身ながら三年生のレギュラーを倒した刀哉に、ここまで言わせるのか。

 試合場に視線を移す。八咲が完全装備で試合場の端に立っていた。

 黒の道着と袴、そして防具一式。全身を漆黒で固めていた。


 面金の隙間から覗く八咲の目は……閉じられていた。

 まるで寝ているかのよう。精神を集中させているんだろうが、僕はそれが極限まで心拍を抑えておこうとする姿に見えた。本当の勝負の一瞬まで、心を凪にしておくという信念……。


 その姿は、まるで決闘に臨む侍のようだった。

 一撃に精魂を賭す、本物の武士の佇まい。


「……ああ、見ておくよ」


 試合場では、次鋒戦が戦わずして決着するところだった。

 三年の先輩が一人で試合場に入り、蹲踞をして立ち上がる。主審が白い旗を上げて「勝負アリ」と一言だけ告げる。また先輩が蹲踞をして竹刀を納め、退場する。


 すぐに次の中堅戦が始まる。団体戦における中間地点。中だるみすると思いがちだがそうではない。むしろ大将の次に重要といっても過言ではないポジションだ。

 何故なら三戦目ということは、先鋒と次鋒が二敗もしくは二勝で回して来る場合もあるから。つまり中堅とは勝負が決まるかもしれず、または流れが逆転するかもしれない分岐点なのだ。弱い人間を配置することはない。


「オイ八咲」


 中堅──副部長である一ノ瀬先輩が、道場の端から八咲に話しかけた。

 竹刀をバットのように肩に担ぎ、高圧的な態度だった。


「五代から一本取ってるからって調子乗んなよ。戦績なら俺の方が上なんだからな」


 ケラケラ、と下品な笑いを飛ばす一ノ瀬先輩。実はその通りで、試合における過去の戦績は五代部長より一ノ瀬先輩の方が白星は多い。それでも部長ではないのは……ひとえに性格や粗暴な態度が問題なのだろうが。


「──」


 だが、その肩書きを聞いているはずの八咲は微塵も狼狽えない。

 ゆっくりと目を開け、試合場に入る。すり足、竹刀を抜いて蹲踞する。


 一ノ瀬先輩も反対側から同じ動作で入ってくる。身体から発せられる圧力は先の高木先輩と比較にならない。刀哉も戦ったら苦戦を強いられるだろう。

 だが、それでも。八咲の静寂に満ちた眼光は、一切の揺らぎも許さずに敵を見ていた。

 ごくり、と生唾を飲み込んだ。たった一人の小さい剣士に心が呑まれていた。


「始めッ!」という主審の声を合図に、両者が立つ。


「……」

「ッリャあああああああああッ!」


 八咲は気勢の声を上げず、静かに構えた。

 対して、見ているこちらまで震わせるほどの声量で叫ぶのは一ノ瀬先輩。

 その構えを見た瞬間、やはりというべきか。この剣士は強いとすぐに分かった。


 強い剣士は、構えを見ただけでその強さが分かる。

 僕と同じぐらいの背丈だが、筋肉の質が違う。無駄がない。道着や防具越しでは判別し切れないが、それでも道着の袖から覗く筋肉のキレが、一ノ瀬先輩の力の強大さを物語っていた。


 これまでに見た構えの中では群を抜いて綺麗だ。八咲の構えの美しさも引けを取ってはいないが、いざ勝負になると膂力や体格差が滲み出るのではないか……。

 そう心の中で弱音を吐きかけた瞬間だった。




 しゃらん、という金砂を撫でるような音がした。




「──、あ」


 聞き覚えがある。忘れるはずがない。あの日に聞いた、八咲の音。

 それが何なのか、今の僕には分からない。


 皮膚が痺れるような覇気の渦。その中心で、試合はあまりにも静かに進行した。二人は一定の間合いを保ちながら牽制を掛け合う。体重移動、呼吸、足捌き、体の筋肉の起こり……何もしていないように見えて、今二人は高度な駆け引きの最中なのだ。この膠着が終わるのは一瞬だろう。駆け引きを制した方がこの試合に勝つ。


 一糸も乱れぬ両者の立ち姿は、試合を見る全ての者を惹きつける。

 息をするのを忘れるほどの静寂が続く。時間が流れていないのではないかと錯覚する。


 しかし、終わりは唐突に訪れた。


 膂力で勝る一ノ瀬先輩が、掬い上げるのと摺り上げるのを融合させたような動きで八咲の竹刀を中心から外し、間合いへ入り込む。あとは手の内を戻すだけで八咲のがら空きの面を打ち抜ける。緊張が走る。あまりにも洗練された動き。明らかに先輩はこの技を得意としている。


「八咲ッ──」


 振りかぶるのと相手の攻めを崩すことを一瞬で行っている。しかも八咲がちょうど前に出ようとしたタイミングだ。出ばな技としても成立している。

 初見ではまず防げない。呼吸が止まる。八咲の斬られる未来が脳内に描かれた。

 だが、現実に引き起こされた光景は全くの真逆だった。


 一ノ瀬先輩の動きに合わせて、力を中心からズラさないように竹刀を持ち上げる八咲。

 傍から見たら両者は全く同じ動きをしているように見えただろう。

 事実そうだった。八咲は力を中心から外されると直感し、力の逃げ道を上に向けたのだ。


「──ッ」


 その対処に一ノ瀬先輩は驚愕の色を露わにした。動きを見切っていたのか──そう考えてしまうほどに、八咲が行動を起こしたタイミングは一ノ瀬と同じだった。

 二人の体がぶつかるように前に動く。


 動き出しは同時だったが──しかし、体の伸び方が全く違う。

 獲物に飛び掛かる獅子ような鋭さで、八咲の面打ちが一ノ瀬先輩の面を潰しにかかる。

 一ノ瀬先輩も体格を活かし、上から押し潰すような形で八咲の面を狙うが、


 太刀の速度が違う。十全な体重の乗った八咲の一撃は、さながら黒い津波のようで。

 太刀の重さが違う。その打突に込められた強靭な力は、さながら鋼の弾丸のようで。




 一切の勝機も許さないまま、八咲が完全に相面を制した。




 荒ぶる波のような音が道場の空気を破裂させる。それと同時に一ノ瀬先輩の体勢が崩れ、残心もままならないといった足取りで八咲と擦れ違う。


 対して八咲は打突の直後、体をすぐに反転させる。一本を確信した八咲は一瞬だけ一ノ瀬先輩に向けて竹刀を構え、力を流すように足を捌く。

 僅か一瞬。言葉通りの刹那。電光石火とはまさにこのことか。

 瞬きをした間に、一本目は八咲の完勝で幕を閉じた。


「い、一撃……」


 思わずそう言葉を吐いたのは誰だったか。選手全員が唖然と口を開いて八咲を見る。それは僕も例外ではなく、相手の三年生と同じように顎を落としていた。

 無音。誰もが凄惨な交通事故を見てしまったかのような衝撃に打ちひしがれていた。


「……め、面アリ」


 主審も唖然としながら赤い旗を上げた。その判定を皮切りに、道場中からどよめきが漏れる。


「な、なんだ、今の」


 思考が追いつかない。あの一瞬で八咲が行ったのはとんでもないことだった。

 相手の選手が何をしてくるか、それは相手の予備動作で判断するしかない。

 高速で攻防が繰り広げられる競技では、相手の動きを見てから反応していても間に合わない。その中で最速かつ最高の結果を導くための研鑽が長い年月をかけて行われてきた。

 果てに動きは最適化され、洗練されてきたのだ。よって予備動作から相手の動きを推測して対応するというのが格闘技や武道においての定石である。


 しかし、八咲はそんな定石を遥かに凌駕していた。


 予備動作の推測と判断が必須となる中で、一ノ瀬先輩の動きに前兆はなかった。

 先出しされた時点で手遅れ、良くて後手に回って返すしかなかっただろう。

 だが、そう言った常識を破壊するかのように、八咲は相手の動きの一歩先を捉えていた。


 あんな動きは見たことがない。少なくとも──僕の知る剣道では理解できない領域だ。


 これが、八咲 沙耶。刀哉に次元が違うと言わしめる剣豪の正体か。

 目を奪われた。瞬きができない。思考を奪われた。言葉が出ない。心を奪われるとはこういうことか。芸術ともいえる八咲の打突は、僕の脳裏に一生消えない刀傷を刻んでいった。


 試合はどよめきを他所に進行する。まだ終わっていないのだ。二本目が待っている。もしも八咲が取られたら勝負の三本目もある。

 だが、そこまでもつれ込むことはないだろう。一ノ瀬先輩も強い。あの技を自分が出されて、初見で完璧に対応できるかと問われれば首を横に振る。肩書き通り実力者なのは間違いない。


「だけど、それすらも嘲笑うように捻じ伏せるのか」


 主審の再開の声がかかる。三年生たちはまさか自分達の中堅が圧倒される光景など夢にも思っていなかったのだろう、必死の形相で一ノ瀬先輩を応援し、焚き付ける。

 八咲からしたら半端ではないプレッシャーのはずだ。

 それでも八咲の不動が揺らぐことはない。その美しい佇まいが崩れることは終ぞなかった。


「この女ぁ、調子乗りやがって……」


 傍から見ても一ノ瀬先輩が怒りに震えているのが分かる。

 このまま殴りかかってもおかしくない勢いだったが、さすがに暴力などは使わなかった。しかし、代わりに暴れるような竹刀捌きで八咲の構えを崩しにかかる。


「くたばれェッ!」


 ガッ……と構えから大きく剥がされた八咲の竹刀。その隙を逃さず、渾身の力を込めた面打ちで潰してやる──そんな意思を込めて一ノ瀬先輩が振りかぶる。

 しかし、八咲の竹刀は大きく動いても、手首が中心から全く動いていなかった。


「貴様がな」


 耳を塗り潰すようなドスの効いた声と共に、先程と全く同じ──否、先程よりも鋭い速度とキレで八咲が面打ちを繰り出す。一ノ瀬先輩は竹刀を振りかぶっていたが、中心から外れた位置だった。力任せに打とうとした結果、力が入ってしまい、竹刀がブレたのだ。

 対して八咲の竹刀の軌道は、鉄が通っているのではないかと思うほどにまっすぐだった。


 息を呑むほど美しい弧が描かれた。

 再びの相面。一本目と全く同じ結果が生み出された。


 唯一違うのは互いの残心。脇を擦り抜けるようではなく、正面からぶつかって互いに離れていくような残心だった。しかし、込められている覇気が圧倒的に違った。天を突くように挙げられた二人の両腕。その動きの勢いと気勢の鋭さの違いは、火を見るより明らかだった。


「こ、の……バケモノ、が……」


 思わずそう唸ってしまうほど、八咲の強さに脱帽する一ノ瀬先輩。

 三本の赤い旗が上げられた。


 試合時間、僅か五秒。打った本数──たったの二太刀。

 ここに、中堅戦は八咲の面二本で決着した。

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